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正月7日。この日、芸能生活56年目を迎えるピーターこと池畑慎之介(72)は愛車を駆って、相模湾に面する神奈川県横須賀市の佐島マリーナに現れた。
朝ドラ『おむすび』で謎多きママを演じる池畑慎之介
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現在、オンエア中の朝ドラ『おむすび』(NHK)では福岡県・糸島でスナックを営む謎多きママ、ひみこ役を演じる。朝ドラの出演は今回が初めて。ふらりと旅に出るひみこのスタイルはどこか慎之介自身を思わせる。
そして収録の合間を縫って行われるライブ活動でも圧巻の越路吹雪メドレーを披露。今もなお精力的なパフォーマンスでファンを魅了し続けている。
この日は朝の番組『めざまし8』(フジテレビ系)にコメンテーターとして生出演。忙しい最中に、ロングインタビューに答えてくれた。
車から颯爽と降り立つ。慎之介のその姿は、とてもスタイリッシュ。アッシュブロンドのショートボブ。ビッグカラーがポイントのオレンジ色のニットにシックなパンツを合わせ、シルバーのピアスがキラリと光る。その姿は72歳になった今も妖精を思わせる。
海を愛してやまない慎之介。佐島マリーナからほど近い、海を見下ろす場所に越してきて、はや3年が過ぎた。この地こそ「終の住処」と言ってはばからない。
「40歳のとき、熱海に家を買ったら、美川憲一さんから“老けるわよ”と言われたけど、大きなお世話。六本木も楽しいけど、住むなら断然海の見える街がいい。サーフィンが大好きで真っ黒だったこともありました」
そう言って白い歯を見せる。窓の外は、突き抜けるような青い空。冬本番を迎え強い西風が吹き、その風を捉えてカモメが白波立つ洋上を舞い踊る。海との出会いは7歳のときに遡る。両親の離婚をきっかけに姉と共に母が生まれ育った鹿児島へ移った。そこで暮らし始めた家の目の前に、海があったという。
「海があると今も気持ちがとっても落ち着くんです。当時の波と風の音、そして磯の匂いが忘れられません」
Peter is Peter
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鹿児島で見た海こそ、慎之介にとってはかけがえのない心の原風景なのかもしれない。上京して、わずか1年足らずでデビューを果たす。芸能界で、唯一無二の存在といわれてきた池畑慎之介の生き方こそ、
「Peter is Peter」
人には十人十色、百人百色、千人千色。それぞれの生き方がある。慎之介自身も誰にもまねできない人生を歩んできた。だからこそ、わが人生に悔いなし。
太陽の日差しを浴びながら波の音に耳を傾け、目を閉じる。すると遥か彼方の記憶が色鮮やかに池畑慎之介の心の中に蘇った。
慎之介が生まれたのは、大阪ミナミの繁華街、宗右衛門町。日本舞踊の上方舞吉村流で後に家元、人間国宝になる吉村雄輝を父に、宗右衛門町の料亭『浜作』の娘・清子を母に持つ。
当時の宗右衛門町は、色街。芸妓や道頓堀川の向こうに立ち並ぶ、劇場に通う歌舞伎役者たちでにぎわっていた。3歳のとき。慎之介も白粉を塗り着物を着て、髪の毛を肩のあたりで切りそろえた切禿の姿で初舞台を踏んだ。
「煙管を持って、コンコンやって後ろに反り返ろうとしたらひっくり返っちゃってね。そうしたら拍手喝采。大ウケしたことを今でも覚えています」
だが稽古は決して楽しいものではなかった。稽古場の父は鬼のように厳しかった。扇子や竹の棒でパーンと手を叩かれることなど当たり前。しかも怖かったのは、稽古場だけではなかった。
「私生活でも怒鳴ってばかり。そんな父の仕打ちに耐え切れず、ぜんそく持ちの母は病気がちでずっと伏せっていました。
2人に離婚話が持ち上がったときは、身体の弱い母を守りたいという一心で母についていきました。ところが鹿児島に移ったら、ストレスから解放されたのか見違えるほど元気になったのよ」
そんな母をもっと喜ばせたい。そんな思いから、慎之介は勉強にも熱心に取り組む。
そのかいあって見事、地元の名門校、ラ・サール中学に合格することができた。
ところが思わぬ挫折が待っていた。小学校で1番だった成績が、100番に急降下。授業のスピードにもついていけない。そして何よりも我慢ならないことがあった。
「東大に合格するまでのカリキュラムがきっちり組まれていて、そのレールの上に乗ってひたすら勉強させられる。これが息苦しくてたまらなかった」
決められたレールの上を言われるがままに走らされるなんて、理不尽にもほどがある。
慎之介は地元の公立中学への転校を決意する。東大一直線の学校生活から解放された慎之介。改めて周りを見回してみると、世の中には刺激が満ちあふれていることに気がついた。時代は'60年代末期。さまざまなポップカルチャーが咲き乱れ、慎之介の心を虜にする。
「『平凡パンチ』を読み、ラジオを聴いてみると、東京には、鹿児島にいては味わえない楽しいことがたくさんある。もう我慢できない。いても立ってもいられずに家を飛び出しました」
中学3年の秋。よく考えたら、高校卒業を待ってから上京してもよかったのかもしれない。しかし、
─思い立ったら吉日。
それが、慎之介の流儀。飛行機で大阪まで行くと、新幹線に飛び乗り一路、憧れの東京を目指した。
ダンスのうまさで目立ち、身元がバレて……
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東京駅に降り立つも、慎之介に頼るあてなどなかった。憧れの青山通りを渋谷から赤坂まで何度も行ったり来たり。やがて足を踏み入れた表参道で「ゴーゴーボーイ募集」の看板を見つける。
「表参道は当時、ブティックはほとんどなく、同潤会アパートや教会、普通の家が並んでいる地味な通りでしかなかった。でもゴーゴークラブ『乃樹恵(のじゅえ)』が入っていたビルが、アーティストたちの拠点でもある憧れの原宿セントラルアパートだと知り、ピンときた」
ウエーターをしながらジュークボックスの音楽を聴き、朝まで踊る。夢のような生活を送っているうち、慎之介のダンスはたちまち評判に。
「ダンス上手ね。教えて」と声をかけられることもあった。ところがこのうますぎるダンスがアダとなる。
「あなた踊りうまいけど、お父さん何してるの」
と聞かれ、思わず父の名前を出した。これが運の尽き。
身元がバレ、10年ぶりに父との再会を果たす。その晩、何を話したのか。慎之介は緊張していたせいか、ほとんど覚えていない。ただ、
「夜中に目が覚めたら、枕元に座る父がこちらを見て泣いていたことを覚えています」
やがて家族会議が開かれ、慎之介は大阪の父の元に引き取られることに。そこでは再び鬼の稽古が待っていた。
「私を立派な跡取りに育てたい。そんな父の思いはわかっています。だけど10年間のブランクは両親の離婚が原因。それを無理やり埋めようとする父のスパルタ稽古には我慢がならなかった」
慎之介はミッション系の桃山学院高校に進学したものの、1学期が終わった夏休みに父と話し合い、再び家を出る。
敷かれたレールの上を歩かされると途端に息苦しくなる。
それが生まれながらの性分。何より未知の世界の楽しさを知ってしまった慎之介を、もはや誰も止めることはできなかった。
再び上京すると原宿だけでなく、六本木や銀座のゴーゴークラブでもアルバイトをするようになる。すると、
「あの踊りのうまい子、男の子? 女の子?」
「ピーター・パンみたいでかわいい」
噂が噂を呼び、慎之介目当てのファンが日増しに増えてゆく。気がつけば慎之介は、おとぎ話に登場する憧れの主人公“ピーター”と呼ばれるようになっていた。
当時を知る世界的なファッションデザイナー、コシノジュンコは、こう振り返る。
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「六本木のゲイバー『吉野』で知り合って以来、ピーちゃんは私の家に入りびたり。そのまま泊まっていくこともあったわ。とてもチャーミングでかわいい男の子。弟だか妹だかわかんない感じがよかった(笑)」
当時、『平凡パンチ』の表紙を描いていた宇野亜喜良や横尾忠則など、時代の寵児たちが集う社交場で交友関係を広げていく慎之介。
コシノには、当時の忘れられない、とっておきのエピソードがある。
「免許を取って中古のフィアットを買ったの。だけどみんな私の運転が怖くて、ピーちゃんしか乗ってくれない。ある日、青山にある私のブティックの駐車場に車を入れたら、後ろに別の車が止まって出せない。困っていたら、“いざとなったら男だ”と言ってね、男手も借りながらイチニノサンで持ち上げ、後ろ向きの車を前向きにしてくれたのよ」
圧巻のパフォーマンス。なんという武勇伝だろう。そんな慎之介を時代は放っておかなかった。'68年、人生を左右する出会いが待っていた。
映画主演から歌手デビューで一躍“時の人”に
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「映画の主役を探しているのだけれど、興味ない?」
六本木のゴーゴークラブで踊っていると、舞台美術家で画家としても活躍する朝倉摂さんから、声をかけられた。
「私が主演したのは、'60年代の東京を舞台に親殺しや父と息子の近親相姦を描いた問題作『薔薇の葬列』。新宿のゲイバーの看板ゲイボーイ・エディ役に抜擢され、初めて化粧をして“ピーター”の名前で出演しました。かなり大胆な演技にも挑戦しています」
アバンギャルドな映像作家・松本俊夫さんならではの趣向が凝らされ、蜷川幸雄さんや淀川長治さんなど当時、最先端の芸術家や文化人が出演する話題作に主演したことで、慎之介はたちまち時の人となる。
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そしてこの映画からヒントを得て作られたのがデビュー曲となる『夜と朝のあいだに』である。この曲の作詞を手がけた、なかにし礼さんは生前、
「当時のピーターに、ギリシャ神話の美少年のイメージがピッタリと重なった」
と明かしている。
「そんな私がお茶の間のブラウン管に登場。男の子か女の子かわからない少年が低い声で歌い出すと、壊れたのではないかとテレビの横を叩く視聴者が大勢いたそうです」
10月1日に発売されたこのデビュー曲はセンセーショナルな話題を呼び、その年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。慎之介は、上京からわずか1年でスターダムを駆け上がった。
当時、まだ生まれていなかった歌手・タレントのミッツ・マングローブは、慎之介のことを“女装して舞台に立つトップランナー”と評してリスペクト。当時のピーターの魅力をこう分析する。
「美輪明宏さんや美川さんには記号化されたイメージがありましたが、ピーターさんにはそれがありません。その日の気分によって髪形やファッションがガラッと変わる。そこが最大の魅力。私もそうありたい。憧れていました」
まさに七変化こそ、慎之介最大の魅力。それだけに新人歌手、ピーターのプロモーションには当時、スタッフも苦戦を強いられている。
「事務所は当初、“大人に可愛がられるピーター”をイメージして、キャバレー回りに力を入れました。ところがフタを開けてみると、熱狂的に支持してくれたのはティーンの女の子たち。このギャップには驚いてね。そこで二刀流。昼間は市民会館で女の子たちの前で歌い、夜はキャバレーのショーに出る。持ち歌が2曲しかなかったから、越路吹雪さんの『ラストダンスは私に』やアダモの『雪が降る』といった曲も歌っていました」
当時はグループサウンズ(GS)も下火になり、ピーターには“ポストGS”への期待がかかっていた。
「ティーン雑誌で『ジュリーVSピーター』の企画が組まれたのもそのころ。ステージで聞いた“キャー”という声が耳に残っています」
しかし「歌をもっと勉強したい」と言っても却下。今後の役に立つことも、イメージが壊れるような仕事は、やらせてもらえなかった。
「トイレにもファンがいるかもしれないから外出先では行くなと言われ、いまだに外で水をガバガバ飲めません。かわいそうでしょう?」
さらにデビューから5年たったころ、ショッキングな出来事が起こる。慎之介の給与が手取り10万円であることを知り、歌手仲間から心配する声が上がった。
「同世代の演歌歌手は、その何倍ももらっていました。お金に無頓着だったんでしょうね。もっとちゃんと把握しておけばよかった」
さまざまな疑問が日増しにふくらみ、デビューから7年。慎之介は事務所を辞める決心をする。
「大人になってアイドルはもういい。歌番組も減り、ドラマや映画でもどっちつかずの役ばかり。もう干されてもいいから事務所に“ちょっと休ませてほしい”と言って日本を後にしました」
ニューヨークで気がついた「自分は自分」
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24歳になった慎之介は、当時ヘアスタイリストとして活躍し“ピーターカット”と呼ばれた、狼カットの生みの親、宮崎定夫さんを頼ってニューヨークへ向かった。
「朝起きて散歩して、美術館やブロードウェイ、ライブハウスに通い、自分ひとりの自由な時間を満喫しました。思い返せば、この7年間、人にやらされる仕事ばかり。何かやりたいことを見つけて帰ろう、と思っていました」
時間をかけてゆっくりと自分の進むべき道を探せばいい。
そう考えていた矢先、ニューヨークで出会った友人のひと言が慎之介の心を動かす。
「ニューヨークでメイクするのが恥ずかしい」
そんなモヤモヤした気持ちを打ち明けると、
「日本では、それで有名になったんだろう。もっと堂々と自分のやりたいことをしたほうがいい」
思えば、グループサウンズでもジャニーズでもない奇異なアイドルという、重たい着ぐるみを脱ぎたい。そう思って事務所を辞めた。だがアイドルはやめても、唯一無二のスタイル「ピーター」をやめる必要はない。そう考えると、
「もう一度スポットライトを浴びたい」
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そんな思いが慎之介の心にフツフツと湧き上がった。1~2年は滞在するつもりでいたニューヨークでの生活を、2か月足らずで切り上げて帰国。事務所を移籍して再出発する決心を固める。
「新しい事務所に歌の仕事もきちんとするから、舞台をやらせてほしいとお願いしました。舞台は一度立ったら自分の責任でお芝居をして評価される世界。そこに魅力を感じました」
慎之介は歌の仕事の傍ら、小沢昭一さんの舞台『ワイワイてんのう正統記』や寺山修司さんの『青ひげ公の城』といった舞台に出演し、舞台俳優としてのキャリアを積んでいく。そんな慎之介を熱い眼差しで見つめる人がいた。映画界のレジェンド、黒澤明監督である。
巨匠を“黒ちゃん”と呼び、周囲はドン引き
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'85年に公開された黒澤明監督がメガホンをとる日仏合作の超大作『乱』。
本作は仲代達矢演じる戦国武将・一文字秀虎が家督を譲った3人の息子たちに裏切られ、骨肉の争いの末に半狂乱となり城を追われる歴史スペクタクルである。
この作品で慎之介が演じたのが、秀虎にズケズケとモノを言う道化師の狂阿弥だ。
「公開の何年も前に呼ばれ、“君にやってもらいたい役がある”と言われ、見せてもらった絵コンテにすでに私の顔が描かれていたんですよ。うれしかったですね」
しかも世界のクロサワから、
「今回はピーターのイメージはいらないから、素顔でやってみよう」
と言われ心が躍った。映画『乱』をきっかけに俳優として出演する作品は「池畑慎之介」。歌手のときは「ピーター」。2つの名前を使い分けることで、過去のトラウマと決別することもできたのだ。「人生の師」といえる黒澤監督との思い出は尽きない。
「おまえはまじめすぎる、俺にも狂阿弥みたいな口の利き方や振る舞いをしろと言われ、ある朝“黒ちゃん、おはよう”と言ったら、スタッフにドン引きされたこともありました」
また、黒澤監督のかつての武勇伝に付き合うために、飲めないお酒をチビチビ飲んでいたときのこと。
「おまえ、何を飲んでるんだ」
「(焼酎の)いいちこ」
「ひと口飲ませてみろ」
と言われ、すすめてみるとすっかり気に入ったご様子。それ以来、世界のクロサワは『いいちこ』ばかりを好んで飲むようになる。すると、
「これまで高級なブランデーを好み、スタッフやキャストにも振る舞っていましたから、これで製作費をかなり浮かせることができました」
と、製作部から感謝されたこともあった。
黒澤映画『乱』への出演をきっかけに、'01年に放送された大河ドラマ『北条時宗』(NHK)では、髭をたくわえた北条家の重鎮・北条実時役を熱演。初めて老け役にも挑戦している。さらに近年の日曜劇場『下町ロケット』(TBS系)シリーズでは、血も涙もない悪徳弁護士・中川京一役を怪演。まさに変幻自在の演技に多くのファンが魅了されている。
51歳で出合った、自身の当たり役は……
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歌をはじめ、映画やドラマの世界で活躍してきた慎之介だが、当たり役として今も語り継がれているのが'03年に幕を開けた舞台『越路吹雪物語』だろう。
「デビューする前から“シャンソンの女王”と呼ばれたコーちゃん(越路吹雪)の大ファン。家出して、東京に出てきたばかりの'68年に見た『ロング・リサイタル』はすべてが洗練されていて素晴らしかった。それ以来、ずっと通い続けました」
慎之介にとって唯一のヒロインといえる越路さんに、日生劇場の楽屋で1度だけ、会ったことがある。
「あなたがピーターね。かわいい子ね。あなたにピッタリのお芝居があるわ。私も演じたのよ」
とすすめられたのが、後に慎之介も演じることになる『グッバイ・チャーリー』('97年)である。その芝居を見てくれたのか、越路さんのマネージャーを長年務め、作詞家としても活躍する岩谷時子さんから、舞台『越路吹雪物語』で主人公の越路役をやらないかと声がかかった。
「“できるのはあなただけ”そう言ってくださったものの、初めは恐れ多くてムリと思ったんです。“それなら、ほかの人を探すわ”と言われ、慌てて“演らせてください”と手を挙げました」
慎之介は過去の映像は一切見ずに、記憶の中の越路吹雪を頼りに役作りに励んだ。
「みなさんの心の中に、亡くなった後もコーちゃんは生きている。“全然違う”と言われ、ブーイングがきたらどうしよう。幕が上がる寸前まで怖くて仕方がありませんでした」
しかし終わってみると万雷の拍手に包まれ、客席から「コーちゃん」コールが巻き起こり、泣き出す人までいた。
そして「しぐさも歌い方もしゃべり方もうり二つ」といった高い評価も頂いた。
慎之介は越路さんが亡くなった56歳になる'08年まで、日生劇場で再演を続けた。
「岩谷さん役を演じた高畑淳子さんとは、会うたびに“朽ち果てるまでにもう1回やりたいね”と話しています」
今となってはこの伝説の舞台を見ていない世代も増えている。
再演を願っているのは、ファンだけではあるまい。
スターというより根っからの“付き人体質”
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年齢不詳で独特の美しさを持つ慎之介。その若さの秘訣について、コシノジュンコは、こう話す。
「好奇心のある人は、年齢や性別に関係なく元気なのよ」
確かにゴルフに麻雀、サーフィンに旅と、好奇心旺盛な慎之介は底知れぬバイタリティーの持ち主。そして稀有なサービス精神の持ち主でもある。'00年代に入って、父から相続した東京・高輪の稽古場を改築して開くようになった「高輪会」。そこには俳優、タレント、歌手に芸人、スポーツ選手、作家が集結。まさに21世紀を代表する社交場といえる場所だった。
「友達が友達を呼び、倍々ゲームでゲストが増えていき、延べ80人くらい集まることもありました。特番が2本くらいは作れたかもしれませんね。
「高輪会」では夕方から夜中まで入れ替わり立ち替わりゲストが集まってくる。彼らをもてなすため、慎之介は朝から買い出しに行き、大皿料理を10皿以上用意して、お酒を振る舞った。
「私は来た人に“おいしい”“ありがとう”と言われるのが何よりも好き。誰かにもてなしてもらうより、人の世話をして喜んでもらいたい。根っからの“付き人体質”なんです」
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番組での共演がきっかけで、「高輪会」に出席。今では家族ぐるみの付き合いをしている『ブリキのおもちゃ博物館』の館長で、鑑定士でもある北原照久さんは慎之介の魅力について、
「一番の魅力は、人に気を使わせずに楽しませるところ。この4年間、正月はいつも一緒に過ごしています」
と言えば妻の旬子さんは、
「食べさせることが大好きで、一緒にいるといつも2、3キロ太っちゃう。煮物も上手だけど、ハワイでごちそうになったかたいお肉を1日半かけてオリーブオイルとガーリックに漬けて、やわらかくして焼いてくれたステーキが忘れられません」
そんな慎之介だが、決してひとりになるのが嫌いなわけではない。好きなときに自分のタイミングで食事も食べられるし、何日も誰ともしゃべらなくても苦にならない。
キャンピングカーで桜前線を追いかけ、ひとり旅に出たこともある。まさに、
「おひとりさまの達人」
でもあるわけだ。以前は高輪、熱海、福岡県の糸島、横須賀市の秋谷、そしてハワイに家を持ち、思い立ったら飛行機で飛び回っていたこともある。
そんな生活もデビュー50周年あたりから断捨離を進め、今は海を見下ろす湘南佐島と熱海だけ。しかし引退を考えたわけではない。70歳を超えてからYouTubeを始め、SNSを使った配信活動も積極的に行っている。そんな中、慎之介は、改めて舞台への思いを口にする。
「男性遍歴を繰り返し、母性を持たない母親(慎之介)と娘(高橋惠子)の物語『香華』('13年)以来、舞台に立っていません。もし機会があれば、同じ有吉佐和子さん原作の物語『華岡青洲の妻』を舞台で演じてみたい」
と語れば、慎之介をリスペクトするミッツ・マングローブは、
「初期のオリジナル曲には『夜と朝〜』以外にも『愛の美学』や『人間狩り』など素敵な歌がいっぱいあります。デビュー60周年には、当時の名曲の数々をライブで披露してほしい。もし形見分けしてくれるなら、しっかり受け継いでいきます」
慎之介は今も'98年に急逝した父のことを思い出す。天才の名をほしいままにした舞踊家・吉村雄輝。袴をつけない着流し姿の舞いが、目を閉じれば今も鮮やかに蘇る。
そんな父も晩年、慎之介の舞台を見にくるようになった。
楽屋をそっと覗き、ほかの誰も気づかなかった所作のダメ出しをしてくれた。
「あんたはええな。日本のもんだけでのうて西洋のもんもでけて」
父のその声が時折、波の音と共に心に蘇る。厳しかった父が残した言葉を胸に抱きながら、新たな“ステージ”を慎之介は目指していく─。
<取材・文/島 右近>