口語短歌が主な作風で、短歌界では異端児扱いを受けてきた枡野浩一さん。今年春からは『NHK短歌』の選者を務め、「歌人さん」の芸名で芸人デビューも果たした。この景色に行きつくまでにはさまざまな葛藤があったという。
《毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである》
歌人で芸人でもある枡野浩一さん(56)の作品だ。
若者たちの“短歌ブーム”の火付け役
現代語で短歌を詠み、若者たちの“短歌ブーム”の火付け役となった枡野さん。冒頭の短歌は2022年に刊行された『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』(左右社)収録作。高校の教科書に掲載された代表作を含む同書は、現在9刷。デビューから27年、歌人として揺るぎない評価を得た。
そんな彼は、爆笑問題や'22年のМ―1グランプリでチャンピオンとなったウエストランドが所属する芸能事務所『タイタン』に今年の5月から所属している。
芸名は「歌人さん」。『タイタンの学校』6期生として一年間、ふたまわり下の同期らと学んだという。
「僕を含めて50代以上が5人くらいいて、40代もいて、息子くらいの子たちももちろん多くいて。僕はほぼ皆勤で通っていました。宿題や提出物も一度も忘れたことはないです。なんなら仕事も断ってタイタンの学校に通っていたくらいで(笑)」(枡野さん、以下同)
『NHK短歌』にもレギュラー出演する歌人がなぜ、お笑いの世界に飛び込んだのか。人生の紆余曲折の中にその答えはあるのだろうか─。
不条理を抱えた子ども時代「人の悪意がわからなかった」
枡野さんは1968年9月23日に仮死状態で生まれた。
「関東逓信病院(現在のNTT東日本関東病院)で、へその緒が首に巻きついて生まれてきたようで、叩いてようやく泣き声をあげたとか」
東京・西荻窪で育ち、今も周辺に住んでいるものの当時の記憶はない。
「親の都合で茨城県水戸市に転居し、水戸市の中で計4つの小学校へ通ったんですよ。思い出はないんですけど、記憶って土地につくと思うんです。普段忘れているけど、近くを歩くと思い出すような」
3歳上と4歳下に姉と妹を持ち、厳格な両親のもとで何不自由なく育った。
「母が専業主婦で、父は研究者でした。両親は厳しく、テレビはNHKしか見ちゃダメだった。小さいときは、ピンク・レディーとキャンディーズの区別もついていなかったんです。それで本好きになったのかな」
習い事はピアノにバイオリン、スイミングスクールと情操教育を受けたようだが─。
「ピアノはまったくやる気がなく、上達しませんでした。バイオリンは自分で『やりたい』と言ったものの、全然練習しなくて初心者の曲を発表会でやっただけです。運動ができない僕を親が心配し、スイミングスクールにも通わせてくれたのですが運動音痴なままでした」
現在はシニカルな視点を持った短歌が有名な枡野さんだが、子どものころは他人の悪意がわからず競争心も希薄だったという。
「幼稚園の工作の時間に、僕の作品が盗まれたんです。そのとき初めて人の悪意というものに触れたのかな。僕は人のものを盗るとかアイデアをパクるっていう発想がなかったので驚いたんですよね。小学校の友達に自転車のベルを盗まれたときも、ただびっくりしました。人の悪意にはいまだに鈍感かも」
枡野少年には競争心がなかった。
「かけっこが何かがわかってなかったんですよね。僕がトップを走っていてもみんなが遅いのを心配して振り向いたら、ビリになっちゃったりとか。速く走ることがなぜいいのかいまだにわかんない。オリンピックの楽しみ方もよくわからないですね」
そんな枡野少年の楽しみは、図書館での読書。
「小学校高学年から転居した東京・小平市内には図書館がたくさんあったんです。子ども向けの児童書とかSFとか。作家でいうと、筒井康隆とか、星新一とか。小松左京とか北杜夫とか遠藤周作とか読んでいました。中でも星新一さんの『ショートショート』がのちの短歌につながったと思います。当時から短く書くことに憧れたんですよね」
テレビやアイドルの話を友達とすることもなかった。
「勉強は小学生のときは普通にできたし、作文が得意だったので、他人のものも書いてあげた。宿題忘れたときも、作文を書いてあるテイで朗読し、一瞬で書いて提出したり。でも、漢字は0点。作文もひらがなで書いたりしていたんです。当時からできることと、できないことが極端だった」
中学ではレザークラフト部に所属、友達もつくらず淡々と過ごしたという。都立小金井北高校に進学し、徐々に文学への目覚めが訪れる。
「廃部寸前の文芸部に入って、1年生で部長になったんです」
一人で多数の筆名を使い、ショートショートや詩を書いた。見かねた図書室仲間が入部したが、方針をめぐって、枡野さんは退部した。
「高校時代を舞台にした小説『僕は運動おんち』(集英社文庫)を書いたときに当時の友人を取材したんです。バレーボールの試合でストレート負けするシーンがあるんですけど、友達が書いてくれた僕の描写をそのまま転載したんですよ。その箇所がいちばん面白いと言われると、ショックですね(笑)」
このころ、歌人でエッセイストの俵万智さんの『サラダ記念日』(河出書房新社)が出版され、空前のブームになっていた。
「教科書の短歌には興味がなかったんですが、俵万智歌集には夢中になりました。本好きの母がブームになる前の初版本時に『サラダ記念日』を買ってきたんです。それを読んですごく面白いと感銘を受けた。
当時、他の人たちは『誰でも書けそう』と言っていましたが、僕は逆で『まねできない』と思いましたね」
大学を中退、歌人人生のスタート
高校を卒業し、専修大学経営学部に合格。文学研究会に入り、学園祭で講演会を企画するなど、充実しているように見えた大学生活は半年で幕を閉じた。
「サークル活動はめちゃくちゃ熱心にやっていました。文化祭の講演会を企画したんですが、終わった後に学校に行かなくなりました。簿記とかについていけなくなったんです」
その後、再受験のために通った予備校では小論文が評価され、教材に使われたり、他の校舎からファンレターが届くこともあったというから非凡な文才が当時からあったのだろう。そんな中で短歌を作るようになった。
「予備校の漢文の授業中、急にたくさんの短歌が頭に浮かんだんです。それがもう最初の代表作です。ほんとに(頭の中に)出てきたみたいな感じでした。人生真っ暗だと思っていた中で、100首ぐらいの短歌が一気に降りてきた。同時期、『現代詩手帖』に送った詩も全部掲載されて」
このころから類いまれなるコピーの才能を光らせるようになった。
「作詞家をやろうと、事務所に所属したこともあります。カラオケには、僕が作詞した曲が1曲だけ入っています。米屋純さんという方の『とりかえしのつかない二人』という曲。印税が1年あたり5円くらい入ります。僕しか歌ってないと思いますよ(笑)」
予備校に通った後には、リクルート社に入り、雑務のアルバイトを始めた。
「リクルート事件の直後だったせいで、質が悪くても入れちゃったんだと思いますね。面談の日に履歴書を忘れていったんですよ。そんな僕をよく採用しましたよね」
採用後はスーツを着て、朝から晩まで正社員のように働いた。
「何もできない僕にみんなびっくりしたと思います。例えば、『カレンダー作って』と言われても、普通は30分で終わるところを1日かかっちゃう。周囲もアキレて怒ることもできなかったんじゃないかな」
リクルート社では当時、勉強会や適性テストが1年ごとにあったが、作文の点だけはとても高かった。
「将来、コピーライターになりたいから、会社にお願いして、夜には養成講座に通いました。1年後にリクルートを辞めたいと上司に告げるとクリエイティブ推進課に異動になったんです。この部署は楽しくて外部のコピーライターを招いて勉強会を開いたり。僕も課題に参加させてもらうと、成績がよかったんです。僕ばかり選ばれちゃう」
2年勤め、上司が独立したタイミングでリクルートを退社。ライターなどのバイトで食いつないでいたある日、コピーライター養成講座の先生から電話がきた。
「『うちに来ないか?』と言ってくれたんです。当時の僕の生活はギリギリ。実家を出て文京区のぼろアパートに住み、借金もつくっちゃって。結局、借金は返せないくらいになったので、任意整理したんです。これが後に問題となるんです」
『かんたん短歌』で異端児として歌人デビュー
'95年6月、第41回角川短歌賞において応募作品『フリーライターをやめる50の方法』が最終候補になったものの、落選した。このころ、ルポライターで、漫画原作者の藤井良樹さん(59)と知り合う。
「枡野は当時、サブカルっぽかったんですよ。イメージでいうと、シンガー・ソングライターの小沢健二とか、スピッツのボーカル草野マサムネのような、不良っぽくない文化系草食男子でした。歌集の2冊同時出版が決まったとき、ある学校の文化祭に行った帰りの電車で、“どうしたら歌集がベストセラーになるかなぁ”とアイデアを出し合ったのを覚えています」(藤井さん)
短歌界では異端児として話題になった。追悼集『ガムテープで風邪が治る:水戸浩一遺書詩集』(新風舎)を刊行。これは20歳のときの枡野さんのペンネーム。ガムテープで口がふさがれた状態で水戸浩一が発見されたという当時の悪ノリだった。愛蔵版では、枡野浩一を前面に出しネタバラシをしたのだが。
「僕の正式なデビュー作は『てのりくじら』(実業之日本社)ですが、『ガムテープ〜』が一応、最初の書籍作品です。自費出版しようと思ったんですが、出版社がお金を出してくれて。水戸浩一の追悼本のフリをした本です。復刊して、愛蔵版にするとき、枡野だとバラしちゃったんですけど、真に受けた作家もいたので、案外そのままでもバレなかったかも」
その後も、短歌を作り続けた。'97年には『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』(実業之日本社)を2冊同時発売し、歌人デビューした。
「その前からワコールのPR誌『ワコールニュース』に、短歌と短いエッセイを連載させてもらったり、月刊誌『スコラ』では、小さいコラムを書かせてもらっていました。『週刊読書人』でも、短いものを書いていたほか、音楽ライターもしていて仕事は途切れなかったですね」
歌人デビュー前は『AZ』(エージー)という広告会社で約2年、正社員で働いた。
「三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)の行内ポスターやチラシの文面を書く仕事をしていました。当時は、土日に音楽ライターとしてインタビューもしていたんです。事務所に入り、作詞に挑戦もしました。
AZ退社後は町山智浩さんが編集者だったころの『宝島30』で漫画紹介コラムを連載させてもらいました。石原慎太郎さんと小林よしのりさんの対談もまとめています。『週刊SPA!』でもユーミン特集やドラマ脚本家特集、日本語ヒップホップ特集を担当しました」
順調に仕事に突き進んでいるように見えた枡野さん。が、この後ある出会いで歯車が狂っていく──。
結婚、そして離婚。妻からストーカー扱いされて─
29歳で『君の鳥は歌を歌える』(マガジンハウス)を刊行した直後、女性人気漫画家と結婚した。
「僕はもともと彼女の作品のファンだったんです。知り合ったときの彼女は既婚者で、お子さんもいたし、相手にされないだろうなと思っていました」
出版社のパーティーで顔見知りになったことをきっかけに、彼女の自宅に招かれるように。
「食事に誘われた僕は浮かれ気分でした。そのときはまさか彼女が僕を男性として見ているなんて思っていなかったから、彼女の娘さんと紙風船で遊んであげて、家政婦さんが作ってくれたごはんを食べてその日は帰りました。でもまぁ、その後そういう関係になって。僕はただ無邪気に『子どもができたら結婚してくれるかな』なんて思っていて。上の子のお父さんになる気でもいたんです。まだお互いのことを全然知らないことにも気づかずに」
幸せの絶頂にいた枡野さんは違和感も見過ごしていた。
「初めてのデートは新宿ゴールデン街でした。彼女は僕が酒に強いと思っていたようなんですが、実は僕は酒が飲めない。あまり僕のことを見ていないんだなと思いました」
枡野さんが望んだとおり、付き合ってすぐに2人の間には子どもができ、彼女の家に転がり込む形に。ただこのころにはすでに2人の間にはすきま風が吹いていた。まだ妊娠中から、ケンカが絶えなくなった。
「お互いを知らないままだったんです。今になって思えば僕も口うるさかったと思うのですが、当時の僕は妊娠中の彼女が酒を飲んだりタバコを吸ったりすることが嫌だった。だから口うるさく言ってしまったんです。でも彼女からしてみれば、いろいろなストレスもあっただろうし、漫画を描くのも大変な中で酒やタバコくらいやらせてよという気持ちもあったんだと思う」
長男が生まれてから、徐々に枡野さんの家庭での居場所は奪われていった。
「彼女が『家に人がいると仕事ができない』と言い出したので、新たに仕事場を借りて、そこで仕事するようになりました。ケンカになったら、家の鍵をかえられ、徐々に追い出されていったんです。
ある日、自分の保険証を取りに行ったら、警察を呼ばれたことも。僕としてはケンカしただけで、そこまで嫌われているなんて思っていないからそのときも無邪気に彼女にミスタードーナツの差し入れとか持っていったりして。それがストーカー扱いされて……」
さらに一人暮らしのときの借金を任意整理した際の書類を見られて、さらなる不信感につながった。
「『知らなかった』と責められましたね。僕は雑誌で、すでに言っていたんですが、彼女は僕のインタビューを読んでいなかったんです。僕の特集をしてくれたときの記事で、彼女は挿絵も描いてくれているのに、読んでいなかった。こっちは当然知っていると思っていたけど、彼女からしたら『聞いてない!』って」
その後、漫画家とは離婚した。離婚のことは、『結婚失格』(講談社文庫)や、『週刊朝日』の連載をまとめた『あるきかたがただしくない』(朝日新聞社)にも書いた。職業設定以外は、枡野さんから見た事実だ。
「離婚が成立してからやっと息子に会えたんです。ちょうど彼が3歳のころ。僕の親に会わせに行って、父が僕の子に将棋の駒や盤をいじらせていたんです。これが1回目。その後、息子は棋士を目指すんですけど。
2回目はお台場に連れて行って観覧車に乗せました。3回目の面談の日に息子は来なかった。弁護士を通じて問い合わせたら、『元奥さんが行方不明になった』と言うんです。嘘だと思ったけどこちらからしたらそれ以上聞けないんですよ」
探偵を雇い探し続ける日々
何もできないまま歳月が流れた。血縁関係はない上の子が通っている小学校に顔を出したことがあったが、引っ越したと嘘をつかれた。
「探偵を雇ったりもしたんです。わかったことは新しい旦那さんの持ち家にみんなで住んでいたようです」
その後も「子どもに会いたい」という希望を持ち続けた枡野さん。リアルタイムで息子への思いをつづった作品は「女々しい」「ストーカー」などと批判を受けたことも。それでも枡野さんは、息子の名前のネット検索を続け、16歳になる彼のものと思わしきTwitterのアカウントを見つけた。
「2年くらい見守っていたんです。でも息子の誕生日になったとき、たまらずに『おめでとう』とメッセージを送りました。そうしたら返事が来たんです。ただ、僕が『会いたい』とか『一緒にごはん食べたい』とか送ると、返事が来なくなる。
息子としては、僕と敵対もしていないけど、会う気はないんだろうな、と思いましたね。ただ、将棋の棋士を目指していた当時の息子に『君に最初に将棋を教えたのはうちの父なんだよ』と。それだけは伝えたくて」
前出の藤井さんは、枡野さんとの付き合いは30年になるが、結婚していた時期は会っていなかった。
「再会したのは共通の知り合いのAV監督の結婚パーティー。すでに離婚していて、会った瞬間に『子どもに会えていないんです』と嘆いていた。俺は枡野が一番幸せな時期だけを知らない。不幸や不遇といえる時代が中心の付き合い。でもそれこそが彼の短歌の本質ではないか」
枡野さんは悩みや心配事を抱えると悪夢としてそれが現れるという。
「未婚時代は、高校を卒業できないという夢をよく見ていました。離婚してからは、夢の中では息子を抱いていたら崖にいたり、元奥さんが許してくれていたりする。幸せな夢を見たときは現実がよりつらくて。離婚の悪夢時代が長かったのですが、新しい悪夢を見るようになったんです」
自殺を考えた日々に出合った「お笑い」
藤井さんは落ち込んだ枡野さんの姿を見ていた。
「大きな本屋の短歌コーナーなのに枡野の著書がなかった。『枡野の歌集が置いていない。僕は歌人としてもう終わりかも。誰も枡野のことなんか必要としていない』と絶望的な顔をしていました」(藤井さん)
安眠効果のある『ヤクルト1000』を飲むと、深くぐっすり眠れる分、悪夢をよく見るという枡野さん。
「実は10年前にソニー所属で芸人活動をしていたことがあったんです。きっと悔いが残っていたんでしょうね。その当時の夢ばかり見るようになったんです。ずっと離婚の悪夢ばかりを見ていたのに」
歌人としては十分な知名度を誇っていたころだった。
「自殺を考えたこともありました。直前に教科書に短歌が載ったし、本は売れていたけど、短歌界に居場所はない、子どもにも会えない、どん詰まりで夢も希望もない時期に元『ABブラザーズ』の松野大介さんが『お笑いライブを見にいかない?』と声をかけてくれたんです。
そこには『アンドレ』という二人がいて、一人は後に『にゃんこスター』となるスーパー3助さんなんですけど。ドラムモノマネの達人とか、みんな個性的。面白くて、うらやましくなっちゃって。『こんなふうにお笑いじゃないものをお笑いにしている』と感動しました」
枡野さんの心に一筋の光を当てた「お笑い」。花見の最中に運命の啓示とも思える光景に出合い、心を決めた。
「その日は花見の予定だったんですが雨で中止になったんです。雨が一瞬やんだときに桜を見ていたら急に『短歌をお笑いにすればいいんじゃないか』と思いついたんです。そうしたら目の前の桜が急にキラキラと輝き始めたように見えて」
来るもの拒まずという方針の事務所で、枡野さんはすぐに『ソニー』預かりの芸人となったが、人気投票では上がったり下がったり。まずはダンサーと組むが、相方が忙しくなってピンになり、別コンビを組み、最終的にトリオとなった。しかしソニー時代は失敗続きだったという。
「錦鯉さんとか僕たちトリオと3組くらいがライブに出て、僕たちが変にウケちゃった日があったり。ライブに出版関係者を呼んだら票が集まっちゃって。それはかなり顰蹙を買いましたね」
最初で最後の暴力
人生で初めて暴力を振るったのもこのころだった。
「トリオのメンバーの一人にキレちゃって。このころって、月に25本とかライブがあって書く仕事もできないし、収入もないしで行き詰まっていたんです。そんな中で彼の卑怯な部分が見えてしまって僕は野外で号泣しながら持っていた布バッグを振り回して怒ったんです。
これが最初で最後の僕の暴力ですね。元妻は僕にDVされたと言っていたようですが、僕の怒りの現場を見たメンバーは“ケンカに慣れていない人なんだな”と思ったようです(笑)」
トリオを解散し、45歳で事務所を辞めた。
「応援する気持ちにシフトしたんです。僕が辞めた後はハリウッドザコシショウさんもアキラ100%さんも錦鯉さんも賞レースで優勝し、『ソニー』がどんどん注目されるようになりました」
芸人活動は悔いが残った。再び芸人の夢を見るため、54歳のときに『タイタンの学校』に入った。このとき、芸人の藤元達弥さん(43)に出会う。弁護士でもあり、歌をギターで弾き語りし、R―1グランプリで一回選を通過していた。その並外れた才能に枡野さんは惹かれ、お互いピン芸人を主軸にしながら『歌人裁判』という即席コンビを組むこともある。藤元さんは枡野さんの印象をこう語る。
「入学式のときに、後ろの席に枡野さんがいました。短歌で有名で共通の知人もいたので知っていて、『なんで入ってきた?』と不思議でしたし、びっくりしました。枡野さんは誰よりもまじめに授業を受けていて、宿題とか提出物も欠かさないんです。僕は弁護士業もあったので宿題とか出せないときもあったんですが」
と、藤元さんは当時を振り返る。ただ枡野さんのことは警戒していたという。
「授業中にすごく視線を感じて、見ると枡野さんが自分を見ていたり(笑)。養成所が始まってすぐのころ、枡野さんが授業中に急にみんなの前で『藤元さんと一緒にやりたいです』とラブコールをしてくれて。でも僕は枡野さんのことを知らなかったので、それから著作などを読んだり、ライブの打ち上げで話したりして面白い人だなと思いましたが、執念深い人なんだろうなとも思ったので(笑)。だから信頼して一緒にやろうとなるまでは時間がかかりました」(藤元さん)
藤元さんにも枡野さんにも思い出に残っている場面があるという。
「お笑い養成所の卒業生代表のスピーチを枡野さんがしたんです。そのスピーチが本当に面白かった。というのも、生徒一人ひとりを見て、その生徒の特徴をいじる形だったんです。あれは枡野さんじゃないとできないと思いましたね。養成所の生徒は20代が中心なのでお金もないし、飲むのも公園だったりするんです。
僕はあまり参加できなかったんですが、枡野さんは付き合っていた。それで若者に差し入れしたりして、自分は酒も飲まないのに公園で付き合って見守っているんですよ。そうやって彼らに向き合っている枡野さんだからこそできたスピーチだなって」(藤元さん)
10年前とは活動のあり方を変えたのだろうか。
「短歌を映像とかテレビとか舞台の上に置きたいというのがもともとの目的です。ちっちゃいライブでも笑いを取れたときには楽しい。自分じゃなくても、関わった同期が活躍していくだけでも面白い」
大学中退、離婚、希死念慮。人生で負の面を見た枡野さんだが、今は笑顔で前を向いている。
<取材・文/渋井哲也>