2008年に紫綬褒章、2018年に旭日小綬章を受章するなど名実共に名優だった西田敏行さん

 10月17日、西田敏行さんが東京都内の自宅で息を引き取った。死因は虚血性心疾患で、76歳だった。

「最後に公の場に姿を見せたのは10月8日。米倉涼子さんが主演を務め、今年12月に公開される映画『劇場版ドクターX FINAL』の完成報告会見でした。この日の西田さんは、イベント中に“終わるのが嫌だ”と、名残惜しんでいました。報道によれば、来年1月からテレビ朝日系で放送される連続ドラマへのレギュラー出演も決定していたそうですから、まだまだ仕事に打ち込む気持ちでいたのでしょうね」(スポーツ紙記者、以下同)

 1947年に福島県で生を享けた西田さんは、幼いころから演劇の世界に興味を持ち続け、標準語を学ぶ目的も兼ねて高校進学と同時に上京。その後、明治大学に入学するも1日で退学し、演劇の世界に入った。

壮絶な下積み生活

1970年に劇団青年座に入ると、在籍1年目で主役に選ばれるなど、すぐに頭角を現しました。その後、同劇団の研究生として入ってきたのが、生涯の伴侶となるAさん。ふたりはすぐに意気投合し、1974年に結婚しました

1981年、公園でくつろぐ西田家。当時から家族仲が良いことで有名だった

 当時の西田さんはテレビドラマに脇役で出演するなど徐々に知名度を上げつつあったが、まだまだ駆け出しの貧乏役者。結婚式も行えず家賃3万5000円の間取りが2Kのアパートに住み、食費を浮かせるため水だけで1日を乗り切ったこともあったそう。

 Aさんはかつての雑誌のインタビューで、西田さんと結婚するにあたり、

《生活の厳しさは覚悟しています》

 と、複雑な心境を語っていたが……。

「1978年に日本テレビ系のドラマ『西遊記』の猪八戒役に抜擢されると、続く1980年には『池中玄太80キロ』で初主演の座を射止めました。翌1981年にリリースしたシングル曲『もしもピアノが弾けたなら』が大ヒット。同年の『紅白歌合戦』に出場するなど歌手としても注目を集めるように。同時期にはバラエティー番組でも活躍するなど、マルチタレントとして一気に才能が開花したんです」

 1988年からは22年に及ぶ人気シリーズとなった映画『釣りバカ日誌』に主人公・ハマちゃん役で出演。2001年には、『探偵! ナイトスクープ』(朝日放送)の2代目局長に起用されるなど、国民的知名度を得た西田さんだが、その私生活に派手さはなく、売れっ子にもかかわらず、地に足がついた生活を送っていた。

 西田さんが20年近く通った串焼き店『若竹』の店主は、彼との思い出を語ってくれた。

「よく、数軒ハシゴしたあとにうちに来ては、カウンター席に座って“焼き鳥を適当に盛って!”と注文してくれました。よく飲むのはウーロンハイや緑茶割り。ご一緒に2代目ハマちゃんを演じた濱田岳さんや、西田さんと共演経験のある熊谷真実さん、『男闘呼組』の高橋和也さんと来店することもありましたが、周りに気を使ってか、毎回穏やかに飲んでいました」

叶わなかった妻との約束

 店内の壁には、西田さんの似顔絵付きの直筆サインも。お酒をこよなく愛した西田さんは、地元周辺の飲食店に頻繁に出没していたという。

「立ち飲みができるお店で偶然西田さんにお会いしてビックリしました。この辺のジャズバーにもよく来ていたそうです。ピアノに合わせてエルヴィス・プレスリーのモノマネを一般客に披露していたとか」(近所の住民)

 遅くまで飲み歩く一方で、2人の娘の父として子煩悩な一面も。

お子さんたちが幼かったころのインタビューで西田さんは、自身を“親バカ”と称して子どもたちを溺愛。仕事で出かける前は10分ほどキスやハグなどのスキンシップを行っていたとも打ち明けています。かつては、お子さんたちを女優にしたいという願望もあったようで、一緒にCM出演したことも。結局、その願いは叶いませんでしたが、娘さんたちは西田さんの仕事のサポートを続け、家族仲は良好だったようです」(前出・スポーツ紙記者、以下同)

 公私共に順風満帆だったが、50歳を超えると徐々に体調を崩すようになる。

「2001年に頸椎症性脊髄症を患い手術を受け、2003年には心筋梗塞で緊急入院。2016年には自宅のベッドから転落して頸椎亜脱臼と診断され、のちに手術。近年は歩くのも難しくなり杖を使うように。ほかにも、糖尿病や高血圧などの持病を抱えていたようです」

『ドクターX』で西田さんは蛭間重勝という、どこか憎めない悪役を好演

 満身創痍の西田さんをAさんは献身的に支え続けていた。

「西田さんは生粋の演劇人で仕事を愛していましたから、病気で引退するとはいっさい考えていなかったようです。それを知っていたAさんは西田さんが通う病院や仕事現場にまで同行するなどサポートを続けていたんです」

 そのかいあってか、回復の兆しも見せていた。

亡くなる2週間前、西田さんがひとりで自宅からコンビニに出かけるところを見かけました。両手に杖を持って危なげではありましたが、以前は車いすをAさんに押してもらいながら移動されていましたから。良くなりつつあるのかなと思っていたので残念です」(別の近所の住民)

 役者として成功後もスキャンダルとは無縁で、最後まで仲睦まじかった西田夫妻。そんなふたりには、共に思い描いていた夢があったという。

西田さんは、いつか自分の劇場をつくろうと考えていたんです。Aさんも“自分の劇場があれば、好きなときに好きな芝居ができる”と賛成していたとか。実現こそしませんでしたが、Aさんは演技をしている西田さんのことが大好きだったのでしょうね……」(芸能プロ関係者)

 生涯現役を貫いた西田さん。その陰には50年にわたる愛があった─。