「"関根恵子"時代は自分でも波乱に富んでいたと思います。ただ、その時期は10年くらいで短いんですよ。これまでを思い返すと、あっという間な気もしますし、それだけ時間がたったんだなという感じもしますね」
今年、芸能生活45周年と60歳という2つの節目を迎えた高橋惠子。"波瀾万丈"と語られがちな半生を最初にそう振り返った。
中学生のときにスカウトされ、15歳で映画『高校生ブルース』(’70年)に主演。女子高生の妊娠という衝撃的な内容に加え、デビュー作でヌードに。大人びた容姿と大胆な演技で話題を集めると、その後の作品でも過激なシーンが求められた。それについては、
「すごく嫌でしたよ(笑い)。等身大の自分と違いましたからね。実年齢よりも上の役をやることが多かったんです。実際、19歳のときに映画『青春の門』(’75年)で先生役を演じましたが、生徒役の田中健さんのほうが年上でした」
そもそも子どものころから女優志望だったわけではない。小学6年生まで北海道・標茶町で過ごしたことから、テレビや映画は遠い存在だったという。ただ、デビュー前のこんな感覚が少女をこの世界へと引き込んだ。
「カメラテストで映画のセットの中に立ったとき、初めて落ち着く場所が見つかったんです。それまで引っ越しを繰り返していたこともあって、どこへ行ってもなじめなかった。転校先でも"お高くとまっている"とか思われる。だから、ダメな自分をわざと見せて輪の中に入る、という手の込んだやり方をしていたんです。そういった無理をせず、なにも気にしないでいられたのがカメラの前でした」
3か月のレッスンを終えて女優としての活動を始めると、それまで内向的だった性格が180度変わったという。
「"即席デビュー"だったので現場で覚えることがたくさんありました。それが本当に面白かったんです。インタビューで自分の意見を求められたりもするし、目の前のことに真剣に取り組んでいるうちに、明るく元気になりました」
デビューから1年半で7本の映画に主演。仕事は順調で充実感を覚えていったが、その一方で、徐々に自分が見えなくなっていった。
「まだ成長過程だったので違う人格を演じると、本当の私ってどうだろうと考えてしまうんです。自分の時間もないし、周りも大人だらけで余計にわからなくなる。女優になるときに、3年やってダメなら普通に戻ろうと決めていたこともあって、もうやめようと思いました」
引退へ気持ちが傾くも、’71年に故・増村保造監督の映画『遊び』に出演。そこで表現することの面白さを知り、辞意を撤回する。しかし、"作られた自分"がひとり歩きすることへの悩みは尽きず、’77年にはついに休養。2年後に舞台出演で復帰が決まったが、恐怖心から逃げ出してしまうなど、波乱の一途を辿る。
そこにストップをかけたのが、出演映画『TATTOO〈刺青〉あり』(’82年)の監督を務めた高橋伴明との結婚だった。家庭を持ったのは、こんな思いがあったからという。
「私の場合、年をとったときに女優としてどんなに成功していたとしても、ひとりでいたら寂しさが残るタイプだと思ったんです。それで、すごく難しいだろうけど"家庭と仕事の両立"にチャレンジすることにしたんです」
芸名を変えて
自分に近いところからもう1度、女優を始めたいという気持ちと、今までのイメージのままでは家庭との両立は図れないという思いから、芸名も"高橋惠子"に変えた。
「結婚してからはすごく穏やかになりました。子どもが増えたり、孫が増えたり、動物が増えたりという家族の変化が大きかったですね」
実は高橋、夫と実母のほか、娘夫婦と11歳、10歳、3歳、2歳の孫と同居する9人家族。ラブラドール・レトリバーやトイプードルなどの犬を9匹と、猫も1匹飼っている。さらに『たらこ』という名のしゃべる鳥・ヨウムや、リクガメも家の中を歩いているそう。なんともにぎやかな暮らしぶりだが、こんな悩みも。
「家にいる限りひとりになることがないんです。昔はそれが嫌だったのに今は寂しい状況が欲しいくらい(笑い)。なので"ひとりの時間"をなるべく作るようにしています」
いわゆる"おひとりさま"の時間には本を読んだり、散歩したり。駅まで歩いて電車に乗ることもあるという。
「子どものころは1時間くらい歩いて学校へ通っていたんです。そのときに花が咲いているのに気づいたり、寒さに耐えたり、季節の移ろいを感じてはいろいろと空想するのが好きでした。今も歩きながら同じようなことをしていて、あのころの自分とつながっているなと思うんです」
そう言って微笑む顔は気高く、それでいて柔らかい。年を重ねてもなお輝き続ける美の秘訣を聞いてみると、
「15年くらい前から酵素を飲んでいて、食事は腹八分目を心がけています。リンパマッサージをしたり、脱力して前屈するオリジナルの"ぶらぶら体操"もやっていますよ。ただ、いちばん大切にしているのは、なるべくその日のうちに寝て同じ時間に起きるという規則正しい生活ですね」
夫のアドバイスで過去を乗り越えて
現在は4月3日から大阪の新歌舞伎座で行われる舞台『細雪』の稽古に励む。今でこそ舞台の仕事も多く抱えるが、その1歩を踏み出すまでには時間を費やした。’97年に蜷川幸雄演出の『近松心中物語』に挑戦したきっかけは何だったのだろうか。
「蜷川さんやプロデューサーが2度も声をかけてくれたんです。でも過去に『ドラキュラ』という舞台をすっぽかして大変な迷惑をかけたので、やってはいけないと思った。そうしたら主人が"自分が舞台をやりたいと思ったときには声がかからないかもしれない。チャンスだからやったほうがいい"と言ったんです」
そのアドバイスが大きく響き、思い切って舞台の世界へ。"すっぽかした"からこそ、舞台に立てることへの感謝の気持ちをつねに忘れない。60歳を迎えたことで、作品や役柄への思いにも変化があった。
「女優人生の"限り"が見えたことで、作品や役を通して日本のよさを伝えたいと思うようになりました。例えば、四季を感じる中での情緒や美意識、昔の日本女性が持っていた芯の強さ、さりげなく相手を思う"日本人らしさ"ですね。着物など目に見えるものだけでなく、そういったことも表現していけたら」
そのためにも、これからは日本の誇れるものを積極的に知っていきたいという。
「目の前にあることに流されて、いつの間にか終わってしまうのが嫌なんです。昔は、女優という職業は人が書いたセリフを読むだけで、私が思ったことは何も伝えられないと悩んだこともありました。だけどもう、それは違うとわかる。あと15年はこのテーマのもと頑張って"女優としての還暦"を迎えたいですね」
私生活での今後のテーマもある。ひとつは夫婦の時間をもっと持つことだ。
「ふたりで旅行したのは結婚30周年のときくらい。なので、これからは年1回のペースで行けるといいな。しょっちゅうは行きたくないですけど(笑い)。あとは孫たちの成長を見守りたいですね」
最後に、この仕事は天職かと聞くと輝かしい笑顔とともにこんな言葉が返ってきた。
「この仕事に会えてよかったと、今すごく思っていますよ」