去る8月31日は故・ダイアナ妃の27回目の命日であった。現在のイギリス国王チャールズ3世の元妻・ダイアナ妃は、1997年8月31日深夜、パリのアルマ橋トンネル内で発生した交通事故により非業の死を遂げた。イギリス王室最大の悲劇にして、最大の謎と言われるこの事件は英仏両国で捜査され、最終的には英国の捜査機関により、「パリの交通事故」と結論付けられた。しかし、いまだこの「結論」に疑問を持つイギリス人は少なくない。
英国人の38%が信じる「暗殺説」
2013年、イギリスの大手世論調査会社『ユーガブ』が発表した調査結果によると38%、つまりイギリス人の10人に4人近くがダイアナ妃の死は「単なる交通事故死ではなかった」と考えている。「単なる交通事故だった」と考える人は41%であり、21%が真実は「分からない」と答えている。この数字は、公の機関によって幕引きがなされてもなお、ダイアナ妃が何かしらの力をもって「殺害された」と考える人々がイギリス国内に存在する事実を物語る。そして現在に至るまでこの数字はイギリス国内で大きな変化を見せていない。
調査の結果をさらに詳細かつ具体的に見てみる。回答者の3分の1(33%)が「ダイアナ妃が暗殺された」という説は「おそらく真実である」と考えており、4分の1(25%)はMI6(英秘密情報部)がそれに関与していたと考えている。運転手であったアンリ・ポール氏(同じくこの事故で死亡)が国家安全保障局から報酬を受け取り、故意に事故を起こしたと考える人は19%だ。
1997年8月31日深夜、パリで何が起こったのか?
1997年8月31日午前0時過ぎ、ダイアナ妃は恋人のドディ・アルファイド氏と共にメルセデス・ベンツ・S280に乗り、パリのリッツホテルからアルファイド氏の自宅に向かっていた。運転していたのは、リッツホテルの警備副責任者であったアンリ・ポール氏である。彼は11年に渡り、「模範的な従業員」としてリッツホテル内のセキュリティを担当しており、その運転技術にも定評があった。このポール氏が運転するメルセデスが、パリのアルマ橋トンネルを通過しようとしたときに悲劇は起きた。法定制限時速48キロのところをおよそ時速200キロでトンネルに入り、直後、車は天井まで伸びる中央分離帯の柱に激突した。
車に乗っていたのは、ダイアナ妃、ドディ・アルファイド氏、運転手のアンリ・ポール氏の他にボディガードのトレヴァー・リース=ジョーンズ氏だった。アルファイド氏とポール氏は現場で死亡が確認され、ダイアナ妃も搬送先の病院で死亡した。この事故で生き残ったのはボディガードのジョーンズ氏ただ一人である。
「模範的な従業員だった」警備副責任者が大量飲酒して運転
フランスでは、血中アルコール濃度が100ミリリットルあたり80ミリグラムを超えると重大な飲酒運転となる。事故後の検査で、当時のポール氏の体内からは100ミリリットルあたり175ミリグラムのアルコールが検出されている。
アルマ橋トンネルは通常の法定速度(約48キロ)で走行した場合でも、10秒ほどで通過できるほど短く、公式には全長153メートルとされている。その短いトンネルのなかに中央分離帯として地面から天井まで太く頑丈な柱が31本連続して並び立つ。この柱が、このトンネル内の車両通行を困難にしている。
実際にアルマ橋トンネルでは1982年からダイアナ妃の事故が起こるまでの1997年にかけて11人が死亡する交通事故が起きており、事故多発地帯として知られていた。ドライバーたちは、そこを走行するとき、慎重にならざるを得ず、パリの道を熟知していたアンリ・ポール氏も同様であったことは想像に難くない。それにもかかわらず、ポール氏は重度の飲酒状態と時速200キロに達する速度でアルマ橋トンネルに突っ込んでいったとされる。
アンリ・ポール氏の年間の給与は2万ポンド(約388万円)だったが、その後の調査で彼の持つ13の銀行口座には合計で10万2000ポンド(約1978万円)が残されていたことが分かった。1997年には5回に渡り合計5000ポンド(約97万円)がポール氏の口座に振り込まれていたという報道もある。また事故直後、ポール氏が着用していたスーツの中から現金2000ポンドが警察官によって発見されている。
事故を映さなかった監視カメラ
当時、アルマ橋トンネルには14台以上の監視カメラが設置されていたが、8月31日の事故の映像は記録されていなかった。全ての監視カメラが壁側を向いていたためだ。監視カメラがトンネル内に向いたのは、事故翌日9月1日の夜明け、ダイアナ妃の遺体が英国への返還に向けて準備されていたときだった。ちなみに、事故発生から7時間後にパリの清掃局の車両がアルマ橋トンネルに到着し、トンネル内全体に消毒剤を散布したとの目撃情報もある。これが原因かは定かではないが、あれだけ世界中を騒然とさせた事故の現場にもかかわらず、そこには法医学的に根拠となるような証拠がほぼ残されておらず、現場検証は困難を極めた。
時間がかかりすぎた病院への搬送
この事故でドディ・アルファイド氏とアンリ・ポール氏は即死であった。しかし、ダイアナ妃は、事故直後は生きていた。ダイアナ妃はまず事故現場で医師による40分に及ぶ緊急治療を受けたのち、救急車で事故現場から約9キロ離れたピティエ・サルペティエール病院に搬送された。なぜすぐに病院に搬送されなかったのか?これには、患者を病院に搬送するよりも、現場で出来うる限りの治療を施すことを重要視するフランスの緊急医療対応事情がある。
その後、ダイアナ妃を乗せた救急車は、時速40キロから50キロの速度でピティエ・サルペティエール病院に向かった。一刻を争う事態にもかかわらず救急車が通常速度で走行したのはダイアナ妃の容態を考慮した医師の指示であったという。また途中ダイアナ妃の血圧が急激に低下したため、救急車はピティエ・サルペティエール病院まで約270メートルの地点で停車を余儀なくされ、車内で救急措置が取られた。結果、深夜で渋滞がないパリの街中であったにもかかわらず、救急車が病院に到着するまでに1時間半を要した。ちなみに道路が混雑する日中でもアルマ橋トンネルからピティエ・サルペティエール病院までは45分前後で到着する。
ピティエ・サルペティエール病院到着後、医師や医療関係者によってダイアナ妃を救うために「あらゆる手段が講じられた」が、8月31日午前2時10分頃にダイアナ妃は心停止に陥り、午前4時に死亡が宣告された。
ダイアナ妃自身が恐れていた命の危険
「交通事故で私の頭部に重傷を負わせる計画が存在する」
ダイアナ妃の死をめぐる陰謀説がいまだイギリス国内に根強く残る大きな理由の一つが、ダイアナ妃本人が自らの身と命の危険を感じ、強い恐怖を抱いていたという事実だ。ダイアナ妃はチャールズ皇太子との別居発表(1992年12月9日)から離婚成立(1996年8月28日)、そしてその後、死に至るまで、常に身の危険を感じていた。その恐怖をダイアナ妃は、生前彼女の秘書であったポール・バレル氏に直筆のメモにしたため、託している。
「今日は(1996年)10月。私はこの机に座りながら、誰かに抱きしめられ、胸を張り、誇りを持って生きるよう、強くあり続けられるよう、励まされたいと切望しています」
「今の私の人生のこの時期が最も危険ですー。『X』が私の車でブレーキの故障による『事故』を起こし、私の頭部に重大な損傷を負わせ、チャールズが再婚しやすくなるよう画策しています」
「これまでの15年間、私はある組織によって打ちのめされ、傷つけられてきました。しかし、それを恨んではいません。私の心の中はとても強いのです。そしてそれこそが敵にとって問題なのかもしれません」
「チャールズ、私をこんな地獄に追いやり、あなたが私にした残酷なことから私は学ぶ機会を与ました。そのことに感謝します」
「神よ、一体何が起こったというのですか?」
前述の通り、事故発生直後、ダイアナ妃は生きていた。現場に駆け付けた消防士がダイアナ妃にはまだ意識があったとし、彼女がそこで発した言葉を証言している。
「神よ、一体何が起こったというのですか?-“My God,what's happened?”-」
これがダイアナ妃の最期の言葉となった。
チャールズ皇太子(当時)や「ある組織」による脅威を感じつつも、このような形で人生の終わりを迎えるとは想像もしていなかったのか。それとも単に自分の身に何が起こったのか理解できなかったのか。いずれにせよ、ダイアナ妃が混乱と絶望のなかで非業の死を遂げたことは事実だ。
「事故のあと影がなにもない」”沈黙の幕を引く”アルマ橋
ダイアナ妃の命日を前に、筆者は彼女が非業の死を遂げたパリのアルマ橋トンネルを訪れた。アルマ橋の前後には似たようなトンネルがいくつか存在するが、あの日の悲劇を刻んだ柱が内部に立ち並ぶのはこの橋だけだ。
筆者が乗車したタクシーのドライバーは「こんな短くて、柱があるトンネルに時速200キロで突っ込むなんて…。アルマ橋でなければ(他の前後のトンネルであれば)ダイアナ妃は命を落とすことはなかった」と語った。
「なにも・・・(事故の)あと影がなにもない。」と呟き、メルセデス・ベンツ・S280が激突したという柱の位置を指差し「ここがその場所だ」とため息をついた。
「これだけでもう何も(事故の痕跡を)残していない」「事故などなかったようだ」と静かに繰り返した。