これまで日本が個人で獲得したのは銀メダルが最高だったフェンシング。その歴史が塗り替えられた。フェンシング男子エペ個人で7月28日、加納虹輝が金メダルを獲得して快挙を達成した。
無名だった中学生時代
「メダル獲得後、きっと虹輝には“おめでとう”という連絡はいっぱい来ていると思ったので、私は高校時代の写真と一緒に“当時は、こんなすごい選手になるとは思いませんでした、すいません”と冗談めかしたメッセージを送ったんです。虹輝からは“めっちゃ懐かしいですね。ありがとうございます。団体も頑張ります”と返事が来ました」
加納の恩師であり、愛知県フェンシング協会常任理事である冨田弘樹さんは、声を弾ませながらそう話した。
愛知県出身の加納は、2008年の北京五輪で銀メダルを獲得した太田雄貴に憧れて、小学校6年生からフェンシングを始めた。しかし、中学までは思うような結果を残せていなかった。そこで加納は単身、山口県にある岩国工業高校へと進学。当時、同校でフェンシング部の監督だった冨田さんは、こう述懐する。
「岩国工高は全国でも強豪で、中学時代に実績のある選手が大勢来ていました。その中で当時、虹輝は県大会でも1回戦負けなどで、悪くいえば全国的には無名の選手だったんです。それが少しずつ頭角を現し始めていきました」
何よりもすごいのが、練習への向き合い方だった。
「とにかく虹輝はフェンシングが好きなんです。もう、ずーっと練習していられるというか……。時にはサボってしまうのが人間だと思うのですが、そういうことがなかった。もともとあった身体の強さに、技術も加わって、3年生のときにインターハイで優勝をしました」(冨田さん、以下同)
金メダル獲得へと導いた“別れ”
まさに努力の天才でもある加納だが、冨田さんはこんな質問をしたことがある。
「団体戦で金メダルを獲得した東京五輪が終わった後、虹輝に“何歳まで競技をやっていたい?”と聞いたら、彼は“やれるまでやりたいです”と話していました。日本代表になった今も高校時代と同じように、ずっと練習しているようなんです。だから努力がつらいとかっていう次元の話ではなく、彼にしてみれば“フェンシングって楽しいですよね”という気持ちで練習に取り組み続けているのだと思います。そこが一番すごいことだと感じています」
ただ、こんな偶然が金メダル獲得へ押し上げたのかも。
「実は、加納が1年生のとき、私は違う学校へ移ることになったんです。私は胴体のみが有効打となるフルーレという種目を教えていたのですが、加納は泣きながら“先生がいなくなったら、僕はどうしたらいいんですか?”と言うんです。私は“おまえなら大丈夫”と言ったのですが、加納はその後、全身が有効打となるエペ中心の選手となったんです。なので、結果的に私がいなくなってよかったのかなと思ったり(笑)。それでも素晴らしい選手の指導に携われたことは、本当に幸せなことでした」
悲しき別れが、加納を金メダリストへと導いた。