宝塚歌劇団の元花組トップスターで俳優の愛華みれさん。'08年に血液のがん「悪性リンパ腫」の闘病を経験。激しい痛みに襲われても、トップスターとして生きてきたからこそ「つらい」が言えなかったという―。
ダンプカーに轢かれて骨を砕かれるような痛みも
「首元にゴルフボール大のしこりを見つけたのですが、ほかに自覚症状はなく、痛みもないので気にしていなかったんです。でも兄や姉に見せた途端、ふたりが顔面蒼白になったものだから恐怖を覚えました」
そう話すのは、俳優の愛華みれさん。診断の結果は、悪性リンパ腫。リンパ球ががん化する“血液のがん”だった。
「診断を受けるころには緑色の便など変な症状も出てきて。でもまさかがんとは思わなかったんです。告知ってドラマのように家族を呼んで行うものだと思っていたら、問診中あまりにあっけなく言われて。その場では明るく振る舞ったけれど、診察室のドアを閉めた途端パニックになってしまい、気づけば号泣していました」
当時は『SEMPO~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』という舞台の稽古中。
「“あなたは自分の命を大切にできますか”というセリフがあるなど、その舞台の内容も命の重みを考えさせるものでした。稽古場でもずっと人の生死を考えさせられるんです。それが自分のがんと重なって、治療をしたいけれど舞台にも立ちたいという葛藤の中、骨髄を取る検査だけでも気がめいってきて……」
そんな折、新聞社に通院していることを気づかれ、事務所に病状の問い合わせが入る。当時は通院だけで治療を行うのは難しい時代。所属事務所と相談し、病名を公表して治療に専念しようと舞台を降板した。
「抗がん剤を6セットと放射線治療を29回行いました。私は血管が細く抗がん剤を入れるだけで激しい血管痛が押し寄せて。アイスピックで突き刺されるような痛みに始まり、ダンプカーに轢かれて骨を砕かれるような痛みにも襲われ、この闘いは尋常じゃないなと」
2008年当時は現在よりも化学療法の負担が大きく、激しい副作用にも悩まされた。さらに愛華さんの場合は1セットごとに異なる症状に苦しめられる。
「嘔吐もするし髪も抜けるし……。それは心していたのですが、一番ひどい副作用だったのはうつでした。3セット目からは通院による治療だったので、ひとりになると悪いことしか考えない。昔からポジティブな私がまさかと思いましたが、自宅のマンションにいると、ここから飛び降りようか……なんて気持ちになってきて」
家族は故郷・鹿児島での療養を提案したが、舞台復帰のために東京での治療にこだわった。そんなときに支えになったのが、後に結婚するスポーツマッサージ師の男性だ。
「夫は当時、緩和ケアのマッサージや通院を手伝ってくれていた方で、病気をきっかけに知り合いました。うつで落ち込んでいたときには“愛華さん、下ばっかり見ていないで空を見たらどうですか? お月さまがきれいですよ”と言われたんです。顔を上げて空を見ると、自分の悩みがちっぽけに思えて。生きるとか死ぬとかそんな大きなことは、自分の力だけではどうにもならない。だったら神様に委ねよう!とパーンと気持ちが晴れたんです」
そうしたやりとりをきっかけに付き合うことになり、恋愛もバネに生きる力が呼び起こされたという。
「入院中に力をつけなきゃと気合でかつ丼を平らげ、お医者様に驚かれたことを思い出しました(笑)。それに、家にいるときも鹿児島在住の姉に遠隔でピザを頼んでもらって。床を這わないと玄関まで行けないほどの体調なのに、無理やりにでも食べる。それも戻してしまうのですが“生きることは食べること”と思うことで頑張れました。自分ひとりではできないこともあるんだなと気づきましたし、人からもらう言葉によって、私は生きる力が湧いてきたんです」
「病気もあなたの個性なんじゃない」
努力のかいあって、5か月後に『シンデレラtheミュージカル』で舞台復帰を果たす。
「うつには波があるし、痛みもあるまま復帰できるのだろうかと諦めかけていたところ、主治医が“僕もうチケット取りましたよ!”と。その言葉で一気に気持ちが切り替わりました。血管痛がひどいときは一日中湯船で身体を温めながら台本を読み、寝転がりながら映像で振り付けを覚えて、たった4回のお稽古で舞台に立ったんです」
舞台上ではがん患者とは思えぬパワーでシンデレラの継母役を熱演。だが実際には、公演期間中も放射線治療が続いた。
「朝6時に起きて、9時から始まる治療の1番目をどうにかゲット。放射線治療後は倦怠感もひどいので移動中に横になり、車内でメイクをして、綱渡りで11時公演に臨んでいました。裏方さんは“そこまでできるなんて本当に舞台が好きなんだね”と泣いていて……。確かに舞台がなかったら過酷な治療を乗り切れなかった。副作用で喘息がひどいのに、舞台に立った瞬間、ふしぎなことにピタッと咳が止まるんですよ」
そんなひたむきな姿は、いつしか同じがん患者も勇気づけていた。
「放射線治療中は、照射部位にマーカーやシールで印をつけるのですが、“舞台に出るんだからバラや十字架に印をかえてもいい?”なんて冗談を言ったら先生たちは爆笑で。笑い声は待機中の患者さんまで届いて、“がん患者とは思えない。治療は彼女の後がいい!”という方が殺到したんだとか(笑)。そんなふうになれたのも、私にとって舞台が薬だったから。共演者に会えたり、お客様からいただく思いが“私は必要とされているんだ”というパワーになり、ありがたかったですね」
千秋楽を迎えた後、肺に放射線治療の後遺症が残り、再入院。その後は一度も再発せず今に至っている。
「定期的に検査を受けていますが、おかげさまで再発はありません。病気をする前はがむしゃらに仕事を詰め込むことで自分を保っていたのですが、今は何もない時間に見つけられることもあると視野が広がりました。趣味のガーデニングをしたり、愛犬と散歩しながら自然に触れたりと、与えられた時間を大切に使っています。まわりのみんなとも“まだまだ若くいたいよね”と言いながら、血圧に気をつけたり麹や梅ジュースに凝ったりして、口にするものはしっかり選んでいます」
自然に触れる穏やかな時間で、深呼吸の大切さにも気づいたという。
「昔はため息も悪いことだと思っていたのですが、深呼吸のようにしっかり吐き出すことで次の息を吸えるんです。気持ちも一緒で、なかなか自分の思いを言えないことが多いけれど“もう聞いてよ~!”ってまわりの人に吐き出したら、あとはみんなで思いっきり良い空気を吸い込めるから」
病気の捉え方も、どこまでも前向きだ。病気になって弱気になれたからこそ結婚もできたという。
「闘病がなければ今もひとりだったと思います。弱さを見せた私に手を差し伸べてくれた夫のことは命の恩人だと思います。“病気もあなたの個性なんじゃない”と彼が言ってくれたから」
がんになったことも“悪いことばかりじゃない”と捉えるようになった。
「今、病気で絶望している方がいらっしゃったら、あなたなら乗り越えられるからこそ病気が与えられたと思うし、闘うエネルギーに変えていってほしい。そして誰かが手を差し伸べてくれたら甘えていいんだよと伝えたいです」
取材・文/植田沙羅
あいか・みれ 1964年生まれ。1985年に宝塚歌劇団に入団、花組に配属。1999年に花組トップスターに就任。代表作に『源氏物語 あさきゆめみし』や『タンゴ・アルゼンチーノ』など。華やかで美しい正統派男役として活躍し、2001年に退団。以降、舞台やテレビなどに幅広く出演。