アイドルや芸人、アスリートとして活躍したあと、セカンドキャリアの道を選んだ人に話を聞く不定期連載。記念すべき第1回は国民的アイドルAKB48の第3期メンバーとしてデビュー。卒業後は俳優として活動するも、コロナ禍をきっかけにゲーム会社の広報に転身した片山陽加さんに、過去・現在・未来について話を伺いました!
組閣発表後はショックで過呼吸で倒れる
―ー片山さんがオーディションを受けた2006年頃のAKB48はアイドル好きの間では注目を集めていましたが、国民的アイドルというほどの存在ではなかったですよね。
私も名前を聞いたことがあるぐらいで、詳しいことは知らなくて。もともとモーニング娘。さんが好きで、歌って踊れる人になりたくていろいろオーディションを受けていたんです。そんな時にAKB48の3期メンバーオーディションを知って。母に“秋元康さんはおニャン子クラブを作った人だから、安心できるよ”と背中を押してもらい、応募しました。
――応募総数1万2828名の中から合格者20人という難関を突破してデビューしました。
本当にラッキーでした。最初の2〜3年は部活動の延長線の感覚でやっていましたね。活動を続けていくうちにAKB48の人気も出てきたこともあり、街中などで声をかけられるようになって。それでアイドルというか、芸能人としての自覚が芽生え始めましたね。
――2008年にはAKB48の冠番組『AKBINGO!』(日本テレビ系)もスタートし、国民的アイドルへの階段を登り始めた頃ですね。
女の子のグループはギスギスしているんじゃないかと思われがちですが、3期生は和気あいあいとしていて本当に楽しかったです。だから2009年に組閣(チーム&姉妹グループ間にまたがる大規模なメンバーの異動)が行われると聞かされた時は、不安しかなくて。
――組閣でチームAに異動になりました。
それまで3期生は先輩や後輩と絡むことがほとんどなかったので、最初はどう接していいか分からず緊張していましたね。でも実際、先輩たちと一緒に活動するようになったら、小嶋陽菜さんら先輩たちはみなさんフランクで。私は何でこんなに怯えていたんだ……って(笑)。
――AKB48は組閣だけでなく、サプライズ発表が多かったのでメンバーとしては大変だったんじゃないですか?
最初の組閣が発表された時は、3期メンバーと一緒に活動できなくなることがショックで、会場の武道館で過呼吸になって倒れてしまったんです。でもいろいろなサプライズ発表を経験すると、メンバー同士で“大きい会場だし、今日も何かサプライズあるよね”って話し合うぐらいの余裕はできていましたね(笑)。
――2009年にはAKB48の代名詞的イベントの総選挙も開始しました。
最初の年は本当にキツかったです。10代のメンバーが多かったので、明確にランキング付けされるというのが怖くて。私は1年目と2年目はシングルのカップリング曲を歌うアンダーガールズというユニットに選ばれたのですが、シングル曲を歌える選抜入りの壁は大きいなと……。
でも劇場公演やレッスンを頑張ったからといって投票してもらえるものでもないので、総選挙が始まってからは悩んだり葛藤する日々が続きました。
――チームAには不動のセンターと呼ばれた前田敦子さんら人気メンバーもいましたしね。
あっちゃんや第一線で活躍するメンバーと一緒に踊っていたからこそ、自分との差を肌で感じていました。ただ自分と違うものを持っているのはわかるけど、自分がそうなるにはどうすればいいのかがわからなくて、余計に葛藤していました。
“神7”と呼ばれるメンバーはグループだけでなく、個人活動もあって寝る暇もないぐらい忙しそうにしていたのも見ていたので、自分にとってベストな活動って何なんだろう……といろいろ考えさせられる時期でした。一方で、自分に投票してくれているファンの方の大切さも痛感していたので、選抜に入れないのは本当に申し訳ないという後ろめたさを感じていました。
――特に辛かったことは?
歌って踊ることが好きだったので劇場公演は頑張りどころだなと一生懸命取り組んでいたのですが、それだけでは見てもらえないというのに気づいた時はかなりショックでした。
ファン目線で考えると、1秒でも多く“推し”を見たい気持ちも分かるのですが、目の前で踊っているのに自分を見てもらえない場面に直面した時は、芸能界は頑張るだけではダメなんだなって現実を突きつけられてショックで……。
努力したからといって報われる世界ではない
――AKB48総監督の高橋みなみさんは「努力は必ず報われる」と言っていましたよね。
卒業したから言えますけど、努力したからといって報われる世界ではないですよね(笑)。現実を突きつけられて打ちのめされたこともたくさんあったのですが、いろんなことを経験したことでかなりメンタルは鍛えられました。AKB48のおかげで、少しのことでは落ち込まなくなったのは財産ですね。
――番組やブログなどで披露した個性的すぎるイラストが秋元康さんの目に止まり、秋元さんが連載を持っていた『美術手帖』(美術出版社)で対談相手として起用されるなど、違う形で注目を集めたこともありました。
私の描く絵が酷すぎて、秋元さん的にヒットしたみたいです(笑)。3期メンバーでは年上だったこともあって、最初はしっかりしなきゃと思っていたのですが、バラエティーでも気づけばオチ要員になっていて(笑)。
秋元さんには「AKB美術部」の部長に任命してもらい、2012年に行われた『業務連絡。頼むぞ、片山部長! in さいたまスーパーアリーナ』では、コンサートタイトルに名前を使ってもらったり。こういうバズり方もあるんだなと秋元さんのプロデュース力に感心していました。
――2010年には木の実ナナさんらが所属していたアトリエ・ダンカンという事務所に入ったこともあり、俳優活動も増えましたよね。
当時は個人で事務所に入っているメンバーがほとんどいない状態で、コンサート後に突然所属事務所の発表があって。
業界では知られていた事務所でしたが、私は事務所名も初めて聞く状態だったので、事務所スタッフの方と対面する前に急いで検索して(笑)。何も分からないまま、“お世話になります”って状態でした。
――所属した段階で俳優路線に進もうと考えていたんですか?
前年の2009年にAKB歌劇団で初めてミュージカルを経験させてもらったのですが、客席からすぐに反応が返ってくる舞台はやりがいがあるなと感じていました。秋元さんがそれを感じ取って事務所を選んでくれたのかは分かりませんが、自分のやりたいことと所属した事務所の方向性がハマったのは恵まれていました。
――俳優活動に重きを置くために卒業を決めたという感じですか?
AKB48の活動も続けたい気持ちはあったのですが、24歳になって将来のことを考えるようになって。当時アイドルは25歳ぐらいまで……みたいな雰囲気もありましたから。あとダンスとかしても、10代メンバーに比べると体力的にもキツくなってきていて。
“若い子には勝てないな”とネガティブになっていた部分もありました。でもAKB48の活動が好きだったのでギリギリまで悩んでいて、卒業することはスタッフにも直前に伝えました。
――AKB48は7年半在籍しましたが、振り返ってみてどんな7年半でしたか?
グループがブレイクしていく過程を見られたのは本当に幸運でしたね。1期生はお客さんが7人しかいない下積みも経験していますが、私たちは劇場公演に関しては、幸運なことに最初からほとんど埋まっている状態でしたから。
大変なこともたくさんありましたが、経験したくてもできないことをたくさん経験できたことは自分にとって財産ですし、今の自分があるのはすべてAKB48のおかげだと思っています。
――AKB48の肩書きが外れて楽になった部分もあると思いますが、大変な部分もあったんじゃないですか?
半々ですね。AKB48時代は前日の夜に翌日のスケジュールが届いていたので、友達と予定を組むこともできなかったですから。もともと集団行動が苦手で人見知りな性格だったので、1人で活動できるというのは気持ち的にすごく楽でした。
一方で、AKB48という肩書きがあったおかげで頂けていたお仕事もたくさんあったんだなというのも痛感しました。卒業するとオーディションなどで自分の力で仕事を勝ち取らないといけないし、“元”になった途端にオーディションで落ちることが増えたので。
――AKB48時代とは違う悩みが生まれたんですね。
現役メンバーと卒業メンバーでこんなに差があるのかって痛感しました。あと俳優の仕事は1つの舞台や作品が終わると、次までお休みがけっこうできちゃうこともあるので、スケジュールが空いていることが不安でした。
――でもプライベートは充実できるようになったんじゃないか?
まとまった休みが取れるようになったので、母親と旅行に行ったりするようになりました。AKB48時代はメンバーが急病になったりした時などに、代理で出られるようにしていなきゃいけなかったので、オフの日でも遠出ができなかったんです。親孝行ができるようになったのは良かったですね。
セカンドキャリアを考えるようになったきっかけや、会社員になってからの活動や今後の目標について語った後編へ続く。
かたやま はるか、1990年5月10日生まれ。愛知県生まれ、千葉県育ち。2006年、『第三期AKB48追加メンバーオーディション』に合格。翌年4月、チームBメンバーとしてデビュー。2014年、AKB48を卒業。卒業後は舞台を中心に活動。2022年、芸能界を引退。同年、CloudsPlayCompanyに入社。現在は親会社であるCloudsの広報を務める。