挿絵/小川悟史

 ある料理、ある酒を口にするとき、将又(はたまた)、ある店であのメニューを頼むとき、ふと思い出してしまう人―。料理やお酒をきっかけに引き出されるあの日、あの人を描く。グルメじゃないけど、僕にとっての忘れられない味は……。

* * *

 定年退職をした知り合いの元テレビプロデューサーが、あまりに家にこもって、一日中寝てばかりなので、家族から「なにかすれば?」と呆(あき)れられ、とうとう重い腰を上げた。

 知人の紹介で数か月前から朝早く起きて、小学生の通学路に立ち、黄色い旗を持って、腕章を着け、「おはよう!」と言いながら、子どもたちの見守り活動を始めたというのだ。

秘密のいちごミルクキャンディー

 彼はテレビ業界では珍しいくらいに社交的ではなかったので、子どもたちの見守り活動をする姿なんて想像もつかず、本当に驚いた。

 最初は「せっかく会社を辞めたのに……」とイヤイヤだったらしいが、だんだんと子どもたちと顔馴染(なじ)みになっていくと、早起きが億劫(おっくう)ではなくなり、目覚ましなしで起きられるようになったという旨のメールをもらった。

 それどころか、「あれ?なんか元気ないな」とか「良いことでもあったかな?」など、毎朝子どもたちと会話を交わすうちに、自分の体調はもちろん、彼らの心の健康状態まで、わかるようになってきたという。彼がそんな人間らしい話をするようになったと知ったら、テレビ業界で一緒に働いていた人たちは、きっとビックリするでは済まないだろう。

 さらに、二日酔いのまま見守り活動に出かけたときなどは、「ねえ、昨日お酒飲んでたの?」「キャバクラ行ったでしょ?」などと、逆に子どもたちに冷やかされるらしい。今どきのませた子どもたちの態度には驚かされる。

 僕もごくたまに、知人の子どもを預かることがある。小学校の高学年になったその子も、キッチリ今どきの子で、クラスの好きな子に振り向いてもらうため、料理教室に通っている。

「なぜ?」と聞いたら、「キャンプの授業があって、そのときに料理ぐらいできないと、相手にされないでしょ?」と返された。思わず、「参考になります」と返しそうになってしまう。自分が小学生の頃はあまりに「子ども」が過ぎた。女の子に対しては、意識し過ぎて、自然な挨拶すらまともに出来ないレベルだった。

 そんな僕が小学生の頃にも、見守り活動をしてくれていたおじさんやおばさんがいた。だいたいが生徒の親御さんだったり、地域のおじいさん、おばあさんだった。その中でもひとり、いまでも憶(おぼ)えている人がいる。

 それは、学校で同じクラスにはなったことはないが、Oさんという運動神経抜群で勉強もできた、学年でも綺麗(きれい)で有名だった女の子のお母さん。Oさんのお母さんは、アイドルのような板に付いた笑顔で僕たちに挨拶をしてくれた。

 僕たちは芸能人にでも会ったかのように、Oさんのお母さんがいるだけで、テンションが上がって、なぜか目の前で変顔をしたり、兵隊のように、遠くからザッザッザッとピンと姿勢を正して歩いた(つまり、照れ隠しが常軌を逸していた)。恋も愛もまだなにも知らない年頃だったが、彼女のお母さんが朝いるというだけで、僕は間違いなくテンションが爆上がりしていた。

 その日も、「おはよ~」と黄色い旗をパタパタッとして、僕たちに挨拶をしてくれた。そしてエプロンのポケットから、いちごミルクのキャンディーを一つ、僕に握らせる。化粧っ気のない笑顔が眩(まぶ)しい。

 ある者は「小泉今日子に似ている」と言い、ある者は「浅香唯だ」と譲らなかったが、僕にはタイムボカンシリーズ『ヤッターマン』の敵役、ドロンジョ様そっくりに見えた。ちなみにドロンジョ様は、僕の初恋の人だ。

「いちごミルク。みんなの分はないから、内緒よ」その言葉で、僕はすっかりほだされてしまう。白いTシャツと腕の黄色の腕章が、とても似合っていた。長い黒髪が風で揺れ、石鹸のような匂いがほのかにした。「ありがとう」の一言すら、気持ちが昂(たか)ぶって言えなかった。

 その日の夕方、学校が終わって、僕はひとり通学路を帰っていた。朝もらったいちごミルクのキャンディーは、まだポケットの中だ。もう詳しくは忘れてしまったが、その日はなぜか水彩絵の具のセットを片方の手で持ち、もう片方の手で体操着が入った袋を持っていた。よいしょよいしょと大荷物の僕は歩いている。

 陽(ひ)がいまにも沈みそうで、遠くの空は薄い紫色に染められ、綺麗だ。居酒屋の提灯(ちょうちん)が灯(とも)り、おでんのいい匂いがどこからか微(かす)かにしていた。そのとき、カカカッとハイヒールを履いた女性が、僕の目の前を横切っていく。黒いスカートに白いシャツの女性。それは朝に見守り活動をしていた、Oさんのお母さんで間違いなかった。

 小走りで向かった先には車高の低い黒いスポーツカーが停(と)まっている。颯爽と車に乗り込むOさんのお母さん。運転席には、いかにもモテそうな、ガタイが良く、これまた白いシャツが似合う、日焼けした男が乗っていた。

 それがOさんのお父さんだったのかどうか、Oさんのお父さんを見たことのない僕には判別ができない。とにかく、両手に大荷物を持った僕は、しばし呆然(ぼうぜん)としながらその光景を眺めていた。

 車中の男女は、女のほうが覆いかぶさるようにして一瞬だけ重なる。そして、すぐに座席のシートベルトをする。程なくして、「ブロロロッ」と重いエンジンが響き出した。図らずも大人の世界を覗(のぞ)いてしまったような気がして、我に返った僕は目を逸(そ)らした。

 満面の笑みのふたりを乗せ、黒いスポーツカーは、あっという間に見えなくなる。さっきまでかろうじて沈んでいなかった夕陽は、完全に沈み、濃い藍色の世界になる。

 僕は両手の荷物を一度置いて、ポケットの中にあったいちごミルクのキャンディーを、口に放り込んでみた。カチッと歯で噛み砕くと、中からドロッとしたミルクのような甘いクリームが出てくる。僕は割れたキャンディーを舌の下に押し入れ、両手に荷物を持ち直し、「よいしょ」と口に出してまた歩き出した。


燃え殻さん 取材協力/出窓BayWindow

燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。

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