九州・久留米の“あか抜けない”少女が、時代を代表する歌手へトップスターへの階段を上った'80年代。華やかな仕事の裏での恋、そして結婚についての葛藤を近くで見てきた稲垣さんが振り返るアイドル黄金時代を駆け抜けた聖子の“あのとき”。
「アイドルになるために生まれてきたような天賦の才が」
女性アイドルのトップランナーとして唯一無二の存在である松田聖子。還暦を過ぎてもなお燦然と輝き、2020年4月にデビュー40周年を迎え全国ツアーやコンサートを精力的に展開していたが、一人娘である神田沙也加さん亡き後はめっきり活動が減った。
'24年はファンのためにコンサートやディナーショーで活動しながら、2月14日、2年4か月ぶりとなるニューアルバム『SEIKO JAZZ 3』をリリース。悲しみを乗り越えた先にある新たなステージを彷彿させる動きに、聖子のさらなる飛躍を待望する人も少なくない。
「聖子はまさにアイドルになるために生まれてきたような天賦の才がありました」
そう語るのは『1990年のCBS・ソニー』(MdN新書)の著者で、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)副社長ほか、ソニーグループの役職を歴任した稲垣博司さん。
CBS・ソニーのオーディションによる新人の発掘と育成を掲げたSD(サウンド・デベロップメント)事業の企画・運営に携わり“アイドル聖子の生みの親”と称されている。
稲垣さんに聖子のデビューまでの道のり、アイドルとして頂点を極めたものの結婚後に引退を口にした理由、海外進出などその後のあくなきチャレンジを支える彼女のマインドについて語ってもらった。
'78年に発足した新人発掘オーディション(SD)の大会出場の決め手となるのが応募の録音テープ。SDの60~70人のディレクターから「リズム感と音色が良い」と絶賛された聖子だったが、厳格な父親の反対によって福岡地区の予選に出場できなかった。
聖子の透明感のある声にほれ込んだ若松宗雄ディレクターが聖子の実家に出向いて直訴。最終的に聖子が「どうしても歌手になる」と両親を説得したという。彼女の意志の強さが、その後の目まぐるしく変化する聖子の人生を決定していったといっても過言ではない。
聖子が親を説き伏せてから1年半後の'79年夏ごろ、地元・久留米市から上京した聖子の歌をCBS・ソニー信濃町スタジオで生で聴いた稲垣さんは衝撃を受けた。
「類いまれなる音質とリズム感がありました。特に中高音の響きが良く、音圧を示すVU計(音量感を測定する測定器)の針がビーンと触れたんです。しかもその声は若干ハスキーで可愛らしい。必ず売れる!と手ごたえを感じたものです」(稲垣さん、以下同)
引き受けたいというプロダクションになかなか巡り合えなかった
もともと聖子と同郷の作曲家の故・平尾昌晃氏が主催するミュージックスクールに通うほど聖子はプロ意識が強かった。母親の後押しもあってようやくデビューへと向かったが、所属プロダクションがなかなか決まらず、難航したという。
「当時の聖子は地方出身の田舎くささがあり、まだあか抜けていなかったんです」
最初から輝いているアイドルもいるが、一方で徐々に磨かれ、洗練されていくアイドルもいる。聖子は後者だった。だが当時は聖子を引き受けたいというプロダクションになかなか巡り合えず、稲垣さんらCBS・ソニー側が、わらにもすがる思いでプレゼンしたのがサンミュージックだった。
「森田健作や桜田淳子、都はるみらが所属する大手ですが、幹部らが乗り気ではなかった。ところがサンミュージック出版の杉村昌子さんが聖子の声を気に入り、社内の説得を試みてくれたおかげでやっと決まったんです」
杉村さんは香坂みゆきや岡田有希子さんらのアルバムでも制作総指揮を務めるなど有能なプロデューサーで、聖子デビューの立役者だった。
'80年、聖子は『裸足の季節』でデビューし、2作目の『青い珊瑚礁』で爆発的なヒットを飛ばした。デビューからわずか半年後に聖子の歌声が日本中に広まり、「聖子ちゃんカット」も浸透して名実共にアイドルスターになったのだ。
デビュー前から持っていたプロ志向と意志の強さ、そして信念は恋や結婚にも大きな影響を与えた。
「歌手を目指した理由が郷ひろみのファンだったからというのは有名な話です。郷と恋愛関係になり結婚秒読みとまでになったのも、聖子の“恋も叶える”という意志の強さを表していますね。ところが結婚したら家庭に入ってほしいという郷に、聖子は“ノー”という答えを出した。最愛の男より歌い続ける人生を選んだのです。これも強い意志の表れですよ」
その後、郷ひろみとは性格が正反対の神田正輝と結婚。ところが子どもが生まれてから、妻の聖子にかまってくれない夫との関係を修復しようとして、引退を考えたことがあったという。
若いころからセルフプロデュース力に優れていた
「聖子から一通の手紙が届きました。そこには結婚生活の悩みが綴られていて“歌手をやめたい”とまで書いていたので、急いで聖子の自宅に行き、“これまで応援してくれたファンを見捨ててはダメだ”と説得して何とか翻意させることができました。聖子は結婚してからも変わらずにファンであり続けてくれた女性たちに対する熱量がすごいんですよ」
結婚しても、スキャンダルがあっても離れずにずっと応援してくれるファンこそ、聖子の大きな原動力のひとつといえる。
「その後、聖子は歌手として育てた僕らに何の相談もなく、サンミュージックを辞めて独立します。辞めたその日にソニーを訪ねてきて“辞めちゃったー”と清々しい顔で報告したんですよ」
辞めた理由も聖子らしい。スキャンダルが多いといわれた聖子だが、実は夫の神田にも愛人がいるという噂があり、夫への対抗意識が招いたという。
だが神田が所属しているプロダクションはマスコミに対する力が大きいため、スキャンダルをもみ消されていた。そのせいで聖子のスキャンダルだけが目立っていたのだ。
「“私だけがレントゲンなの”とサンミュージックから守ってもらえないことに不満そうでした。でもサンミュージックがあってこその松田聖子で、トシちゃん(田原俊彦)とのグリコのCMでブレイクできたのも事務所のおかげ。
サンミュージックは聖子の移籍を許さず、離れたいのなら独立という選択しか与えなかったんです。当時、独立は男性が多く、女性は少ない中で彼女は“独立する”を選んだのですから、たいしたものです」
独立してもさらなる飛躍を遂げたのは、聖子のセルフプロデュース能力が優れていたからと稲垣さんは指摘する。
「若いころからセルフプロデュース力に優れていましたね、コンサートやステージに対して、こうありたいという提案をして、実際に叶えていく力がありました。ドラマから撤退したのも将来を見据えての決断だったのでしょう」
聖子のセルフプロデュース力は「人の話に耳を傾ける」という姿勢も功を奏していた。
「たとえ自分が興味のない話でも、ちゃんと人の話に向き合っていました。聞き上手で共感力もありましたね」
さまざまな状況にも臨機応変なスタンスで臨む聖子。'90年代にアメリカ進出をもくろんだときも「もっとスケールを広げたい」という野心があった。
「マライア・キャリーを発掘したレコード会社の重役で、音楽業界の重鎮ともいうべき人物、トミー・モトーラを紹介し、聖子も一生懸命にアピールしたのですが、英語の発音に問題があって。アメリカ人はフランス語訛りの英語以外は許さないという事情もありました。
それでも諦めがつかない聖子は、デビュー以来所属したCBS・ソニーを離れ、マーキュリー・ミュージックエンターテイメント(現:ユニバーサルミュージック)に移籍。その直前の'95年にイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』で有名なビバリーヒルズ・ホテルで2人きりで話し、移籍にあたっての聖子の本心を聞いたのです」
聖子はかねて希望していた海外進出を「再び目指すため」と稲垣さんに伝えてきたという。'90年6月にCBS・ソニーからワールドリリースアルバム『Seiko』を発売したが、満足のいく結果ではなかったのだ。
だが聖子は意志の強さでこれまで何度も自分の希望を叶えてきた。近年はジャズを中心に、海外を意識した楽曲に取り組んでいるという。
デビュー45年を迎え、海外進出に対して、再燃の気配がある聖子。それは海外で日本のシティ・ポップが再評価され、聖子の知名度が上がっているという追い風のおかげでもある。
「本当に今でも聖子は海外進出を目指しているのでしょうか。機会があれば、今度じっくり話を聞いてみたいですね」
取材・文/夏目かをる