挿絵/小川悟史

 

 ある料理、ある酒を口にするとき、将又(はたまた)、ある店であのメニューを頼むとき、ふと思い出してしまう人―。料理やお酒をきっかけに引き出されるあの日、あの人を描く。グルメじゃないけど、僕にとっての忘れられない味は……。

* * *

〈ジムを解約してから二キロ太ってしまった!〉
〈ラーメン食べると眠くなるの謎すぎる〉
〈良いマッサージ師、渋谷で見つけたから今度共有します!〉
〈終の住処、第一候補は湯河原〉
〈あー寝ます! おやすみ!〉

 朝起きたら、こんな一方的な連投LINEが届いていた。送り主の彼女とは、僕が二十代の前半に出会った。出会い方は最悪だ。浮かれて入った横浜市にある関内のキャバクラで、「こういうところ長いの?」と僕が不躾に聞いて、「そういう質問が一番ダサいよ」と言われたところから始まった。

メモ機能以上、恋人以下

 その場限りのメール交換をすると、次の日には正真正銘、混じりっけなしの営業メールが会社のパソコン宛に届く。たしか、シフト表などの画像も貼り付けてあったと思う。当たり障りのない返事をして、そのままフェードアウトするはずだった。それがどういうわけか、連絡を取る関係は細々と十五年以上も続くことになる。最初はスマートフォンじゃなかったので、アドレスも違った。何度かのメールアドレス変更、LINEへの移行と、まったく会う約束もせずに、文明の利器を感じながら、関係だけがただただ続いた。

 友人に、彼女との関係を聞かれたとき、「メモ機能」と答えたことがある。お互い、周りの誰かに言うほどでもない、でも誰かには言いたい、ふと思いついたことを送る相手として最適だった。

 彼女は店を辞め、きっと私生活でもいろいろあったはずだ。だが十五年間、プライベートなことにはお互い触れずにきた。店でのおざなりなメール交換以来、再会したこともない。画面の中だけの関係だ。

「だったら、向こうが誰かと入れ替わったらわからないじゃないか」

 そう友人に言われたこともある。ただ、濁点の打ち方や使う単語で、彼女と中身が替わったら一発でわかる自信があった。きっとあちらもそうだと思う。

 男女関係を越えた友情、というと聞こえはいいが、なんとなく女性であることは、意識している自分がいる。向こうもなんとなくだが、そんな感じがする。お互い、十五年間、恋愛的な話もまったく共有しなかった。心許してはいたが、どこまでもみっともなさを共有する関係ではなかった。でも、だからこそ、十五年も程よい距離感で、突き詰めない関係をやってこれたんだと思う。

 一度か二度、〈会おうか?〉という展開になったことがある。でも結局、会うことはなかった。理由は、お互い月日が経ち過ぎて、相手の顔を憶えていないという、とんでもないものだった。もし横断歩道の向こう側に彼女が立っていても、僕は絶対に気付かない自信がある。彼女もそうだろう。

 だけど、〈ビキニを着たら、はみ出た!〉というLINEは届く。僕は〈最近、新宿でアスター麺を昼に食べたら、胃がモタれて、夕飯を食べることができなかった。マジでおじさんだわ〉と返した。〈アスター麺って?〉と彼女。〈新宿にあるじゃん。『銀座アスター』って中華料理屋。ちょっと高いけど、美味しいの〉と僕。〈ヘー〉と返事が来て、その話は終わる。

 お互いメモ機能以上、恋人以下なのだ。SNSが登場する十数年前から、僕たちはふたりだけで、つぶやきあっていたのかもしれない。ふと思ったことを、ふと何げなくつぶやく。答えが欲しいわけでも、結論を言いたいわけでもない。次の瞬間には消えてしまいそうな感情と言葉を共有できる関係。それは程よく心地いいものだった。

 そして今日の夕方、事件が起こる。〈テアトル新宿はやっぱりいいわ〉と僕が送ると、秒で〈テアトル新宿の階段でイチャイチャしているカップルがいて、最悪なのを除いたらあそこは最高だ!〉と返信がきた。それを受け取ったとき、僕の目の前にはテアトル新宿の階段でイチャイチャしているカップルがいた。「えっ!」と咄嗟に周りを見渡したが、映画が終わったところだったので、大勢の人たちが階段を上り下りしていて、彼女らしき人を判別することはできなかった。というか彼女の顔を僕はもうわからない。〈いま、いた?〉と僕。〈うん〉と彼女。〈映画どうだった?〉と彼女が訊いてくる。〈うーん〉と僕は返す。〈わかる〉と彼女は“(笑)”をつけてすぐに返信してきた。

〈『銀座アスター』行ってみたいな〉と彼女からのLINEにはあった。

 階段を上がって、外に出た。〈これからどう?〉と僕は迂闊に誘う。

〈いいかも〉と彼女から返信があって、僕はすぐに『銀座アスター』に向かう。だけど結局、彼女は現れなかった。

〈ごめんね〉

 次の日に連絡が届く。昨日、店の奥でひとり食事をしている女性がいた。それが、彼女だったのかもしれない。ふと〈ごめんね〉とだけ記されたメールを読んだときに、そう感じた。

 そしてまた、僕と彼女だけの関係は通常営業に戻っていく。

 いつか本当に、ふたりでアスター麺を食べる日が来るかもしれないし、やっぱり来ないかもしれない。人は外見じゃない、というのは簡単だが、図らずも本当にそうなってしまった相手がいる人生も悪くはないなと、十六年目に入ったいま、しみじみと思っている。

燃え殻さん 取材協力/出窓BayWindow

燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。

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