予選を突破しただけで自宅にファンから手紙が届いた
「はっきりと、歌手になりたいと思っていたわけじゃなく、テレビの中の世界に行ってみたいな、そんな感じでした」
石野真子が歌手を目指したきっかけは、そんなぼんやりとしたものだった。
当時、石野は神戸に住んでおり、普通の家庭で普通に学生生活を送っていた。どうしてもテレビの世界に行きたくて、自分で『スタ誕』にハガキを出したというが、実は彼女はその前に『全日本歌謡選手権』(日本テレビ系)にも出場している。残念なことに合格できなかったが。
「『スタ誕』の予選はハッキリと覚えています。会場には何百人という応募者がいて、次から次へと歌っていくんです。伴奏の横森良造さんがすごかった。だって楽譜もなしで、どんな曲も弾いちゃうんですよ」
1次、2次予選は難なくクリア。3次予選は客席の点数と審査員の点数を合わせて判定となっていたが、なんと石野は客席だけの点数で合格点を超えてしまうほどの高得点を獲得。見事、決戦大会への切符を手にした。
このとき、石野が歌った曲はダニエル・ビダルの『天使のらくがき』。
フランス人歌手が歌うこの曲は、もともとフレンチポップスであって、日本の歌謡曲とは明らかに趣が異なっていた。しかし、石野の持つ雰囲気にはぴったりだった。当時は歌謡曲が全盛の時代で、『スタ誕』の応募者たちはほとんど歌謡曲を選んでいたため、違うほうがいいと考え、この曲を選んだという。
しかし何と言っても、彼女の味方になったのが客席の“ファン”である。まだデビューもしてないのに“ファン”がいたとは驚きだ。
「客席だけの点数で合格点に達したのはうれしかったですね。しかも、まだ決戦大会にも行ってないのに、自宅に“頑張ってください”なんてお便りも届いたんです」
決戦大会には母親と2人で上京した。その母親は「あなたは歌手に向いている」と、いつも応援してくれていたという。
「とても緊張しました。今でもそうですが、あがり性でそのときも震えていました。ただ、希望に燃えて、未来に向かって走っていたので、ダメだったらとかネガティブなことは考えませんでした」
結果発表で、司会の欽ちゃんが「上がった、上がった!」と興奮して叫ぶほど多くのプラカードが上がり、
「本当にうれしかった。たくさんのプラカードを見て、これで歌手になれるんだ、デビューできるんだと、とても興奮しました」
所属するプロダクションが決まり、歌う曲も決まり、晴れてデビューを果たした石野には、想像を超える忙しさが待っていた。
「朝、学校に行きますが、仕事の時間に合わせてマネジャーさんが迎えにくるんです。お昼まで学校にいたことがなかったですね。テレビにラジオにレコーディング、取材。ノボリを持ってタスキをかけてキャンペーンもしました。休みはありませんでした」
それでもつらいと思ったことはなかったという。それは念願かなってテレビの中の世界に入れたからだと。
「『スタ誕』はすごく夢のある番組でした。私の夢をかなえてくれた番組です。あの番組がなかったら、今の私がいないわけですから、私の原点です」
〈解説〉『スター誕生!』とは?
1971(昭和46)年、新しいタイプのオーディション番組が始まった。当時30代で、放送作家・作詞家として頭角を現していた阿久悠が「本格的な歌手を生み出したい」と企画した『スター誕生!』(日本テレビ系)。審査員には阿久をはじめ、都倉俊一、森田公一、小林亜星、ジェームス三木、服部克久、かまやつひろしなど、大物がズラリ。司会は『コント55号』で人気絶頂だった萩本欽一が抜擢され約9年間、番組の顔を務めた。2代目はタモリと谷隼人、3代目には坂本九と『スタ誕』からデビューした石野真子が、4代目には横山やすしと西川きよしが起用された。
芸能界が最も輝いていた時代に、新人歌手の登竜門ながら、その中心的な役割も担う番組だった。素人が参加することで、テレビと視聴者の距離を縮めた。ハガキの応募総数は200万枚以上。予選参加者は約60万組。テレビに出演したのは約4000人。デビューしたのは88組、92人。番組終了の1983(昭和58)年9月まで、12年間続いて最高視聴率は28.1%を記録した。
『スタ誕』の功績を、阿久は著書の中でこのように言い切っている。
《「スター誕生」以後のアイドルが、どこか同じ色合い、雰囲気を感じさせるのに比べて、「スター誕生」は、森昌子であり、桜田淳子であり、山口百恵であり、伊藤咲子であり、岩崎宏美であり、ピンク・レディーであり、小泉今日子であり、中森明菜であり、共通するのはデビュー時の年齢ぐらいで、見事に多色刷りであると自負している》