角田夏実 撮影/JMPA

 柔道女子48kg級の角田夏実が、7月27日にパリ五輪において日本勢初の金メダリストに輝いた。これで夏季五輪において日本の獲得したメダルは通算500個となった。

「彼女は二重のプレッシャーの中、戦っていました」

 と話すのは角田が通っていた千葉県・八千代高校時代の“恩師”である石渡正明さん

「試合の順番から、日本人金メダル第1号になる可能性や通算メダル獲得が500個目ということを、新聞やテレビ局の記者に何度も聞かされ、角田は“もう耳をふさいでいた”と話していました」(石渡さん、以下同)

「私はケーキ屋さんを目指す」

 金メダルを獲得しただけでなく、栄えある記録を樹立した角田だが、実際には追い詰められていた。石渡さんは高校柔道部の監督だった。

「表彰台で大粒の涙を流す角田を見て感動しました。というのも、角田は世界選手権を3連覇したときも表彰台で涙を流すことがなかった子なんです。私が見たのは過去に1回と今回だけ。初めての五輪で、相当な重圧の中で戦っていたと感じました」

 出会ったころは意外にも“泣き虫”だったそう。

高校に入った当初は、練習試合などで毎回泣いていたんです(笑)。そういう生徒には“気持ちで負けるな!”と活を入れるんですが、角田の場合は相手にビビって泣いていたわけではなく、武者震いのようなもの。緊張も相まって感情が高ぶっていたんでしょう。泣いた後は、試合に勝つ。まさに泣けば泣くほど強くなっていました。とはいえ、泣くのも高1の中盤まででしたけどね」

 順調に力をつけていった角田だが、挫折も味わった。

「高校2年のインターハイは3位。翌年は優勝を目指そうと頑張ったのですが、結果は5位でした。それでも才能のある選手でしたから、角田には強豪校に進んでほしいと思っていました。しかし、高校3年の進路相談で強豪校や実業団をすすめても首を縦に振らない。角田は“私はケーキ屋さんを目指す”と……

 幼いとき、父親に連れられて行った警察署の柔道場から角田の金メダリストへの道はスタートした。しかし、大好きだったはずの柔道が、嫌いになりかけていた。

「頑張ったけど結果が出ず、もう限界だと本人は思っていたようです。なぜケーキ屋さんかというと、角田のお父さんが自宅でよくケーキを作ってくれていたそう。学校にも持ってきて、それを食べた部員たちが“美味しい!”と騒いでいました。そういった影響があったのだと思います」

柔道強豪校ではない大学に進学したワケ

 そんなとき、東京学芸大学から推薦の話があり、石渡さんは角田に伝えた。

「すると“行く”と言うんです。学芸大は、他の強豪校と比べると、柔道部のレベルはまだまだこれから。練習もそこまでハードではなく、強くなれる環境があるのか私も疑問でした。ただ、角田が柔道を続けてくれるなら……そう思って送り出しました」

 石渡さんは、角田が柔道と触れ合える場所に居続けることが大切だと考えた。そして、この“策”が吉と出る。

「角田は勉強もできて頭もいい。だから、柔道も自分で考えて練習をする子でした。大学では柔道部の監督が型にはめず、自由にやらせてくれたこともプラスに働きました。途中からは“もっと柔道がしたい”という気持ちを抑えられず、他大学へ練習に行くようになったんですよ

母校八千代高校の横断幕。角田夏実は勝田台中学では敵なしとなり、中3のときすでに出稽古に通ったそう

 トップクラスの選手へと成長したが、東京五輪への出場を逃すなど、再び苦しい時期が続いた。

「柔道をやめようと考えたこともあったようです」

 だが、諦めなかったことで、世界一へと輝いた。

「学芸大に進んでいなかったら、今の角田はなかったと思います。さまざまな出会いが、彼女を金メダルへと導いたのだと思っています」

 角田の頬を伝った涙は、金メダルと同じくらい輝いていた。