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《ストレスを減らすたった一つの方法。それは『手放す』ことよ。執着を手放す。
「こうならなきゃいけない」を手放す。
人をコントロールしたい気持ちを手放す。
手放せるものは沢山あるわ。
手放せば手放すほど心は楽になっていく。
最後にどうしても手放せないものがある。これが生きる理由よ》『1秒で不安が吹き飛ぶ言葉』(ダイヤモンド社)より
誰しもが多かれ少なかれ抱える生きづらさに、ストレートに刺さる名言である。こんな言葉を呼吸をするように日々生み出し、X(旧Twitter)上で発信を続けているのは、精神科医のTomy先生だ。X上で発信した言葉をまとめた本はすでに9冊目、シリーズ累計発行36万部を超える、悩める人々の頼れる導き手である。
「ゲイの精神科医」という触れ込み、文章での一人称は「アテクシ」、そして似顔絵(?)はゆるふわカールなヘアスタイルにキラキラおめめ、ちょっぴり青いヒゲの剃りあとには“ナンノボクロ”……というクラシックな“オネエ像”を持つ人である。どんなコテコテのおネエさんが来るかと身構えていたら、高身長で温厚そうな男性が現れて逆に衝撃を受けた。
189センチという長身に若干、気おされつつも、インタビューを開始すれば穏やかな語り口での“おしゃべり”は尽きない。ゲイバーに通って25年超えの筆者だが「この後飲みに行きません?」という言葉が何度も口から出かかった(そして実際に出た)インタビューは初めてである……。「精神科医Tomy」という人物を形づくる、“ほんの一部”を皆さんと読み解いていきたい。
蝶よ花よと育てられた幼少期
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Tomy先生の両親は台湾出身で、台湾にて開業医をしていた祖父をルーツに持つ医師の家系だ。父親は独立心が強く、台湾で一級建築士になったあと、医師を目指して東京大学の留学生枠を受験し、一発合格。医師となった父は日本中を渡り歩き、最後に根を下ろしたのは名古屋にほど近い、東海地方の片田舎にある診療所だった。そこで生まれたのが、Tomy先生である。生まれたときの体重は4350グラムとかなりの健康優良児だったが、幼少のころは偏食がひどかったという。
「3歳か4歳のころはお肉しか食べなくて、父親が仕事を終えると毎日『ステーキのあさくま』に連れていってくれていたようです。今考えるとありえませんよね(笑)。台湾で生まれたお姉ちゃんとは年も15歳離れていたし、みんなにすごく可愛がってもらっていたと思います」(Tomy先生、以下同)
蝶よ花よと可愛がられた反面、幼少期に見るテレビ番組や本、遊びは厳しく制限されていた。テレビゲームの類いは中学生まで禁止。家族で見ることができたテレビは『わくわく動物ランド』(TBS系)に代表される動物番組と“健全な”アニメ。そして漫画もほとんどが許されていなかった。しかし「学習まんが」は好きなだけ買ってもらえたので、Tomy少年は学習まんがをページの端にある「一行豆知識」に至るまで何度も読み返したという。
「本屋にはよく連れていってもらいました。推理小説なんかも好きで、アガサ・クリスティを全巻読んだりしていて、そのころから本に対する憧れというか、物書きになりたい気持ちが育っていったのですが、あまり現実的には考えていませんでした」
そんな彼の「書きたい」という憧れが向かった先は、雑誌の読者投稿欄。幼き「ハガキ職人」よろしく、思いついたネタを雑誌に送り、掲載されることもしばしばあったという。また、中学・高校時代には学級新聞を発行したり、文化祭で演じる劇の脚本を担当し、「文化祭マスター」と呼ばれていたことも創作の原体験だという。
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「小さいころはサッカーやドッジボールみたいな男らしい遊びはほぼしませんでしたね。男の子はみんなザリガニを捕りにいったりしていたんですけど、僕は遠くから見ているだけでした。親も事故の心配をしていて、危ないところに行かせたくない気持ちもあったと思います」
本が好きで、インドア趣味で、女の子と遊ぶことも多かったというTomy少年。物書きを夢見つつも、将来は医師になると決めていた。
「お父さんはほぼ毎日、一日中自宅で診療をしていて、少ない休みで家族をいろいろなところに連れていってくれる人でした。そんなお父さんが年を取ったら、当然僕が同じことをやるしかないよね、と、医者になることは早いうちから決めていましたね」
「ゲイであること」への否定と受容
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親の意向もあり、中学から医療系の大学進学率の高い男子校に入学したTomy先生。思春期の多感な時期に、だんだんと芽生えてきた思いがあった。
「周りの同級生みたいに女の人が気になるようになると思っていたのですが、全然そんな気持ちにならないんですよね」
いつしかクラスメートや先生を意識している自分がいることに気づいたという。
「学校の伝統行事で、『水練会』というものがありまして。クラスごとに色の違うふんどしをつけて、太鼓に合わせて遠泳をする行事なのですが、その練習をする際に、周りの男の子たちを意識して、なんとなく“ぽやぽや”している自分に気づきました。でも男の子が好きだとはまだ思っていませんでした」
そのころは今でいう「おネエタレント」のはしりがたくさんテレビに出ているような時代だった。
「当時、テレビに出てくるゲイの人は、ゲイバーとか夜の街で働いている人が多かったんです。一緒にテレビを見ていたお姉ちゃんが『こういう人たちはこういうところでしか仕事がないから』と言ったのを強烈に覚えていて。今どきなかなか聞けないヘイト発言ですよね。そういうこともあって、『いけないこと』だと思い込んでいました」
高校時代に淡い恋を経験するも、友情の延長だと思い込み、自分の気持ちを認めることはなかった。本格的に自身のセクシュアリティがゲイであると自覚したのは大学時代。進学先の名古屋で1人暮らしを始めてからだった。
「男の1人暮らしでインターネットがあって、そこで初めてついついゲイ向けのサイトを見ちゃったんです(笑)。見た瞬間に『自分はこれだ』と確信しました。今まで自分がいかに無理をしていたのか、そのときやっとわかったんです」
その後、同じゲイの友達が欲しいと、当時流行していたネット掲示板を利用したり、ゲイバーやクラブイベントに顔を出してみたりしたが、自分に合うコミュニティーを見つけることがなかなかできなかったという。
初恋人は、年齢詐称の“パチンカス”
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バーやクラブといった、いわゆる“ゲイコミュニティー”の楽しみ方がわからなかったTomy先生がハマったというのが「チャットルーム」だった。当時はテーマごとに集まって文字でコミュニケーションを取るチャットルームを大手プロバイダーが提供しており、そこで話すうちに1人のゲイ男性と仲良くなっていった。
「たまたま同じ名古屋に住んでいて、通っていたスポーツジムも同じだったんです。そのころ僕は24歳で、彼は27歳って言っていました。待ち合わせとかじゃなくて、彼は『そのまま会うのは面白くないから、プロフィールだけでお互いを見つけたら会おう』と言ってきたんです」
同じジムにまで通っていた2人だが「さっきまでいたよ」「今から行くよ」といったように、すれ違いを繰り返していたという。
「3か月くらいたって諦めかけていたころに、ちょうどジムに行くタイミングが合ったんです。それでも、聞いていたプロフィールのような人はいなかった。それを彼に言ったら、とうとう待ち合わせをすることになって……」
そこに現れたのは、シワが目立つ、お世辞にも若いとはいえない男性だった。
「明らかに27歳じゃなかったので、食事をした際に勇気を出して聞いてみたら、本当は39歳だと言ってきて。それすら疑わしかったんですが……」
そんな2人だが、なぜか付き合うことになった(!)という。
「4年付き合ったんですが、彼はパチンコ依存症でした。デートは毎回パチンコ店で、2〜3時間いるんですよ。今考えればすぐ別れるべきでしたが、初めての人だったし、それなりに楽しいと思っていたんです。ほどなく自分もパチンコをやるようになりました。学生でお金もなかったので、足りないときは彼が貸してくれて、それが帳簿につけられていて……」
聞く側にとっては「大事故物件」のひと言であるが、その後、実年齢は50歳以上で、聞いていた名前も本名と違うことを知り、そこでようやく(ようやくである)別れを考えるようになる。
「毎回パチンコ店だし、人間関係も彼の周りはかなりのおじさんばっかりで、閉塞感を感じていました。同世代の人と知り合いたい、遊びたいとずっと思っていました」
そんな初の恋人と付き合う4年間で、医師としてのキャリアもスタートしていた。ゲイの医師のボランティアサークルに顔を出した際、1人の研修医を紹介されることになる。
「たまたま学会で名古屋に来ていた彼と意気投合して、バーに行った後、うちに泊まることになったんです。そんなことは初めてだったし、付き合っている人もいたので、心の整理がつかない状態でした。結局、今までの彼に別れを告げ、ダメ元でその子に告白をしたらOKしてくれて。そこから新しい彼との生活が始まりました」
……余談であるが、先述のパチンコおじさんと別れたあと、借金として50万円を取り立てられたり、ストーカーまがいのことを繰り返されたが、それは「楽しい時代の軽い話」とTomy先生は断言している。そう、もっとすごい話が続くのだ。
父親との別れ、そして「Tomy」の誕生
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新しいパートナーと暮らし始めたころ、父の体調が思わしくなくなってきていた。
「本来、家を継ぐのであれば内科医になるべきだったのですが、僕は父に内緒で精神科医になってしまいました。
父はそのころ目がほとんど見えなくなっていて、体力も落ちていた。往診の際にいろいろなところにぶつかったりしていて、実家の医院に長年勤めている看護師さんから『そろそろ戻ってきてください』と、何度も連絡をもらっていたんです」
家を継ぐことを決意し、1年かけて内科の復習をしてから実家に戻った。
「僕が診察を始める日の前に、一緒に食事をしたときの父のうれしそうな顔が忘れられないですね。結局父はすぐ現場から退いて、僕だけが診察をする形になりました。ある日診療を終えて家に帰ってきたら、いつも出迎えてくれるはずの父が自室から下りてこなくて……」
家を継ぐために戻ってきてからわずか2週間。父親はくも膜下出血で倒れ、昏睡状態になってしまう。
「1年くらいいろんな病院を転院して、毎日お見舞いに行く生活にも慣れてきたころ、亡くなりました。僕の身体は楽になりましたが、気が抜けてしまって……そんな僕を見るに見かねたパートナーが『ブログでも始めたら』と言ってくれたんです」
当時はブログの書籍化がブームで、試しにと始めてみたがアクセス数はなかなか伸びるものではなかった。
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「オネエの精神科医ってキャラにして、『Tomy』という名前もそのときつけたんです。パートナーは『ジョセフィーヌ』って呼ぶことにしました。当時はオネエキャラの文化人やタレントさんがテレビで人気でしたから、オネエ言葉にしてみたらウケるんじゃないか、と」
Tomyとジョセフィーヌの日常を切り取った文章は、徐々に人気を集め、読者からのお悩み相談も始まり、アクセス数は1日6万件を超えた。そして「ゲイの精神科医Tomy」として、初の書籍を上梓する。
「本を出すという目標は達成し、その後も5〜6冊ほど依頼を受けたのですが、どれもあんまり売れませんでした」
2度目の、大きくて深すぎる「喪失」
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出会ったころは研修医だった当時のパートナーのジョセフィーヌさんは、Tomy先生の父親が倒れたころから実家に来るようになり、母とも良好な関係を築いていた。精神科で働いていた彼は、いつしか開業を志すようになる。
「僕はすでに実家の法人を持っていたので、分院という形で一緒にやるのはどうかという提案をしました。彼はなんでも自分中心でやりたい人で、最初は渋っていましたが、結局2人で準備を進めることになりました」
開業の準備は、土地探しから建物の設計、薬局や製薬会社などの膨大なビジネスパートナーの選定、採用活動など多岐にわたる。彼と一緒に仕事ができる日をわくわくしながら待っていたTomy先生だったが、だんだんと彼は体調を崩していく。見るからに顔色も悪く、言葉数も少なくなっていった。
「こんな彼の様子は初めてで、いったん入院させたほうがいいと考えるぐらいになりました」
予定外の入院で、職員の採用まで終わっていた病院の開業は延期になっていた。彼の退院から3か月後を開業の日と改めて決め、Tomy先生は自身の休みを返上して彼のサポートをする心づもりだった。
「開院当日だというのに出席しなければならない学会があり、九州に来ていた僕に着信がたくさん入りました。彼が時間になっても現れず、連絡もつかないという、業者やスタッフからでした」
体調を崩して電話に出られないに違いない。大したことではありませんように。そう祈りながら、家に様子を見にいった人からの連絡を待つ。祈りはむなしく、彼は家の中で亡くなっていた。悲しむ暇もなく、頭に浮かぶのは、開業するはずだった病院、そして実家のこと。
「今日明日は僕がここの患者さんを見るとして、これからどうやって2つの病院を回すかを必死で考えていました」
さまざまな人の協力を得て、2つの病院を運営できるようにこぎつけ、翌年からは安定化する見通しが立った矢先、今度はTomy先生自身がうつ状態になってしまう。
「急に筋トレ中にダンベルを持てなくなってしまって。診察のときにも言葉が3つくらいしか出てこなくなったり、眠れなくなって、明らかに自分はおかしいと思いました」
張り詰めていた糸が切れると、一気に崩れるのは不思議なことではない。仕事を減らし、復帰するまでにはおよそ1年の月日を要したという。
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オネエ口調が受け、起死回生の大ヒットに
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2度の大きな別れを経験し、うつ状態から立ち直ってから、“最後の本”を出そうとしたことがあった。
「『死別』をテーマに1冊分の原稿を書いたのですが、紆余曲折あり、それを出版することは叶いませんでした。これを最後に書くのはやめようと思っていたのですが、書きためていた小さなネタはまだまだたくさんあったんです」
自分自身にアドバイスをするように、そして患者さんと日々向き合う中で浮かんだ言葉のメモはたくさんあった。同時期に精神科医つながりの友人である高木希奈先生に誘われ、Twitterの医師クラスターのオフ会に参加したことをきっかけに、書籍の宣伝にしか使っていなかったTwitterアカウントの本格運用を始めた。
「書きためたネタを短文調で、オネエ口調でつぶやき始めたら、これがすごく伸びて。半年くらいでフォロワーが10万人に増えました。そのころに編集の斎藤さんからダイレクトメッセージで出版のお話をいただき、『1秒で不安が吹き飛ぶ言葉』を出版することになりました」
高木先生は、当時のTomy先生についてこう語る。
「Tomy先生は当初、140字で何が伝わるのかと懐疑的だったのですが、フォロワーが増えるうち、楽しまれるようになっていました。いちばんバズった名言は、一緒に食事したときに話した内容をつぶやいたものと記憶しています」(高木先生)
本書を担当したダイヤモンド社編集の斎藤順さんも、その時期にTomy先生の名言に出合っている。
「私自身がとてもストレスがたまっている状態でTwitterを見ていたら、Tomy先生のポストがぱっと目に飛び込んできました。それで先生のアカウントをたどったら名言だらけだったんです。これはもう絶対他の人に知ってほしいと、その場で企画書を書き上げて、お仕事の依頼を送りました」(斎藤さん)
その言葉は冒頭でも引用した『ストレスを減らすたった一つの方法、それは“手放す”こと』だったという。言葉の選定にはどのような基準があったのだろうか。
「お寿司屋さんと一緒で素材をそのまま生かし、人気の高い投稿から出していきました。先生のフォロワーは女性が多かったので、私がいいと感じた言葉よりも、フォロワーの皆さんの評価を素直に反映して作ったのが『1秒で不安が吹き飛ぶ言葉』です」(斎藤さん)
この“1秒シリーズ”は30万部を超えるベストセラーになったことはすでにお伝えしたとおりだ。また、『50代を後悔せず生きる言葉』といった“年代シリーズ”も刊行しており、こちらも幅広い世代の読者の心を支えている。
“謎の存在”から脱却し、新しい「Tomy」へ
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当初は顔出しをせず、イメージイラストのみが存在しており、映像に出演する際にはお面を着用するなど、いわば「謎の存在」であった。だが、最近では顔を出すようになり、活動のスタイルも変化してきている。
「顔を出さなかったのは、もともとパートナーの要望からでした。医者の世界は狭いから、どこでどう言われるかわからないと。バレたら自分たちが付き合い続けることが難しくなるかも、とも言われていたのです。彼が亡くなってからもしばらくそれを守ってはいたのですが、顔も声も出せないというと、やっぱりやれることが限られてしまうんですよね」
自身のクリニックも10年という節目を迎え、作家としても軌道に乗り、次の道を見据える段階に入ってきたことも転機になったという。
「僕の場合は、この“Tomy”という活動がオネエキャラと一緒になっているので、Tomyとして顔を出すとそれは自動的にカミングアウトになってしまう。患者さんにも迷惑をかけるかもしれない。そういった葛藤はありました。でもフルオープンにすることによって、講演やメディア出演など、やれることの幅が一気に広がってきたんです」
余談であるが、実際のTomy先生と、そのイメージのギャップに驚く意見は多い。高木先生も、編集の斎藤さんも、第一印象は「(イメージに反して)大きい」だと話していた(筆者もそう思った)。
「やっぱりあのイラストだと小柄で髪の毛もフワフワなイメージですよね。あのイラストは、いわゆる『ゲイ』のイメージだけで描かれたものなのです。『精神科医Tomy』のキャラ設定には合っているので気に入ってはいますが、実際の僕はいかつくて短髪(笑)。オネエ口調でしゃべることもほとんどないので、そのギャップにだいたい驚かれます」
少しずつオープンに変化していくTomy先生。活動初期から一人称で使っていた「アテクシ」も、近作では「私」を使うようになり、現在はより自然に「Tomy」として呼吸をしている印象だ。そんな変わりゆく彼に、医師仲間にして友人の高木先生もエールを送る。
「これまでプライベートなことはほとんど発信されてこなかった印象があり、吐き出すところがちゃんとあるのか、常々心配をしていました。今後、もっとTomy先生のマイナスの感情だったり、普段、表には出さないような顔を見せてもらえるようになったら、友人として安心しますし、うれしくなりますね」(高木先生)
今後の活動の展望はどのようなものになるだろうか。
「今は、本を世に出すのがいちばん楽しいです。人の役に立てるような本をもっともっと生み出したいという気持ちもあります。電子書籍もありますが、やはり『本』という形で、みなさんに手に取っていただきたいですね」
作品に対する周囲の期待値も高い。担当編集の斎藤さんは、「これまでの言葉シリーズを続けるとともに、小説的な本も構想しています。Tomy先生なら絶対面白い作品が作れると思います」と言う。
医師として、作家として。言葉の力で、さまざまな人を救ってきたTomy先生。自分自身もそれまで持っていたものを少しずつ“手放す”ことで、新しいステージへと導かれてきたのではないだろうか。
「今回お話ししたように、パートナーを失って、自分もうつ状態になって……という話は今までしづらかったんですが、その体験を自分の作品に生かしていきたいと考えるようになりました。本当につらい時期ももちろんありましたが、彼と母と3人で親子のように過ごせていた素晴らしい時間もあって。それをちゃんと残しておくのが、彼への弔いにもなるんじゃないかと思うんです」
きっとその作品は、多くの人を、そしてTomy先生自身も救うものになるはず。その“言葉”が紡がれる日が来るのを心待ちにしている。
<取材・文/高松孟晋>