2024年7月13日、午後3時。
ヨウジヤマモトの黒いドレスに身を包んだ中森明菜(59)が、軽快なジャズのリズムに身を委ねステージに降り立った。
歌姫・中森明菜降臨
すると豪華なコースメニューに舌つづみを打ち、美酒を味わっていたファンのボルテージは一気に最高潮に達する。
─歌姫降臨
生きる伝説が再び、歌い始める。その瞬間に立ち会える喜びで胸は高鳴るばかり。悲鳴にも近い声が会場にこだますると、早くもハンカチで顔を覆い泣き崩れる人もいる。
そんなファンの前で明菜が1曲目に選んだ曲。それは懐かしくも思い出深い『Re―birth』。
緊張した面持ちで心を込めて歌い上げる歌姫。深々とお辞儀をする彼女の姿には、
「明菜ちゃんおかえり~!!」
「世界一!!」
といった声が飛んでいた。
東京のライブレストラン「COTTON CLUB」でオフィシャルファンクラブの会員向けとなるイベント「ALDEA BAR at Tokyo」が7月12日から3日間開催されると知ったファンは、狂喜乱舞。7万8430円(税込み)と高額チケットにもかかわらず応募者が殺到した。
くしくも13日は明菜の59回目の誕生日。5ステージでおよそ1000人のファンがこのプラチナチケットを握りしめ、6年半ぶりの歌姫の復活ライブに酔いしれたのである。
この日のセットリストは『Re―birth』に続いてデビュー曲『スローモーション』『ジプシー・クイーン』『TATTOO』。途中にアルバム曲の4曲メドレーを挟んで『BLONDE』『北ウイング』、そしてラストナンバーの『Fin』まで、ジャズ風のアレンジを加えた往年のヒット曲を11曲ほど披露している。
「ファンの前で歌うのは、2017年のディナーショー以来。バースデーで大輪のカサブランカの花束がプレゼントされると、『どなたですか?お誕生日の方? おめでとうございます』ととぼけてみせるなど、ファンとのやりとりにも余裕が感じられました。何より無事に歌いきれたことが良かった。明菜も自信がついたんじゃないか」
これまで明菜を長年、取材してきた芸能リポーターの石川敏男氏(77)はこう語る。
7月15日には往年のヒット曲のジャズバージョンをオリジナル映像と共に公式YouTubeで全世界に向けて配信。伝説の歌姫・中森明菜は、完全復活に向けて、今まさに歩き始めようとしている。
中森明菜が『スローモーション』でデビューしたのは、1982年5月1日のこと。新人発掘オーディションの草分け的存在として知られる番組『スター誕生!』(日本テレビ系)の予選会を勝ち抜き、レコード会社や芸能プロダクションのスカウトたちが見守る決戦大会に合格してデビューをつかんでいる。
「明菜の『スタ誕』への挑戦は、'79年、'80年に続いて'81年が3度目の挑戦。山口百恵の『夢先案内人』を歌って番組史上最高得点で合格。『スタ誕』に3回も挑戦した女の子は明菜が初めてじゃないかな」(石川氏)
まさに執念の合格。その陰には最愛の母・千恵子さんへの思いがあった。
「千恵子さんは昭和の大スター・美空ひばりに憧れて歌手を目指して上京。新宿のキャバレーでホステスをしながらステージで歌った経験もあります。小さいころは病気がちで母に苦労をかけた明菜には、歌手になって母親を喜ばせたい。そんな思いが芽生えていたと思う」(石川氏)
群雄割拠のアイドル戦国時代
しかし歌手デビューの夢は叶えたものの、明菜がデビューした1982年は後に“花の82年組”と称される新人アイドルの当たり年。3月に小泉今日子が『私の16才』、堀ちえみが『潮風の少女』でデビューを飾れば、4月には石川秀美が『妖精時代』、早見優が『急いで!初恋』でデビューを飾る。
ほかにもシブがき隊、三田寛子、新井薫子、原田知世、北原佐和子、つちやかおりが続く。まさに時代は、群雄割拠のアイドル戦国時代。ところが明菜が所属する外資系の「ワーナー・パイオニア」は洋楽がメインで当時はまだ、邦楽の実績に乏しかった。
しかしこれがかえって功を奏した、と後に明菜の宣伝を担当することになる元ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の田中良明(71)氏は語る。
「もともとロックに特化したプロモーター会社『ウドー音楽事務所』にいて、レッド・ツェッペリンやエリック・クラプトンなど海外のビッグアーティストを招聘してきたスゴ腕の寺林晁さん(享年77)をワーナー・パイオニアがヘッドハンティング。明菜の宣伝統括に就任すると、彼女のプロモーションのために洋楽の予算もふんだんに注ぎ込むビッグプロジェクトを立ち上げました」(田中氏)
これが後に“育ての親”と呼ばれる寺林氏と明菜の運命の出会いとなる。
「ツッパリ三部作なんて、大嫌い」
群雄割拠のアイドル戦国時代を制するためには、どうしたらいいのか。明菜サイドの戦略は明確だった。
シンガー・ソングライターを積極的に起用して、コンセプトを持った作品で他のアイドルと差別化を図りたい。
そんな狙いからデビュー曲『スローモーション』に続いてセカンドシングルも来生えつこ(作詞)、来生たかお(作曲)の姉弟コンビによる『あなたのポートレート』に決まっていた。
しかし『スローモーション』の売り上げがさほど伸びなかったことから、セカンドシングルもバラード曲でいいのか。迷いが生じていた。しかし、
「次のシングルは曲のイメージを変えたほうがいい」
寺林氏の鶴の一声から、急浮上してきたのが売野雅勇(作詞)、芹澤廣明(作曲)のコンビが手がける『少女A』だった。
ところが、そのデモテープを聴くなり明菜の表情はみるみる曇り、
「イヤだ! 絶対に歌いたくない」と言って泣きじゃくった。
明菜は、主人公の不良少女は自分のことではないか。自分のことを調べて歌にしたに違いないと思い込み、頑なに歌うことを拒んだ。
最終的には担当ディレクターの島田雄三氏(76)が、「もし、これが売れなかったら、俺が責任を取る」と啖呵を切ってレコーディングにこぎつけた。いわくつきの『少女A』はまさに難産の末にこの世の中に送り出されたのである。
ところがこの寺林氏をはじめ、スタッフの狙いはピタリと当たる。挑発的な歌い方やにらみつけるようなレコードジャケットが反響を呼び、『少女A』はみるみるうちにヒットチャートを駆け上がっていった。
高視聴率番組『ザ・ベストテン』(TBS系)や『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)にも出演。明菜は一躍、時の人となった。
快進撃はさらに続く。
サードシングルには、再び来生姉弟のコンビを起用。『セカンド・ラブ』をリリースすると『ザ・ベストテン』では8週連続1位の快挙を成し遂げる。
結果、『スローモーション』『セカンド・ラブ』『トワイライト―夕暮れ便り―』のバラード三部作と、『少女A』『1/2の神話』『禁区』のツッパリ三部作を交互にリリースすることで、思春期の少女が持っている二面性を見事に表現することに成功。
'80年にデビューした松田聖子と肩を並べるスーパーアイドルへと成長していった。
しかし明菜自身は“ツッパリ三部作”のことが好きではなかった。
「『1/2の神話』の歌詞『いいかげんにして』が山口百恵さんの『プレイバックPart2』に出てくる『馬鹿にしないでよ』のフレーズと似通っているのは周知の事実。当時から自分にしかできないものを追い求めていた明菜にとって、“ポスト山口百恵”のレッテルを貼られるのは我慢がならなかったようです」(田中氏)
明菜、このとき17歳。─アイドルの殻を破りたい。
そんな思いが心に芽生え始めていたのかもしれない。
大ブレイク!! 「歌姫誕生」の舞台裏
明菜ファンの間で今も語り継がれる、歴史に残る名場面がある。
そのひとつが'87年12月30日に生放送された番組『夜のヒットスタジオ スーパーデラックス』。安全地帯with井上陽水の演奏をバックに迫力ある歌を披露する『飾りじゃないのよ涙は』である。
この圧巻のパフォーマンスには、もはやアイドル時代の中森明菜の面影はない。一体いつ、明菜はアイドルから唯一無二のアーティストに生まれ変わったのか。
そのターニングポイントこそ、担当ディレクターが島田氏から藤倉克己氏(74)に変わったタイミングではなかったか、そう田中氏は語る。
「洋楽部のディレクターだった藤倉さんを邦楽部に異動させ、いきなり明菜の担当に抜擢したのは明菜の育ての親といわれた寺林晁さん。藤倉さんは周囲の反対を押し切り、ラテンジャズ界で高い人気を誇っていたピアニストの松岡直也さんに作曲を依頼。こうしてできあがったのが『ミ・アモーレ』です。
従来の歌謡曲では考えられない絢爛豪華な世界観に、デモテープを聴いた明菜は声も出ませんでした。藤倉さんのアバンギャルドな発想が明菜をアーティストとして目覚めさせた、そういっても過言ではありません」(田中氏、以下同)
日本の歌謡界に革命を起こした藤倉氏の斬新な楽曲作りには、秘密がある。
「当時のJポップは、Aメロやサビメロをどうするのか、つまり、メロディー作りから入るのが常道。だからどんなにカッコいい歌詞を書いてもどこか昭和歌謡の匂いがします。
ところが藤倉さんはリズムやコード進行から曲作りに入る。いってみれば、小室サウンドをはじめとする'90年代以降の楽曲作りを先取りしていました。こうした洋楽的な発想が明菜の琴線に触れ、『ミ・アモーレ』以降、2人はタッグを組んで独自の世界を切り開いていきました」
藤倉氏の斬新な楽曲作りは、次の『DESIRE―情熱―』でも遺憾なく発揮される。
「作曲を依頼した鈴木キサブローさんが口にした『Get Up Get Up』のフレーズにピンときた藤倉さんは、このフレーズをイントロに持ってきたら必ずヒットする。そう確信して曲作りを進めました。当時としては画期的としか言いようがありません」
'85年『ミ・アモーレ』、'86年『DESIRE―情熱―』で明菜は2年連続して日本レコード大賞を受賞。しかし本人は、決して満足してはいなかった。
─もっと心を揺さぶるような歌を歌いたい。
藤倉氏たちは、歌姫・明菜のために数十曲から、時には数百曲の中からシングル曲を選ぶのである。
しかし'87年にリリースされた19枚目のシングル『難破船』は、そうではなかった。
『難破船』はこうして作られた
『知床旅情』や『百万本のバラ』などで知られ、今年でデビュー60周年を迎えるシンガー・ソングライターの加藤登紀子(80)は、デビュー当時の明菜についてこう語る。
「幸せそうな82年組の中で、明菜さんは何か傷ついたものを抱えている手負いの少女のイメージがありました」
やがてアイドルから脱皮。アーティストとして独自の世界を築きつつある明菜の姿を見て、加藤の中である思いが芽生えていく。
「'84年にレコーディングした『難破船』は、私自身が20歳過ぎに経験した初めての失恋をモチーフに作った歌。この曲を22歳になったばかりの明菜さんに、歌ってほしかった」(加藤)
初めての失恋。そんなストーリーは彼女にしか歌えない。
そんな思いから加藤は歌番組で共演した際、スタジオの隅でひっそりと出番を待つ明菜に、
「あなたにぴったりの歌があるの。歌ってみません? もしあなたが歌うなら、私はしばらくこの曲を歌わない」
そう言って明菜にカセットテープを直接、手渡した。
まもなくして、加藤のホールコンサートの楽屋に明菜から艶やかな花が届けられた。
「メッセージこそなかったけれど、これが明菜さんからの返事だってすぐにわかりました」
担当ディレクターの藤倉氏は楽曲の素晴らしさに、たちまち心を奪われた。カバー曲であっても情念の歌を歌わせたら、明菜の右に出る歌手はいない。
そう信じて、明菜の背中を押した。
「これはシングルにすべき曲だし、歌うべきだよ」
明菜の歌う『難破船』に加藤は心奪われたことがある、と告白する。
「共に出演した『夜のヒットスタジオ』での出来事。明菜さんが間奏で思わず一筋の涙を流す。その涙を見て私はドキッとしました。
悲愴感の漂う情念の涙。私は昭和の歌姫・美空ひばりさんが名曲『悲しい酒』を歌いながら流す涙を思い出しました。あのときの光景が今も忘れられません」(加藤)
初めての失恋に心痛めるヒロインの心情を『難破船』で切々と歌い上げた明菜。
しかし私生活の明菜は、
《たかが恋なんて 忘れればいい》というわけにはいかなかった。
1989年大みそか、金屏風会見の真実
'84年の『サザン・ウインド』から'88年の『TATTOO』までオリコンのシングルチャート16作連続で初登場1位を記録。歌姫として、明菜はまばゆいばかりの輝きを放つようになっていた。
しかし光が強くなれば、闇もまた濃くなる。それがこの世のことわりなのか。
東京・よみうりランドEASTで行われた伝説のライブ「AKINA EAST LIVE」のおよそ2か月後の1989年7月11日。明菜は六本木にある近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こす。
「デビュー当時から明菜は、マッチ(近藤)のファンであることを公言していた。
そんな2人が'85年1月に公開された主演映画『愛・旅立ち』で共演。明菜は大人っぽい歌を歌っていたけど、マッチとの恋が初めての恋。だからのめり込んでいった。
ところが'89年2月。最大のライバル、松田聖子とマッチのニューヨーク密会報道を知って、明菜は自殺未遂事件を起こしてしまう。明菜はとにかく純で一途。ショックが大きかったことは間違いないでしょう」(石川氏)
その後、2人は別れたという報道もあったが、石川氏は事実に反すると否定する。
「別れたという報道は、当時のジャニーズ事務所がマッチを守るために流したミスリード。自殺未遂事件以降、2人が飼っていた犬が粗相をしてマッチが後始末をしていたなんていう話も聞こえてきた。マッチはその後も献身的に明菜を支えるつもりだったんじゃないかな」(石川氏、以下同)
なぜ近藤は、明菜を献身的に支えなければならなかったのか。そこには複雑な事情が絡んでいた。
「将来、2人が住むマンションの費用という名目で、マッチが明菜から7600万円を借りていたなんていう記事も出ていたけど、実際は違う。当時カーレースにのめり込んでいたマッチが、明菜から資金援助してもらったというのが事実なのでは」
どこまでも近藤を信じてついていこうと一途に思いつめる明菜。しかしそんな明菜を奈落の底に突き落とすような事件が起きる。それがその年の大みそかに起きた「金屏風事件」だと石川氏は言う。
「金屏風事件」とは、NHKの『紅白歌合戦』の裏でテレビ朝日が生放送した、新高輪プリンスホテルで行われた明菜の緊急復帰会見のことである。長かった髪を切り、地味なグレーのスーツで現れた明菜は、憔悴しきっていたと石川氏は当時を思い返す。
「『紅白』の裏で行われる緊急会見だから婚約会見か結婚会見かと思って慌てて駆けつけました。そしたら明菜は、記者たちを見回し、迷惑と心配をかけたと謝罪。ファンにも『ごめんなさい』と弱々しい声を振り絞って謝るばかり。
その後、現れたマッチが『明菜ちゃんが復帰するレールを敷くお手伝いが少しでもできた喜びを感じている』なんて言うものだから呆気にとられて言葉も出なかった。
後ろにある金屏風を見て、婚約や結婚はあるのかという質問も飛んだけど、『そういうことはない』とマッチはきっぱり否定していたな。会見中、2人が目を合わせることもありませんでした。
この会見、ジャニーズサイドから圧力がかかって行われたことは紛れもない事実。何も聞かされていない明菜自身が一番驚き、傷ついたでしょう」
思いつめて自殺未遂にまで及んだ明菜一世一代の恋は、こうして悲しい結末を迎えた。そして明菜は、その傷を背負ってその後も生きていくことになる。
加藤登紀子は、「あれは失恋だけが原因ではない」とこう分析する。
「常にトップを走ってきた彼女が、音楽番組への出演が減っていく中で精神的に参っていた部分があったのだと思う」
「失われた10年」女優としての明菜
所属事務所を辞め、個人事務所を設立した明菜は、やがて長年籍を置いたレコード会社、ワーナー・パイオニアとも決別。その後もさまざまなトラブルに見舞われ、'80年代の輝きを失っていく。
「迷走してしまったのは、中森明菜を利権と考え、群がった人たちに乗った本人の甘さが原因ではないでしょうか。利権と考える人たちの中に芸能界を仕切れる本当の大物もいませんでした」(田中氏)
「トラブルに巻き込まれ、マスコミに叩かれると明菜は『そんなことしてない』『そんなことないのに』と思い悩み、ますます落ち込んでしまう。もしマッチとあのまま結婚、そして離婚して踏ん切りをつけていたらもっと早く吹っ切れて、復活することができたかもしれない」(石川氏)
復活を夢見るファンの期待にも応えられず、もがき苦しむ歌姫。そんな明菜が活路を見いだしたのが俳優業である。
'92年に安田成美とW主演した月9ドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)でダンサーの卵である月島カンナ役を熱演。最終回では最高視聴率31・9%の大ヒットを記録している。
冒頭で触れた今年7月のライブでも客席から「カンナ~!」の声がかかると、カンナの役の声で「優美子ォ~(安田成美の役名)」と返す一幕もあった。
明菜の演技力について、'88年のドラマ『中森明菜のスパゲティー恋物語』(フジテレビ系)で共演した俳優・石田純一(70)は、
「この物語は小学生の妹と弟がいる気丈な姉(明菜)が、3年前に別れた男と再び出会うラブストーリー。アイドルだから、自分が演技のフォローしなくてはと思っていたら、明菜さんはまったく必要なかった。とにかく細かいナチュラルなお芝居が素晴らしかった」
と絶賛している。
'90年代に入って女優として新たな道を歩んでいく明菜。暗中模索の中、デビュー20周年を迎えた2002年。ついに“歌姫復活”の確かな手応えをつかむ。
今年にかける中森明菜 真の復活まで─
度重なるスキャンダルとトラブルで孤立無援となっていた明菜を救ったのは、明菜の育ての親といわれる寺林晁氏であった。ワーナー・パイオニアを離れて以来、明菜とは疎遠になっていたが、ユニバーサル ミュージックの執行役員になっていた寺林氏は、
「明菜を潰すわけにはいかない。アイツにはそれだけの才能がある」
そう公言。歌姫復活のために、寺林氏は“失われた10年”のトラブルの原因をすべて断ち切って事務所も含め新たな体制をつくり上げた。
メジャー復帰第1弾として寺林氏が考えたのが2002年に発売されたカバーアルバム『―ZERO album―歌姫2』である。
デビュー20周年。頭を丸めたジャケットは生まれ変わった明菜を表しているようでインパクトがあり、アルバムチャートでは7年ぶりにベストテン入り。14年ぶりに『NHK紅白歌合戦』にも出場。風前の灯といわれた明菜は奇跡の復活を遂げたかに見えた。しかし、
「2010年に免疫力低下による体調不良から音楽活動の無期限休止。'14年に復帰してその年の『紅白』で元気な姿を見せるも、'17年のディナーショーを最後にファンの前で歌うことはありませんでした」(石川氏)
さらなる悲劇が明菜を襲う。2022年、明菜の窮地をたびたび救ってきた寺林氏が急死してしまう。
「2022年はデビュー40周年を記念したベストアルバムの発売が、年末に決まっていました。『紅白』へのサプライズ出演も水面下で動いていました。その矢先の寺林さんの急死。それだけに残念でなりません」(田中氏)
それから2年。前述の「COTTON CLUB」で6年半ぶりにファンの前に立った明菜には、『紅白歌合戦』への復帰もささやかれている。
「歌手に完全復帰するためには『紅白』に出たいという思いもあるだろう。でも『紅白』となれば基本、生出演。『紅白』で輝きを取り戻せば、来年はメディアでも活躍できるだろう。でも、もし失敗したら誰が責任を取るのか。そんな不安もNHKサイドにはあるかもしれない」(石川氏)
「明菜ファンは還暦を迎えてもサプライズを期待しているはず。ジャズバージョンはまだ序章に過ぎません。個人的には全盛時の絢爛豪華な明菜サウンドで復活すべきだと思っています」(田中氏)
「明菜さんには、言葉を伝える力がある。ウィスパーボイスばかりと言う人もいますが、言葉とウィスパーがハマればウィスパーボイスほど強いものはない。人はしゃべれる限りは歌える。シャンソンもそう。明菜さんほどの歌手にはぜひ復活してほしい。彼女はそういう骨の髄までのプロの歌手だと思います」(加藤)
いまだに大勢のファンが完全復帰を願う歌姫・中森明菜。期待は高まるばかりだ。
<取材・文/島右近>