レコードが売れず、キャバレーで歌い、ウケるのは「軍歌」。大ヒット曲『神田川』の後も思うように活動できなかったあのころ─。フォークソング界の“レジェンド”が振り返る、55年間の軌跡。
ソロデビュー曲の売り上げは180枚
「僕がデビューしたころ、いわゆるシンガー・ソングライターと呼ばれる人はほとんどいませんでした。ですから、ずっとフォークを歌っている人の前例がなかったので、自分がこれからどうなるかなんて、考えることすらなかったですね」
現在『55周年記念ツアー』で全国を回っている南こうせつ。1970年にデビューし、'73年には『神田川』が160万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。
歌謡曲からニューミュージックへと変わっていく日本音楽界の渦の中心にいた“レジェンド”に、当時のエピソードを語ってもらった。
「あのころ、ちょうど価値観の変わり目だったのかなと思いますね。'70年安保闘争の挫折と失望の中で、学生たちの価値観も大きく変わりました。フォークソングも今までの国家や時代などについて歌うより、もっと身近なこと、例えば自分たちの日常生活を言葉で表現する。誰もが共感できる曲が出てきた時代でした」
当時、フォークソングといえば反戦歌やメッセージソングが主流だった。そんな中、アメリカではフォークソングに新たな波が起きていた。
「キャロル・キングの『君の友だち』とか、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』とか。そういう中で日本で口火を切ったのが(吉田)拓郎でしたね。そしてかぐや姫の『神田川』という曲は、ある意味、あの時代の象徴的なものになったんじゃないかな。
若い恋人たちの日常を歌った曲は“四畳半フォーク”と揶揄されもしましたが、それはそれで僕のカルマだったのかなぁ、と思っています」
しかし、デビューしたときからすぐに売れたわけではなかった。
「『最後の世界』という曲でソロデビューしたんですけど、本当にうれしくて。レコードを出すということは、いつも聴いていたエルビス・プレスリーと同じ立場になれたんですよ。もうすごい天狗になっちゃってね。
どれくらい売れているのか、銀座の山野楽器に見に行ったんです。そうしたら、店に1枚も置いてない。なんだ、売り切れてるじゃないかと思って、レコード会社の人にどれだけ売れているんですか?って聞いたら“何、勘違いしているんですか。180枚しか売れていませんよ”って(笑)。
売れなくては1人もライブに来てくれないし、会社が自由にスタジオを使わせてくれないし、それが現実でした」
そんなとき、ふと思い出したのが、以前、深夜放送で衝撃を受けた、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』だったという。
「こんな非常識なことやっていいんだ、って(笑)。もっと自由でいいんだ。そこにすごいメッセージを感じました。そこで当時の仲間2人とかぐや姫を組んで『酔いどれかぐや姫』という曲を作ったんです。学園祭では人気があったんだけど、レコード会社からは“詞がよくない”と言われて……。
僕の書いたサビの“あなたはかぐや姫なのかババアなのか”という部分に、こんなシングル出せませんと言われてね。そこで紹介された作詞家がまだ売れる前の阿久悠さんです。出会いを楽しんでいるような底知れぬオーラを感じました」
今以上にアーティストよりレコード会社の立場が強い時代。ましてや売れていないと何も主張することができなかった。そのレコード会社から連絡先がないから、という理由で強制的に入れられた事務所の仕事とは─。
自分の知らないところで映画化が決まっていた
「あの時、所属していた事務所が、フォークソングの売り方なんて知らない。“仕事を取ってきた!”ってどんなところで歌うのかと思ったらキャバレーですよ(笑)。女の子とイチャイチャして酔っ払っているお客さんに、メッセージソングを歌ってもまったく反応なし。
こりゃダメだと思って、とっさに歌ったのが軍歌。これがウケて(笑)。お客さんたちが大合唱してくれました」
この流れの中にいたら永遠にフォークは歌えない。大事なのはアーティストが自分の意思ですべてを表現すること。
そして伊勢正三、山田パンダと“第2期かぐや姫”を結成。南自身、最大のヒットとなった『神田川』をリリースした。これで自分たちのやりたいようにやれる、と思った南だったが─。
「『神田川』の後、次のシングルはかぐや姫のアルバム『三階建の詩』に収録された伊勢の作品の『なごり雪』を出したかった。でもね、僕の知らないところでレコード会社やプロダクション、映画会社で曲をもとにした映画化が決まっていて、それに合わせて『赤ちょうちん』『妹』がシングルになったんです。
映画になってうれしかったけど、どんな内容で誰が主役なのかすら、原作者である僕たちには知らされなかった。その前に、僕に許可すら求めてきませんでしたからね(笑)」
会社に対しての不信感は募るばかり。自分たちの意思が無視されたことで、かぐや姫の解散も早まったと南は振り返る。しかし、
「全然恨んでないですよ。いい勉強になったと思います。今ならこうやって笑って話せるし、あの経験が自分を育ててくれたともいえます」
デビューしてから来年で55年、南はさまざまな“日本初”のイベントを企画したり、携わってきた。
'75年、現在の音楽フェスの元祖ともいえる、オールナイトコンサートを吉田拓郎の呼びかけで、かぐや姫と共に『吉田拓郎・かぐや姫コンサートinつま恋』を開催。'76年には日本人ソロシンガー・ソングライターとして、初の日本武道館ワンマン公演を成功させた。
そんな南に、いちばん記憶に残った出来事は?と聞くと、「いろいろとありすぎて……」と悩みつつ、「今思い出すのは、あまり話題にならなかったけど」と、当時、誰も歌ったことのない国立競技場でのコンサートを企画、実現したときのことを話してくれた。
「'84年当時、アフリカの子どもたちの飢餓救済のために、イギリスやアメリカの大物アーティストが垣根を越えて大きなコンサート(後のライブエイド)をやるらしい……、そんな流れの中で、日本でもアーティストが集まってワクワクするベネフィットコンサートができないものかと思いました。すぐに拓郎に持ちかけたんです。彼は“いいね、それ”って乗ってきて」
そこから南は知り合いのミュージシャンに声をかけた。
「まず、ユーミンや加藤和彦さん、確か財津和夫さん……。実はこういう企画があって、日本民間放送連盟が協賛したいっていうんだけど、どう思うって聞いたんです。そうしたらユーミンが“私たちはラジオから出てきたから、それはOK。でも一夜限りのコンサートでテレビ放送はしない”という条件で夢のコンサートは実現しました」
気がつくと人生の終わりが見えてくる
開催されたのが'85年6月の『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』というチャリティーライブ。第一線で活躍するミュージシャンが、全放送局の力添えで顔をそろえた。
「はっぴいえんど、ユーミン、オフコース、吉田拓郎、チューリップ、さだまさし、THE ALFEE……すごいでしょ(笑)。トリは佐野元春だったんだけど、そこに桑田佳祐が飛び入りしてね。お客さんも大興奮でした」
これまで精力的に活動してきた南。この先、何をしたい?と聞くと、意外な言葉が返ってきた。
「もうね、何かをやってやろうというのではなく、人生の流れの中で良いも悪いも全部抱きしめて、今日をそのまま受け入れて、ボーッと生きられたら良いと思っています。日常を振り返ると、世の中は何か目に見えないモノに急かされて、暇になると不安になって知らないうちにスマホに向かって日々を過ごす。いつになったらぐっすり眠り、美味しいご飯をゆっくりと食べられるやら……。
いつか親しい人たちと夢を語り、歌を歌いと願いつつ、とりあえず今は忙しいので近いうちにと先送りにしていると、1年が過ぎ2年が過ぎ、10年がたち、気がつくと人生の終わりが見えてきます。だからもっと自分を愛し、他人を許し、人が人になってゆく未来を夢見て生きていきたいものですね」
取材・文/蒔田稔