提供精子に頼らないとわが子を授かれない夫婦たちが少なからずいる。日本では法規制がなく、さまざまなリスクをはらんでいるというのが現状だがそんな中、ドナーの身元情報を登録しての精子バンクを始めたクリニックがある。一体、何が変わるのか? バンクを立ち上げた「意味」と「意義」を語ってもらった。
完全非匿名制の精子バンクが誕生
男性の100人に1人が無精子症といわれ、その場合、妻が夫の精子で子どもを持つのは難しい。しかしいざ提供精子での人工授精(AID)を望んでも、日本では精子ドナー(提供者)の数は少なく、医療を受けられる機関は限られているというのも事実。
そんな中、完全非匿名制の精子バンクが、今年5月、日本橋『プライベートケアクリニック東京』内に誕生した。非匿名、つまり身元情報を開示できる精子提供者を募り、子どもを望む夫婦につなぐ。
「大人になって自身の出自に悩むことがないよう、子どもたちの権利を守りたい。ドナーが誰なのかを知る権利を保障してあげられたらと思っています」
そう話すのは、精子バンクの発起人であり、同院で不妊カウンセラーを務める伊藤ひろみさん。伊藤さん自身、海外の精子バンクを利用して2人の子どもを授かった不妊治療の当事者でもある。
「日本だとやはりドナーは匿名になってしまうので、非匿名での精子提供が義務づけられているイギリスで治療を行いました。2人ともドナーは同じ日本にルーツを持つ男性で、1人目は人工授精、2人目は体外受精で授かっています」
自身の経験を踏まえ、デンマークにある世界最大の精子バンク会社『クリオス・インターナショナル』で日本事業を発足。日本事業担当ディレクターとして、子どもを望む500組超のサポートに携わる。その後日本にも精子バンクをと一念発起し、『プライベートケアクリニック東京』院長・小堀善友医師の協力を得て、開業にこぎつけた。
「お問い合わせは多く、これまでに約80人の方からドナーのお申し込みをいただきました。現在も精子提供を受け付けています」
と伊藤さん。これまで国内の精子ドナーは基本的に匿名で、完全非匿名の精子バンクは日本初の試みだ。子どもにとっては出自を知る権利が与えられ、アイデンティティーが守られる。
一方で、命の選別、優生思想と、懸念もいろいろありそうだが─。
「非匿名は誤解されることが多いのですが、親となる人が精子提供者を選ぶことはできません。ドナーとご夫婦のマッチングは当院が行い、血液型と人種(肌の色)を夫と合わせるだけです。非匿名とは、ドナーがどのような人であるか、成人した子どもに知る権利があるということ。
ドナー希望者にしても“自分の遺伝子を残したい”という人が少なからずいますが、当院ではそのような動機での提供はお断りしています。なので、優生思想とは完全に切り離された考えで取り組んでいます」
では、将来的にはどうなのだろう? 非匿名ゆえ、成年後に子どもが望めばドナーの身元情報は開示され、対面も可能になる。そこで養育や遺産問題など、トラブルが起こる心配はないのだろうか?
「民法の規定から、当院では婚姻夫婦に限って精子を供給しています」(伊藤さん)
ドナーに名乗りを上げる動機は
精子ドナーは遺伝的な親ではあるが、民法では親とは認められておらず、法律的にドナーの遺産を相続する権利を子どもが持つことはない。そのためドナーが誰だか知ったとしても、血縁関係のこじれ、遺産相続問題などに発展するおそれはないという。
「ただ、ドナーが生まれた子どもの父親にならないというのは婚姻夫婦のケースのみ。夫がいない人が提供を受けると、その子どもがドナーを特定したとき父親だと認知させられるリスクがある。婚姻関係に限っているのはそのため。ドナーにも、“あなたは親じゃないんですよ、親は提供精子で治療を受けた夫婦2人なんですよ”としっかり説明をして、理解していただいた方のみ登録をしています」
『プライベートケアクリニック東京』で制定しているドナーの登録年齢は20歳~45歳まで。ドナー希望者はまず、精液検査を受け、面談、問診、感染症検査、公認心理師とのカウンセリングなどを経て、晴れてドナー登録となる。
ドナー登録まで計7回の来院が求められて、その過程でドナーとして正式に登録されるのは約3割となる。多大な手間暇が必要で、ドナー登録のハードルは高い。ちなみにドナーへの報酬はというと?
「7回来院された方に一律7万7000円を補償としてお支払いしています。ただ来院とは別に、ご自宅から公認心理師のオンラインカウンセリングを受けてもらったり、ドナープロフィールの作成、生まれてくるお子さんやご夫婦へ手書きのメッセージも書いていただくので、実際にはかなりの時間がかかっています」
報酬目当てではとてもできない話だ。実際、地方在住のドナーの中には交通費が補償を上回るケースもあり、また何人かからは補償の受け取りを辞退したいとの申し出があるという。
現在登録が確定しているドナーは約20人。そうまでしてドナーに名乗りを上げるのはどんな動機があるのだろう。
「不妊で苦しむ方のお役に立ちたい、助けてあげたいという方、自分が子どもがいて、とても幸せだからその喜びを共有したいという方もいます。今登録している約20人のドナーはどの方も本当に真剣で、責任感を持って申し込んでくださった方ばかり。
かつ子どもの権利も大切にしてくださっている。どの方がドナーだったとしても子どもたちが安心してお会いできる方ばかりなので、早く患者さんとおつなぎできたらと思っています」
実際の医療行為は病院(産婦人科)で行われ、早ければ今年11月から人工授精を開始。最短で来年秋には初めての子どもが誕生することになる。
いざ子どもが生まれても、ドナーの身元の開示は18歳になってから。そこに向け、まず子どもに出自の告知が必要になる。
本人が望めばドナーが誰かを知ることができる
「告知は幼いうちから、できれば6歳前から始めてほしいと思っています。当院ではドナーに手書きのメッセージを書いてもらっているので、親御さんが適切なタイミングで子どもに見せる・読んであげるというのもいいでしょう。
私の子どもたちは8歳と5歳になりましたが、2歳のころから話をしています。絵本を使って、“パパには種がなくて赤ちゃんができないのだけれど、あなたにどうしても会いたかったので、優しい人に助けてもらってあなたが生まれたんだよ”と伝えて。子どもが18歳になったとき、本人が望めばドナーが誰かを知ることができます」
伊藤さんの仕事もまたドナーと夫婦をつなげば終わりというわけではない。子どもが18歳になるまで見守り、長いスパンで彼らと関わっていく。
「お子さんが18歳になったとき、もしドナーがどこの誰か知りたい、連絡したいということであれば、まず当院に問い合わせていただきます。そこでお子さんが状況を理解していて、心理的にも問題ないことが確認できれば、ドナーに連絡を取り、身元情報をお伝えさせていただきます」
子どもを望む不妊夫婦が多い一方、精子提供にまつわる認知は低い。法整備もまだまだ途上で、日本産科婦人科学会はドナーを匿名としている。不妊の当事者として、カウンセラーとして、伊藤さんがこの先目指すものを聞いてみると─。
「私は将来的に完全非匿名制にすべきだと思っています。18年後にドナーの気持ちが変わったとしても、開示の意向は覆さない。その保障があれば私のような親は自信を持って子どもに出自の告知ができる。子どもに“もしあなたが知りたければドナーが誰だか知ることができるし、もしかしたら会えるかもしれないよ”と言える。
そのためにも、信頼できるドナーを集めて、継続的な関係性をつくるとともに、夫婦が安心して告知ができる環境にしていきたいんです。まずはみなさんにドナーについて広く知っていただくことがいちばん。そして将来的に、非匿名での精子提供が当たり前になる日がきたらと思っています」
取材・文/小野寺悦子