爽やかでトレンディーな色男として知られた彼が、スキャンダルの常連に。それをまったく意に介さず、還暦を過ぎて生まれた子どもたちのために働き続ける。稀代の人たらしか、はたまた究極のまじめ人間なのか……。Netflix作品『全裸監督』で世間を騒がせた作家・本橋信宏が、日本で最もつかみどころのない男を“丸裸”にする!
「『愛と平成の色男』という森田芳光監督作品に出たんですが、自分的には『不倫は文化』じゃないけど(笑)、その後の方向性を象徴するタイトルみたいになってしまいました」
1986年〜'91年まで日本列島をカネまみれにしたバブル時代に、トレンディードラマと称されるものが高視聴率をたたき出した。バブルを連想させるDCブランドの服や高級マンション、ベンツ、BMWが登場し、若い男女がシャンパンをかたむけ恋愛する。
トレンディードラマを牽引した石田純一
トレンディードラマを代表する俳優として、最も人気を博したのが今回登場する石田純一である。取材当日も靴下をはいていない。
「遊ぶ時間? ないです、ないです。平成の色男なんて呼ばれたけれども、演じている当人はまったく遊びもできず。仕事が忙しいじゃないですか。
昼夜で撮影していましたからね。昼はTBSのドラマで、夜は映画の『愛と平成の色男』。もう寝る時間もなかった。マネージャーが2人いて、昼夜で代わるんです。朝の7時から夕方6時まではドラマをテレビ局で撮って、マネージャーが交代すると今度は夜7時から夜が明ける5時とか6時まで撮影。
そんな最中に、うちの父親が亡くなったんですよ。お葬式のとき、1日だけお休みはいただけましたね」
石田純一、1954年(昭和29年)1月14日生まれ、東京都目黒区出身。職業は俳優、タレント。今年古希を迎えたとは思えない若々しさに、東京都出身という、根っからのシティー・ボーイ。そして多くが憧れる職を生業としている。
平成の色男という代名詞がついてまわり、彼が歩くところ、常に華やかなゴシップが生まれ、メディアが追うところとなった。
最初の結婚は1970年代半ば、妻は市民運動家の星川まり。20歳のとき生まれた男児は後の俳優・歌手のいしだ壱成だ。
1988年、2度目の結婚は女優・松原千明さんだった。1990年7月に長女・すみれが誕生。
この間、モデルの長谷川理恵との不倫が露見、多くのメディアから取材攻勢を受け、平尾昌晃チャリティーゴルフに参加したところ、芸能リポーターからの追及に石田が答えるシーンが報道された。
このときの応対を多くのスポーツ紙が報道し、なかでもスポーツニッポンが記事の見出しにした「不倫は文化」が強烈な印象を与え、以降のマスコミ報道では繰り返し「不倫は文化」というフレーズが加わり、平成の色男と重なり、石田を稀代のプレイボーイに決定づけた。
「不倫は文化」とはひと言も言っていない
「あの場で、オレの言動が“軽い”とか言われてね。だったら、オペラなんてもう、はっきり言って人格破綻者が出てきて、不倫だらけでしょう。『蝶々夫人』だってそうだし。トルストイの『アンナ・カレーニナ』を否定するんですか? 事実を言って何が悪い?っていうことです」
『戦争と平和』と並び、トルストイの最大傑作と呼ばれる『アンナ・カレーニナ』の主人公アンナ・カレーニナは高級官僚の妻であり、夫以外の男との不倫が物語を形づくる。紫式部の『源氏物語』も、不倫・略奪愛が話の軸になる。
たしかに、古今東西、不倫抜きでは名作は語れない。
記者の質問に応じ、正確には「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある」と答えただけで、「不倫は文化」とはひと言も言っていない。
石田の本音を吐露した発言は的を射ていたのだが、代償は大きかった。
「CMやら何やらがキャンセルになって、約2億円の損害になりました」
深刻なダメージを受けた平成の色男だったが、本人からは本気で怒っている様子はうかがえない。
「(スポーツニッポンの)タイトルは秀逸」と客観視する余裕まである。
記事を書いた記者がどんな人物なのか、会いに行ったという。
尋常ならざる懐の深さが石田の真骨頂なのか。
その元トレンディー俳優を、バブル期に生まれた現在30代の女性たちに、どんな人物だと思っているのか聞いてみた。
「靴下はかないで靴をはく人」
「バラエティー番組の常連」
「東尾理子と結婚したおじさん」
ちなみに「トレンディー俳優」というコメントは皆無だった。
幼少期のアメリカ生活が人格形成につながる
幼いころ、純一少年はアメリカで4年間暮らしたことがあった。
父はNHKに勤務する報道畑のスタッフである。
不倫について思ったことを言葉にし、政治的発言を堂々とするところは、本人の資質もあるだろうが、イエス・ノーをはっきり意思表示するアメリカでの暮らしが影響しているだろう。
華やかな話題を振りまく息子同様、父・石田武も、“持っている男”だった。
1963年11月22日。テキサス州を遊説中のジョン・F・ケネディ大統領が、ダラス市内をパレード中に銃撃され死亡するという世紀の事件が発生した。
日本・アメリカ間初の衛星放送が行われるときだったために、この悲報が記念すべき衛星放送第一報になってしまった。
臨時ニュースを伝えたのは、石田純一の父・武だった。
「うちの親父と3人の部下でNHK初の衛星中継をすることになったんです。ケネディ大統領のパレードをダラスから中継して、スタジオから“おめでとう”ってコメントを出すはずだったんです。ところが暗殺されてしまったので、急きょ実況もやってしまった。うちの親父はアナウンサーでもあったので」
純一少年はアメリカから帰国していたので、目黒区の自宅で父親の緊急放送を聴いた。小学1年生だった私もこのときの緊急報道を鮮明に覚えている。
たしか日本時間では明け方だった。
日本初の衛星放送がアメリカから送られてくる、というのでNHKにチャンネルを合わせたら、「ケネディ大統領暗殺」の文字が映り、アナウンサーが悲痛な声で伝え出した。このときのアナウンサーが純一の父だったのだ。
「1964年の東京オリンピックのときに、もう1回アナウンサーに駆り出されて、あのボブ・ヘイズ、男子100メートル決勝、“褐色の弾丸”とか中継してました。ちょうど“持ってる人”なんですね」
1969年には、人類史上初のアポロ11号月面着陸の中継を担当した。石田武はNHKのエースだった。
「小さいときからよく映画館に連れてってくれました。映画の解釈がなかなか良かったですね。父は文化好きで、オペラ、クラシックが好きでした。家中にレコードがありましたから」
“文化”というキーワードは父親からの影響が大きいのだろう。
父をはじめ親戚にはテレビ局、大手新聞社に勤務する者が多かった。祖父は日本経済新聞の記者だった。純一少年も将来はメディアの仕事に就くことを夢見ていた。
ところが高校受験で、すべて落ちてしまった。中学での成績はよかったが、素行が悪すぎて、内申書に「要注意」と書かれてしまったのだ。色男、意外と荒くれ。
途方に暮れていると、都立高校の2次募集があり、名門の青山高校を受けた。高い倍率だったが、純一1人だけ受かった。強運というのだろうか。
1972年春、早稲田大学商学部に現役合格。ほどなく恋人の星川まりが妊娠し、結婚。演劇への関心が強まり、21歳で早稲田を中退、アメリカの演劇学校に通うことになる。この時期に離婚も経験する。子ども時代に4年間アメリカで暮らしていたので、英語力には自信があった。
演技と演出。どちらも数字で推し量れるものではなく、あくまでもセンスが重要になる。俳優に憧れていたが、より確実性をとって演出家の道を選んだ。
文化に理解のある父ながら、息子が進もうとしている演劇の世界に難色を示し、子どもを養っていけるような安定した職業を望んでいた。
2年間のアメリカ生活を経て帰国。
「戻ってきたときはもう大学をやめちゃってるし、就職はどうしようかなと。当時、就職氷河期で、自分らと同学年の連中はほとんど就職できなかったです」
芥川比呂志、橋爪功といったベテランが代表を務める演劇集団 円の演出部に入所した。
「果報は寝て待て」でやってきた運命の役柄
その後、事務所を移ると、役者の夢も捨てがたく、1979年、NHKドラマ『あめりか物語』で俳優デビューする。当初は「石田純」の芸名だった。
1984年、連続ドラマ『夢追い旅行』(フジテレビ系)で準主役を演じた。クイズ番組『TVプレイバック』(フジテレビ系)のレギュラー解答者としても知名度が上がった。
ところが役者として代表作に巡り合えていなかった。
「稼ぎでいうと年収1千万円あるかないかぐらいだから、全然ダメではなかったんですけど、当時の所属事務所の社長がやり手で、オレに向かって“もうこの先これ以上望めないから、鳴かず飛ばずでいるよりも、うちのマネージャーになってやっていったら、プロデューサーにはなれるかもしれないわよ”って。“1、2年やったら、私の代わりに社長になって、プロデュースとかやったらいいじゃない”って言ったんです」
やりかけた役者の道をこれで閉ざしてしまうのは、納得がいかなかった。
「じゃ、1年間だけ、もう1年間だけ真剣にやりますので勝負させてください、って頼み込んだんです。それで売れなかったら、社長の方針どおりにマネージャーになる、と」
役者として生きた証しが欲しい。
バブル期、テレビ業界はフジテレビの独走状態だった。なかでもドラマは、“月9”と呼ばれる月曜夜9時からの連続ドラマが高視聴率を上げて、役者ならフジテレビの月9は是が非でも出たい番組になっていた。
石田もその1人だった。チャンスが巡ってきた。
浅野温子・浅野ゆう子、後のW浅野と呼ばれるコンビが主演のトレンディードラマが企画された。
幼稚園時代からの親友という設定の浅野温子と浅野ゆう子。どちらもスタイリッシュで、時代の先端を生きる女性だった。
ドラマには岩城滉一、本木雅弘といった二枚目もキャスティングされ、バブル時代の熱気をうまくすくい上げていた。浅野温子の恋人役として新鮮なイメージの役者を探していた。
石田と事務所は期待を抱く。すると、役者は陣内孝則に決まったという。
陣内孝則が降りる
落胆していると、信じられない情報が飛び込んできた。陣内に他局のドラマの主役の話がきたらしかった。
「陣内さんが降りたらしいって聞いて、もしかしたら(役が)くるかもしれないってずっと待ってましたが、あー、こない。もう終わりって思った。昼まで寝てたら、ぼこんって電話かかってきて、“『抱きしめたい!』の話って聞いてます?”って。
スケジュールが空いてないのに、“空いてます”と言う事務所がよくあるので、本当に空いてるかどうか俳優本人から聞いてみたっていうわけ。“オレ、本当に空いてます!”って言ったら、“じゃあやりましょう”と。え!? びっくり」
まさに果報は寝て待て。
「なんだか個人的に、ちょっと変な言い方になりますけど“人気”って言葉は、人の気と書きますよね。自分の周囲での人気運が上がってきてるなと思ってたら、つまりモテだしたら、大きな舞台でもそういうふうになるんだなっていうのが自分の印象です」
人間、生きていくなかで人知では思いも及ばない強運が降ってくることがある。
ゴールデンタイムの高視聴率番組に出ると、どんなことになるのか。
「ドラマが放送されると、街を歩けないぐらいになってました。ただし、僕の出番は4話で終わりだったんです。3話か4話でもう背中たたかれて、お疲れさま。オレ、終わったと思ってたら、当時って『番組に関するご意見をお寄せください』みたいなお知らせが番組最後にあったじゃないですか。そしたら、僕の役名が二宮修治っていうんですけど、“あの人は誰?”“二宮修治、もっと見たいです”とか“もう消えてっちゃうんですか。もっと見たい!”とか、手紙がかなり来たというんです」
浅野温子への手紙の次、2番目が石田へのものだった。
時代の波が石田純一を本流に押し上げた。
今井美樹ととことん話し合った『想い出にかわるまで』
ドラマの出演依頼が殺到した。TBSからは局の看板である夜10時、金曜ドラマの1月からの新番組が打診された。1990年の『想い出にかわるまで』だ。
石田は東大卒のエリート商社の社員役。2か月後に結婚を控えている、婚約者役は今井美樹。東京・西早稲田の製版所経営者の長女。次女役は松下由樹。
今井と石田の2人はこのまま幸福に結婚し、ゆくゆくは今井の父役・伊東四朗の製版所を石田が継ぐ、という人生設計を描いていた。東京湾の水質を気にする環境活動家の水中カメラマン役に、チューリップの財津和夫。
今井を知ると急速に接近し、「言ったろ。好きになりそうだって」と強引なセリフを本人に吐く。何の疑問もなく結婚に向かっていたはずの今井だったが、あまりにも幸福すぎる日々にふと迷いが生じる。
婚約者の石田とは異なる価値観の男の存在が大きくなっていく。
キーパーソンとなっていくのは今井の妹だった。以前からひそかに姉の婚約者に恋心を抱いていたのだ。姉が結婚をしばらく延期したい、と言い出したことで、人間関係が軋んでいく。
姉の婚約一時白紙状態を好機ととらえ、妹は石田に熱烈アタックする。気の迷いと優しさで、石田は妹と関係を持ってしまう。
石田と今井のすれ違いの距離が広がり、ついには婚約解消。だが、どちらも好きであることに変わりはない。すれ違いに終止符を打とうと、夜のビル街で2人は走り寄って抱き合う。ところが妹の存在が大きくのしかかり、妊娠までしたことで、石田は苦渋の選択で松下と結婚する。本作は、現在でも恋愛トラウマドラマと語りつがれているほど、強烈な印象を残した。
このドラマ、傑作である。
止められない恋愛感情、あざといまでの引きの強さとどんでん返し。夜の街で一度は別れたはずの石田と今井が駆け寄り、抱き合うシーンで不覚にも落涙してしまった。まさか34年前のトレンディードラマで泣かされるとは。
「忘れられないのは今井美樹さんが6時間のワンシーン、ずっと泣きっぱなしだったこと。やっぱり芝居はもう全身全霊だから、感情移入がすごい。あのドラマ、(脚本家の)内館牧子さんの本格的デビュー作なんですよ。シーンによっては、2人のアドリブでやってくださいってときもあったんです。あるシーンは全部アドリブでした。つくらずに思ったことを言う。“オレにとっては君が夢なんだよ!”あんな言葉もバンバン出てきちゃう。台本がすごくよくできてるなと思いました。真夜中に今井さんとオレと遠藤環プロデューサーの3人で何度もセリフを確認したりしてね」
製版所のロケ地は見覚えがあった。長い石段はなんと、私の家のすぐ近く、都電と神田川が並行するあたりだ。ちなみのこの石段、1974年に公開された南こうせつとかぐや姫の大ヒット曲が原作になった映画『神田川』にも登場する。主演した草刈正雄と関根(高橋)恵子が同棲するアパートがこの石段の隣だった。
昭和と平成、2代にわたり時代を象徴する色男がこの石段を上り下りしたわけだ。
人を肩書で見ない懐の深さ
石田の口から人に対する恨み節はまったく出てこない。周辺を取材しても、誰からも彼を非難する話は出てこない。
石田の著書『落ちこぼれのススメ』(光進社)の担当編集者がこんなことを打ち明けた。
「この本が出たのが2000年3月なんですけど、たしかバッシングを受けて収入が激減したときでした。このころの石田さんは、傾きかけた中古のベンツSクラスに乗っていました。それがその後、アストンマーチンやフェラーリになって、石田さん車好きだから、こんないい車また買えるようになってよかったなあって思いました。とにかく男女分け隔てなく優しい人です。石田さん、サウナ好きだから仕事の打ち合わせをサウナルームでやったこともあったんですが、1時間で僕が倒れました(笑)」
石田の3番目の妻になるのは、プロゴルファーの東尾理子だった。
子どもが3人誕生した。
週刊文春専属記者時代、数々のスクープをものにしてきたジャーナリストの中村竜太郎氏が語る。
「週刊誌記者というのは芸能人とか著名人から嫌われる立場なんですよ。私が独立して以降、いろんな番組で石田純一さんと共演する機会がたくさんありまして。まず嫌われてても仕方がないだろうなっていう先入観があったんですよね。
楽屋でご挨拶するときに、トントンと、ノックをすると石田さん、あのまま屈託がないんですよ。石田さんは、人を肩書とかで見ない。懐の深さっていうのを直感的に感じました。本当にフレンドリーに接してくれる。誰に対しても真摯に向き合うっていうのが石田さんらしいなと思いますよね。
マスコミの人間って、ゲスだのマスゴミだのなんだのと言われてとにかく嫌われがちですし、思いっきり邪険な態度を取られることも日常茶飯事です。でも、いつでもちゃんと対応してくれる人が芸能界に2人います。石田さんと明石家さんまさん」(中村氏)
もう売れるものはほとんど売ってしまった
愛される男・石田純一。だが、何度も仕事を失う憂き目を味わっている。
直近だと、コロナ禍のなか、沖縄で仕事をしていたところを批判され、契約していたCM、仕事を失った。借金だけが残った。
「もう売れるものはほとんど売っちゃいました、家も売ったし車も売ったし。靴だとかバッグだとか、ほぼ全部」
理子夫人との間の子どもたち3人は幼く、まだまだ養育費がかかる。そこで、東京の自宅から少々離れた千葉県船橋市で、焼き肉店「炭火焼肉ジュンチャン」を始めた。ほぼ毎日出勤しており、客相手に飲酒もするため、通勤は電車だという。
「『石田さんが(飲食店を)経営するなら麻布とか六本木じゃないの?』なんて言われますが、都心は維持費が大変でしょう。(船橋に)ちょうどいい物件があると紹介されて。なりふりかまっていられないですからね」
松原千明さんとの間にできた長女で、女優・歌手のすみれが父・純一を語る。
「ハワイに住む前に、お風呂にパパと一緒に入っていた思い出があります。小さいころは、普通の家族みたいにいつも一緒にいられたわけではないので、パパに対して不満や怒っていた点もあったんですけれども、やっぱり家族は家族ですから。
パパはとにかく優しい人で、あまり怒らない。のほほんとしてて、ふわーんとしてて、ちょっとマイペースで、自分の世界を持っている人。本当に裏表がない。たぶん、どこに行っても誰と話していても同じ、平等な接し方をするから、あんなに優しい、優しいってみんなに言われるんだろうなと思います」
石田はすみれに「私たちの子育てをちゃんとしてこなかった分、今回はしっかりやってね」と言われた、という。
「理子ちゃん(現在の石田夫人)は、私にとって義理の母だけど、そんなに年も離れてないからお姉ちゃんみたいな感じで、頼もしい。信頼できるお姉ちゃんができてすごくうれしいです。パパは70歳とは思えないぐらい、パワフルなので、100歳まで生きて、理汰郎(理子夫人との間にできた長男)たちの成人を見届けてほしいですね」(すみれ)
日焼けが印象的な石田。スポンサーとのゴルフのたまもの……かと思いきや、「理汰郎の野球の練習に付き合っているから」だという。すみれの願いは届いているようだ。
言うべきことははっきり言いたい
時は戻るが、2016年、都知事選に立候補しようとして大騒ぎになったのも記憶に新しい。女性たちとの華やかな噂を振りまく一方で、言うべきことは言っておく気骨あふれる一面がある。
不倫は文化騒動や離婚などで仕事を失い、その次は政治発言がもとで、やはり仕事を失った。
「それで生活ができなくなったとしても、オレは戦争への道だけは行くべきじゃないと思う。憲法の解釈を変えたら地球の裏側にまで派兵できる法律、それはダメだよね。オレはデモに行ってくるって理子に言ったら、“どうせ止めても行くんでしょ”って(笑)」
いい夫婦だ。
国会議事堂の前で、「戦争は文化じゃない!」と訴えた。
「収入は半分どころじゃなくて、10分の1になりましたけどね」
その一方で、通っているスポーツジムが一緒、同年齢だったこともあって、当時の政権を握っていた故・安倍晋三元首相とは交友関係にあった。
思想よりも心情。おそるべき人たらし。
「そういえば、東日本大震災のチャリティーパーティーのときのこと。皇后美智子さま(当時)がオレのほうにいらして、声をかけてくださったことがあったんですね。『わたくしのお友達2人が、あなたが出演されるドラマが昔から大好きで。あなたの大ファンなんです。一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?』って」
おそらくその友達2人のうちの1人は、美智子さまなのではないか。
ご自身も、石田純一が主役のトレンディードラマを楽しみにされていたのではないか─。
古希の男は5kmを目安に毎日走っている。
「やはり酒も飲みたいし、体形も維持したいし。主治医には『無理はよくない。走ったからといって暴飲暴食をしていいわけではない。気休めですよ』と言われていますけどね」
靴下をはかない男のブログタイトルは─《NO SOCKS J LIFE》
本橋信宏(もとはし・のぶひろ)
1956年、埼玉県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。文筆家。ノンフィクション、小説、エッセイ、評論と幅広い活動を行う。2019年、『全裸監督 村西とおる伝』(新潮文庫/太田出版)がNetflixでドラマ化、世界190か国で配信され、大ヒットを記録する。最新刊は『アンダーグラウンド・ビートルズ』(共著・藤本国彦/毎日新聞出版)