母を助けたい一心で、幼くして日銭を稼いだ子ども時代。パイロットを目指すも夢破れ、いくつもの事業を経て49歳で開店した「すしざんまい」は、新鮮な寿司をいつでもリーズナブルに食べられる店だ。情熱とアイデアで走り続けて半世紀。良質なマグロを求めて、とどまることを知らず、今日も世界の海を飛び回る……!
母の教え「助け合って分け合ってこそ」
2024年1月1日、能登半島を地震が襲った。
「すしざんまい」の社長・木村清さん(72)は、早速、ヘリコプターで能登に物資を運ぶ手配をした。そのときのことを、木村さんは振り返る。
「道路が寸断されて物資が届かない、と連絡があったんですよ。まず船で運ぼうとしたんですが、港にも止められない。それで、海上自衛隊や民間のヘリを持っている会社に連絡し、空輸で運ぶように依頼したんです」
“困ったときはお互いさま、助け合って分け合ってこそ”という母の教えが、木村さんを駆り立てたのだ。「すしざんまい」の社長といえば、初競りで青森・大間のマグロを数年にわたり高額落札したことで話題になり、“マグロ大王”との異名をとる人物であるが、今年は最高値での落札はしなかった。“こんなときにお祭り騒ぎをやるもんじゃない”という判断だった。
現在、全国に49店舗を展開する「すしざんまい」だが、木村さんが東京・築地に1店舗目を開いたのは、2001年4月のことだ。24時間年中無休で、常に新鮮なネタをそろえ、いつも同じ値段で提供する明朗会計──これまでの寿司店の常識ではありえなかったものに、あえて挑戦した店だ。
深夜、築地に来るトラックドライバーを当て込んでの終夜営業。しかし実際は荷物を下ろし、さっさと帰っていく。初っぱなからの大誤算に、木村さんは慌てた。「それで、親しくしていた銀座のママたちを訪ね、営業終了後にお客さんを連れて来てくれないかとお願いしたんです」(木村さん、以下同)
銀座と築地は、程近い。懇意にしていたママたちに頼み込むと、深夜の「すしざんまい」には、上品な着物姿の女性と紳士たちが次々とやって来た。そして“あの店は四六時中いつでもおいしい寿司が食べられる”と評判になり、外国人たちが成田空港から直行するほどの人気店となった。
木村さんのピンチをチャンスにかえる術は、これだけではない。子どものころからの波乱に富んだ人生、たびたび訪れた危機を次なるチャレンジにし、いくつものビジネスを成功させてきたのだ。
早くに父を亡くし、母を助けて働く
木村さんは、1952年、千葉県野田市に農家の末っ子として生まれた。上には2人の姉がいる。4歳になる前に父は事故で死亡し、その葬儀のときふと空を見上げると、赤い戦闘機、F―86セイバーが飛んでいた。
「それがカッコよくて。あの飛行機のパイロットにいつかなりたいと思いました」
父の亡き後、多額の借金が判明し、母は3人の子どもを育てながら、借金の返済に追われた。昼は農作業、夜は内職。寝る間も惜しんで働いてもカツカツの生活だった。
清少年は、母を助けたいと、ウサギや鶏を育て、増えたウサギや卵を売った。小学生になると、新聞配達、農作業の手伝い、ゴルフ場でのキャディなどもして家計を助けた。このころが後の商人・木村清の原型となっている。
ある日、母が知人の法要に出席。そこで出された折りの中にあった、ほんの2切れのマグロの切り身を、大事に持ち帰ってきたのだ。
「半分に切って分ければ家族4人で食べられる。みんなで食べたほうがおいしい」
その母の言葉と、分け合って食べた半切れのマグロのおいしさは、木村さんの心に生涯、残るものとなった。
中学校の成績は優秀だったが、木村家に清少年を高校に通わせるだけのお金はなく、給料をもらいながら学べる航空自衛隊第4術科学学校生徒隊に入隊した。
「ここなら憧れのパイロットにもなれると、張り切って行きましたよ」
15歳で、埼玉県熊谷市で自衛隊の寄宿舎生活。6時起床、腕立て伏せやランニング、柔道、剣道など、過酷な訓練を受けながら、通信制で高校の勉強をした。ところが、自分たちは通信兵として入隊したことがわかる。
パイロットになるには、大学に入る必要があると知り、大検を受けるためにさらに猛勉強。大検に合格し、難関を突破して空曹候補生の資格を得るも、入隊4年目、3等空曹として任官時に、頭に負った大ケガで目のピント調節力が少し低下。
これにより、戦闘機パイロットにはなれないことが決定。自衛隊を退官した。わずか20歳で子どものころからの夢を諦めることになる。
次に目指したのは、司法試験合格だ。せっかく大検に合格したのだからと中央大学の通信課程を受講する中で、最難関の資格に挑戦することに決めた。勉強するためには、時間もお金も要る。自衛隊を辞め、手元には給料など68万円のお金があった。そのお金のほぼ全額を株に投入し、2か月後には250万円を超えていた。
「そのお金を元手にモーテル経営をしないかと声をかけられ、足りない分をおふくろに借りに行ったんです。そしたら“金は貸すが、二度と来るな”と言われてね」
厳しい母の言葉で目が覚め、何のために働くかを考えるようになった。その後、紆余曲折を経て、出会ったのが水産関係の新洋商事。ここで仕入れやビジネスの基本を学び、「すしざんまい」オープンへとつながっていく。
21歳で入ったこの水産会社では、できたばかりの冷凍食品の担当に配属された。食品を扱う中では、廃棄される食材が出る。
「小さな切り身とか、足が8本そろってないタコとか、みんな捨てられていた。もったいないでしょう」
スライスして寿司ネタにし、安く寿司屋に売り込んだら、大当たり。モンゴウイカの耳はすり身にしてちくわの材料に、余ったスケトウダラは白身魚のフライにして弁当屋に卸す。冷凍食品を使った病院食や居酒屋メニューも開発。次々アイデアがひらめき、行動に移していった。
深夜1時前に起き、トラックに冷凍食品や魚を積んで走り回り、朝8時の始業に間に合わせ、終業後も夜10時過ぎまで働いていた。すっかり商売の面白さにとりつかれ、睡眠不足もオーバーワークも苦にならなかった。
さすがに勉強する時間はほとんどなくなり、法曹界に入ることは断念したが、大学は7年かけて卒業。新洋商事は退職した。
「“水産会社の範囲を超えては困る”と言われちゃってね。この会社に3年くらいいたかなぁ。ビジネスの基本を学び、いろいろな挑戦もさせてもらい、勉強になったね」
銀行の裏切りで人生最大のピンチ
1979年、27歳で「木村商店」を起こす。といっても、間借りした部屋の隅に、机とイスと電話を置いただけ。まず水産物から取り扱い、徐々に利益を上げていった。半年後には弁当店を開き、1年後には冷凍魚介類、本マグロも扱うようになる。海外にも目を向け、漬物を中国で生産したり、鶏をタイで育て、その肉で唐揚げを作ったり。
「30歳のとき、ハドソン川の河口にあるマーケットに行ったらマグロが安い値段で売られていて驚きました。大トロも赤身も全部同じで1キロ200円ほど」
もちろん買って帰った。
コンテナを利用した、カラオケルームやレンタルビデオ店の経営も始めた。レンタルビデオはコンピューターで管理システムを作った。
「どちらも当たって、カラオケなんか3000室もあったんだよ」
豪快に笑いながら、当時を振り返る。
どんなことがあっても、どこへ行っても、アイデアをひねり、ビジネスにつなげるのが木村さんだ。アメリカにマグロ釣りに行けば、ウニやウナギが手つかずのままいるのを発見。
食文化が違えば安く入手できると知り、格安で輸入した。地中海を旅行中に、スペインから“いいマグロがある”と電話をもらって、駆けつけて冷凍し、日本に送ったこともある。こうして世界のどこに、いつ、いいマグロが獲れるかわかるようになり、独自の輸入ルートをつくっていった。そして、手がける事業はいつしか80を超える数になっていた。
そんなイケイケの木村さんだったが、事件は起きた。木村さんが海外出張中に“メインバンクの担当者が家に来た”と妻から国際電話が入った。“いつもの手形の書き換えだろうから、印鑑を押していい”と伝えたのが、事の始まりだった。
「ところが、それが“手形貸付を一括返還する”という内容だったんだ。そんな大事なことは私に直接、説明すべきでしょ!」
木村さんは激怒し、銀行に抗議したが、後の祭り。妻は自分のしたことに震え、泣き出してしまった。
「仕事っていうのは、家族を幸せにするためにやるもの。なんで泣かせてしまったんだ、と反省しましたね」
と、しんみり。だまし討ちをされたショック。だが、そのとき銀行側も経営破綻寸前だったことを後から知る。
一括返済に加え、バブル崩壊後、他行からも数百億円の借入金の返済を迫られ、すべての事業を整理するしかない。独立したい担当社員には独立してもらい、ビジネス仲間に引き取ってもらえる事業は、引き継ぎをお願いした。パイロットも法曹界も諦め、ようやく成功の階段を上がっていたはずなのに、銀行の裏切りでハシゴを外され、どん底に突き落とされた。
事業の整理がほぼ終わったころ、ビジネス仲間からゴルフに誘われた。ラウンド中に妻から電話があり、「知らない人たちからどんどんお金が振り込まれている」と言う。
振り込み側の名前を聞くと、なんとその場にいる仲間たちの名前だった。そのために彼らはゴルフ場に集ってくれたのだった。
「木村さん、マグロの夢があるんだろう。そのためにお金を使ってよ」
「応援しているよ、頑張って」
と口々に言ってくれた。借用書も返済期限もなく、応援の意味だけでお金を振り込んでくれたのだ。この恩には必ず報いよう、木村さんは心に誓った。この支援金は、のちに『マグロファンド』と呼ばれるようになる。
築地の10坪の小さな寿司店から「すしざんまい」へ
事業を清算し、手元に残ったのは300万円。うち200万円で築地に寿司店「喜よ寿司」を開いたのは、1997年。10坪の小さい店からの再スタートだった。
回転寿司より品質が良く、高級寿司店より手頃な価格で食べてもらいたいと、これまでの人脈とノウハウを生かして、新鮮なネタを仕入れ、リーズナブルな値段で提供することにした。
木村さんの原点は、幼いころ家族で分け合った2切れのマグロ。多くの人に、おいしい寿司を安心して食べてほしいと思ったのだ。「喜よ寿司」の評判は口コミで広がり、行列ができる店となった。さらに、コンビニや弁当店など経営を広げていった。
しかしバブル崩壊後、築地は観光客が激減し、空き店舗も目立つようになっていた。ある日、築地場外市場にある老舗の食器店のオーナーが訪ねてきて、懇願された。
「土地を貸すから、もう一度、築地に人を集めてくれないか。保証金は儲かってからでいい。木村さんの仕事ぶりをずっと見てきて、君ならできると思ったんだよ」
新洋商事に入社以来30年、築地は木村さんにとって常に学びの場であり、成長の場であった。
「築地復活のために、恩返しのつもりでやろう!」
木村さんは決意し、そして考えた。どうやって築地に人を呼ぶか? やはり魚、寿司だ。どんな寿司店なら喜ばれるか? お客様が、食べたいときに食べたいお寿司を、安心して食べられる寿司店はどうだろう。そのためには、24時間年中無休営業、ネタは常に新鮮なものを75種類以上、メニューは150以上そろえよう。
2001年、ついに寿司店「すしざんまい本店」は誕生した。
この木村さんの挑戦を評価してくれたのが、現在では小説家として活躍している江上剛さんだ。江上さんは当時みずほ銀行築地支店の支店長で、融資先を探して築地を歩いていた。
「流行っている店があったんです。それが『喜よ寿司』。24時間営業の『すしざんまい』もやっていました」
と、江上さんは当時を振り返る。
「24時間営業の寿司店というのに興味を持って、朝・昼・晩と自費で食べに行ってみたのですが、いつ行っても鮮度のいい寿司を出していた。従業員がまじめできちっとしていたのも、好印象でした」
築地の近くには、不夜城の新聞社、テレビ局、大手広告代理店などがあり、これらの会社の人たちで深夜の「すしざんまい」はにぎわっていた。江上さんは、画期的な寿司店だと興味を持ち、木村さんを訪ねた。そのときの会話を今でもよく覚えている。
「木村社長は、元気よくニコニコと出てこられて“おいしい寿司を提供したい”と熱い思いを語られたんです」
木村さんは「喜よ寿司」「すしざんまい」のほかに、弁当店なども経営していた。
「私は“寿司屋1本に絞ったらどうか。それであれば、ぜひ融資をさせていただきたい”と申し出ました。木村さんは“わかりました”と即断でした」
木村さんはすべての人材を「すしざんまい」に注ぎ、融資を受けてほかの店舗も展開した。江上さんは銀行員として“挑戦する人を応援したい”と決断し、木村さんにはその応援に応えて、店を大きくさせていった。「すしざんまい」の繁盛をきっかけに、築地に人が戻り、周囲の寿司店にも客足が増え、街に活気が戻ってきた。
その後、銀行を辞めて作家となった江上さんは、コメンテーターなどでテレビにも出演。テレビ局のスタッフを連れて食べに行ったこともある。
「相変わらずおいしくて、あのとき融資をしてよかったと思いました」
マグロを守る工夫も
今年5月の爽やかな日、木村さんはモロッコ大使公邸を訪れた。ラシャッド・ブフラル大使はモロッコのお茶とお菓子でもてなし、ふたりは友情を温めた。大使は言う。
「ミスター・キムラは情熱と思いやりにあふれる人。家族ぐるみのお付き合いをしています」
木村さんとモロッコとの出会いは30年前にさかのぼる。あるとき、モロッコ政府関係者からマグロ漁の指導を求められた木村さんは、現地を視察し、これでは寿司ネタにはならないと、傷つけずに獲る方法、さばき方・保存方法などを徹底教育。いい状態のマグロを輸入することで、大使はもちろん、王室、政府要人にも信頼され、交流を深めてきた。
輸入しているのはマグロなどの海産物だけではない。大使は取材班に、1本のワインを見せてくれた。
「モロッコはワインの産地でもある。このワインの名は『シャトー・キムラ』です」
木村さんの功績をたたえ、その名を冠したワインだった。木村さんは破顔一笑、
「うまいんだ、このワイン。うちの店で出す予定です」
と、紹介してくれた。
回遊魚のマグロは世界の海を泳いでいる。木村さんも漁場から漁場へと移動する。2005年ごろ、キハダマグロやバチマグロの世界的な好漁場であるソマリア沖では海賊被害が多発していた。木村さんは海賊たちがもとは漁民だったことを知ると、
「君たちは海賊をやって、盗んだお金で子どもを育てるのか。それよりもいい魚を獲ってくれれば、喜んでお金を払う。後ろ指さされない生き方をしようよ」
と諭し、漁業指導をした。世にいう“すしざんまい社長の海賊退治”の顛末だ。この活動で、木村さんはジブチ共和国から感謝され、勲章をもらっている。木村さんのエネルギッシュな行動とフレンドリーな笑顔は、各国の要人も虜にしている。
バブル期、世界中から日本に向けてマグロ輸出が盛んになった。日本の一本釣りとは異なり一網打尽に何千尾ものマグロを獲る巻き網漁では、傷ついた魚も稚魚もお構いなしだ。木村さんは思った。「これでは魚が焼けや身割れを起こして質が下がってしまう。さらに絶滅の危機に瀕するのも時間の問題だろう」
そこで考えついたのが「マグロの備蓄」。これは、海の中につくった巨大な生簀に、成長したマグロを入れて、元気な状態を保ちながら産卵させ、大きくなったマグロを必要な数だけ出荷すること。研究と工夫で、世界数か国の海にマグロの生簀ができた。
「もうマグロが増えて、増えて(笑)。自然にお返ししながら、人間もいただく」
同様に、ほかの魚もエビも備蓄し、残飯を堆肥にして米や野菜も作ってお店に出している。
「うち、百姓だったからね。米や野菜作りは子どものときから手伝っていたんだよ。SDGsなんて50年前から取り組んでいます」
東日本大震災、コロナ、処理水
アイデアマンの木村さんだが、「すしざんまい」の経営が常に順風満帆だったわけではない。2011年の東日本大震災では、木村さんは、スタッフを連れて避難所を訪れ、マグロの解体ショーを披露。無料で寿司を配った。
「うちの店も厳しかったよ。でも、もっと大変な人がいる。みんなでマグロを食べて笑顔になってくれたら、私もうれしいからね」
合計8回、被災地に足を運び、解体ショーをした。
その後店に客が戻り、店舗も増えて順調に伸びてきたが、2020年にコロナ禍が襲う。飲食店は休業や時間短縮で、いつ完全に再開できるとも知れず、閉店・倒産する店も少なくなかった。
「うちは従業員も減らさず、全員にピッタリ給料を払った。“店を閉めていても、30分でも1時間でも店に来て、話をしたらいい”とも言ったね。誰にも会わず、家にいたらおかしくなっちゃうでしょう?」
それまでの蓄えは、コロナでの事業存続のためにすべて消えたが、通常営業に戻ったとき、スタッフはみな健康な笑顔で客に接することができた。経営も立ち直り、ホッとしたのもつかの間、今度は福島原子力発電所の処理水の風評被害が降りかかる。
「去年の8月、処理水を流し出したときには、20~25%売り上げが落ちたね。今、ようやく戻ってきた。外国の人も来てくれるようになったしね」
幾多の危機を乗り越え、命をいただくことに感謝しながら、働くことの意味を自分自身にもスタッフにも説き続けてきた。
前出の江上さんは言う。
「木村さんには情熱がある。“おいしいマグロを安心して食べてもらいたい”という思いを貫いている。それが成功の秘訣だと思います」
木村さんの母は、2005年に94歳で亡くなった。母のベッドに集まった子どもたちは、苦労して育ててくれた母に「ありがとう」と感謝を伝えた。
「すると母は“おまえたちがいたから私は元気にこられた。おまえたちによって生かされたんだよ。生かしてもらって、ありがとう”って。これには感激したね」
この母にして、この息子あり。モロッコ大使のブフラルさんは言う。
「2023年にモロッコで大地震が起きたとき、すぐに連絡をくださり、寄付金も届けてくれました。いつでも支援を惜しまない、温かい人です」
今年はロサンゼルスに「すしざんまい」初の海外出店を目指している。
「海外においしいマグロを提供するシステムがない。日本の衛生管理が行き届かないと寿司文化は広がらない。でもうちには10年以上店長をしてきた経験豊富な社員も、数百人の職人もいるからね」
マグロは止まることなく泳ぎ続けている。木村さんの挑戦もまた、止まることなく続いている。
撮影/佐藤靖彦