余命宣告を受けた2019年9月末。全身にがんが転移し、骨はヒビだらけで歩くことができず寝たきりに。トイレもニコさんに抱えていってもらっていた 写真提供/ミミポポさん

 26歳で乳がんが見つかる。一度は縮小したものの、その後大きくなり、34歳で余命2か月と宣告された。「後悔はある。でもそのときの自分にベストな選択。希望を持って病と闘い続けたい」そう力強く語る。

今までに経験したことがないくらいの恐怖

 アパレル販売員としての仕事を楽しんでいたミミポポさん。今から13年前の26歳のとき、全身脱毛に備え、胸の産毛を剃っていたら指先にコリコリしたものが当たった。

右胸の内側に、パチンコ玉くらいのしこりがあったので病院に行ったんです」(ミミポポさん、以下同)

 診察時、医師から「たぶん良性のしこりだと思うけど、若いし、念のため細胞診をしましょう」と言われた。

後日、ステージ0の乳がんだと告げられたときは、今までに経験したことがないくらいの恐怖に身がすくみました」 

 医師が提示したのは、外科手術のあとに抗がん剤治療をするという一択。

身近に乳がんの患者もおらず、知識もないのですぐには選べませんでした」 さらに「若いからとにかく早く手術を。もしかしたらリンパも取るかも」と矢継ぎ早に言われ、混乱したという。

急かされて一度は手術を決めました。でも、乳がんは再発や転移が危ないと考えていたのに、直後に予定していた韓国旅行に行っていいか聞くと『手術さえしたらあとは好きにしていい』と簡単に言われたことで、本当に私の命を預けていいのか不安になり、医療不信のような状態に。今は告知後、看護師さんなどがフォローしてくれることが多いそうですが……

近所に住む母のパートナー、ニコさん。「父親とはまた違った、家族のひとり。頼りになる存在です」 写真提供/ミミポポさん

 できれば身体を傷つけたくなかったので、ひとまず調べてみようと、手術をやめた。

自分で調べるといっても当時はネットの情報量に限度があり、患者のブログはどれも怖い話ばかり。パソコンを開けるのも次第に憂鬱に

 そんな中、独自に東洋医学を取り入れた病院を探し、色彩療法の存在を知る。色彩療法とは、色が持つパワーを利用して心身を元気づけるものだ(医療行為ではない)。

写真提供/ミミポポさん

 闘病のため、ひとり暮らしをやめて実家に戻り、パーソナルカラー講師の仕事をしながら、色彩療法と免疫力を上げる食事などを2年間継続。すると、腫瘍が1.5cmから6.5mmに縮小した。

このタイミングでの外科手術も考えたのですが、『このまま消えるかも』と期待し、その後も色彩療法と食事療法を3年ほど続けました

「花咲き乳がん」と呼ばれる状態に

 一見、順調に見えたが30歳前後から腫瘍が大きくなり、ついには皮膚から飛び出す。

2018年には少しの刺激で腫瘍から大出血するようになっていたのですが、仲のいい友人以外には乳がんであることを伝えていませんでした。カフェで働いていたころは激痛が走って出血しても痛みに耐え、トイレでこっそりガーゼで止血して我慢。薬に対してもナーバスになっており、当時は痛み止めも飲んでいなかったんです

 がん細胞が露出した「花咲き乳がん(花が咲くような見た目からつけられた通称で、局所進行乳がんのひとつ)」と呼ばれる状態だった。進行すると滲出液が分泌されたり、出血や痛み、

 悪臭が生じるという。最初に告知を受けた病院で診てもらうと、手術ができるかできないかの瀬戸際と告げられる。

大学病院も受診しました。腕を伸ばすと腫瘍の近くの血管から出血することを伝えていたのですが、検査のために腕を上げるように言われて、その場で大出血。このとき、医療機関への不信感がさらに強まってしまったんです

 だんだん脚にも痛みが出て、身体の自由がきかなくなっていった。出血に伴う貧血もひどかったが、病院に行って標準治療をしない患者に輸血はできないと帰されたこともあり、医療機関から足が遠のいてしまう。

そのころには骨にも転移していたようです。でも“諦めないこと=忍耐”だと勘違いしていた私は『自分でなんとかしなきゃ』という思いが強く、周りに相談できなくなっていました

 さすがに仕事ができる状況ではなくなり、24時間全身が痛くてほぼ寝たきりに。飛び出た腫瘍の厚みは約6cmになっていた。

母が知人に相談し、訪問看護を教えてもらったことが、私の転機になりました。来てくれた看護師さんが私に、『今まで大変だったね。これからは私たちにも何か手伝わせて』と言ってくれたことがうれしかった。その看護師さんが、外科手術や抗がん剤治療をしなかった私を責めたりしない、近所の訪問医を探してくれたのです

介助なしで旅行へ行けるほど元気に。今年、母と1泊2日の沖縄弾丸旅行へ。観光やグルメなどを満喫した 写真提供/ミミポポさん

 医師とつながったことで、やっと自分の命が危険な状態だと実感し、病院で診察を受けることを決断する。訪問医は方々に手紙を書き、今の状態での治療を受け入れてくれる専門医を見つけてくれた。

一緒に告知を受けた母のほうが泣いていた

信頼する先生がつないでくれた専門医と病院だったので、徐々に心を開いて診察を受けられるようになりました

 2019年9月末に再度検査をすると、乳がんは骨や肺、膵臓、肝臓に転移しており、ステージ4にまで進行。極度の貧血で胸水がたまり、骨は穴だらけでヒビだらけ。左大腿骨は3分の1がすでになくなっていた。

このときは生きることに必死で余命2か月と聞いても不思議と恐怖心はありませんでした。『これだけ痛いからそうだよな』と、どこか冷静で、一緒に告知を受けた母のほうが泣いていましたね

 その後、入院してホルモン治療を始め、今に至るまで抗がん剤治療を続けている。当時、介助が欠かせなかったミミポポさんを支えてくれたのは家族だ。

両親は私が3歳のときに離婚をしていて、母には現在、パートナーのニコさんという方がいます。私がほぼ寝たきり状態のとき、いちばん助けてくれました

 自力で姿勢を変えたり、起き上がることもできなかったため、仕事で不在の母の代わりにいつも横にいてくれた。

父ではないけれど“ファミリー”という感覚はあります。痛みに耐えていたころは、トイレに連れていってもらうことも。ですが不思議と恥ずかしいという感情はなかったですね。私は甘えるのが下手で、母とちょっと距離をとっていた時期もありましたが、病気がきっかけで素直に自分をさらけ出せるようになり、母ともいい関係になってきたと思います

 離れて暮らしていた父との関係も変わった。

標準治療をしないことに父は最初、反対していたので、私からは連絡を取らなくなっていたんです。母からステージ4と聞いた父はすぐ飛んできて、すごく泣いていて。わかりにくかった父親からの愛情に気づけた。今は私のがん治療について調べてくれ、頼りになる相談相手です

写真提供/ミミポポさん

自分の身体の状態を知ろうとしなかったことには後悔しています。とはいえ、そのときの自分なりにベストな選択でしたし、今となって無駄に落ち込むのは意味がない。失敗もひっくるめて私の人生だと考えています

私のような後悔をしてほしくない

 現在、骨や肝臓へ転移したがんは少し残っているものの、肺と膵臓からは消えている。7月には動脈瘤破裂で救急搬送されたが、死ぬつもりはまだまだないと明るく語る。

私は負けず嫌いで諦めが悪いんです(笑)。今は右胸に出ていた腫瘍や痛みもなく、歩けるようになりましたし、あのころに比べると幸せすぎる毎日。これからは病気から得た学びや気づきを自分の未来に生かしていきたい。いろいろな意見はあると思いますが、ほかの人には私のような後悔をしてほしくないので、ありのままの経験をSNSなどで発信していきたいです

 昨年末からは闘病中の患者でも安心して食べられる、小麦粉・砂糖不使用のパンや菓子を販売するオンラインショップ、「SiSi」も始めた。

自分用に作っていたら、フォロワーさんから『食べたい』という要望があったのがきっかけ。体調的に大変ではありますが、働くのは好きなので、闘病経験を生かせるこの仕事が今の生きがいです

取材・文/鈴木晶

ミミポポ◎ユーチューバー&ブロガー。26歳のときに乳がんの告知を受け、34歳で余命宣告を受けた。乳がんの経験を通して学んだことや気づいたことをリアルにつづったSNSが「リアル!」と人気。https://ameblo.jp/mimipopo-note/