
「ナックルボールなら可能性があるかもしれない。男子の中で勝つにはこれしかないと……。ナックルに出合ったときから、これでトップになりたいと思うようになりました」
そう話すのは、日本女性初のプロ野球選手、吉田えりさん(33)。日本では珍しいナックルボーラーで、「ナックル姫」の愛称で知られてきた。
野球を始めたのは小学2年生のとき。2つ上の兄の後を追い、少年野球チームに入る。
「いつも親と一緒に兄の送り迎えをしていて、羨(うらや)ましいなって見ていたんです。ある日監督が『えりも一緒にやるか?』って声をかけてくれて」

わんぱくで目立ちたがり屋だったという幼少時代。野球はそんな彼女に合っていたようだ。土日はチームでプレーし、平日は兄とキャッチボールに明け暮れた。当時は比較的身体も大きく、チームではキャッチャーを任されている。
「女子のほうが成長が早いので、さほど男子に引けを取らなかった。所属チームにもあと2人女子がいたし、女子もやればできるんだと思ってました」
中学では野球部に入部。監督は保健室の女性教員で、それも彼女の背中を押した。
「女の子でも入れますか?って聞いたら、全然いいですよと言われ、即入部しました」
中学で男女の体格差に悩む
しかし中学になると体格にも差がつき、学校によっては女子が入れないチームもある。女子選手の数はぐんと減り、部員の中では紅一点に。
「女子には難しいのかもしれないと思うように。私のほうが頑張ってるのにと思うこともあって、埋められない力の差を感じて悩みました」
そんな中、メジャーリーグで活躍するナックルボーラー、ティム・ウェイクフィールド選手の存在を知る。
ボールに爪を立て、無回転で投げるのがナックルボール。空気の抵抗を受け、右に曲がることもあれば左に曲がることもある。投手自身どこにいくか予測はできず、バッターもナックルボールが来るとわかっていても見逃してしまう。
「その分投げるのはとても難しいんですけど。魔球といわれているくらい、本当にすごいボールだなって思います」
これなら男子と戦える、可能性が見えた瞬間だった。
とはいえコーチをしてくれる人はいない。YouTubeも浸透していないころで、メジャーの試合や本に片っ端から目を通し、独学で研究を重ねた。
「1年近くかかったと思います。初めて回転せず投げられたときはすごくうれしかった。うわっ!てなりました。今の回転してなかったよね!?って」
中学3年でナックルボールを投げ始め、以降それは彼女の大きな武器になる。

日本初の女子プロ野球選手が誕生!
高校2年の冬、関西独立リーグのトライアウトに挑戦。これも兄の影響があった。
「兄が挑戦すると聞き、じゃあ私も受けようと。トライアウトはどんなことをするのか知りたかったんです。家族で観光がてら関西に行きました」
トライアウトに合格し、ドラフトの7巡目で「神戸9クルーズ」の指名を受けた。男子と同一リーグ・チームで試合する日本初の女子プロ野球選手の誕生である。
入団契約を経て、神戸へ居を移す。とはいえ素顔は高校生の女の子で、親元を離れるのは初めてだ。
「高校をやめるとき、みんながお別れ会をしてくれて、めちゃめちゃ泣きました。関西へ行ってすぐホームシックになりましたね(笑)」
チームに加わり2か月後、9回裏にリリーフとして初登板。1万人の観客に見守られ、プロとしてマウンドに立った。
「チームのみんなも温かくて、登板に向けサポートしてくれました。それに応えたいという思いが強くありました」
ナックルボールを投げる小柄な女子選手の奮闘に会場は沸き、「ナックル姫」の愛称で広く知られるようになる。
プロ入り1年後、アリゾナで冬季に開催される「アリゾナウィンターリーグ」へ参加を決意。単身渡米している。
「ナックルを試合で安定して投げるのが難しくて。海外に行けばナックルを投げる人に出会えるかもしれない。もっと成長したい、それには海外しかないと思ったんです」
アメリカで独立リーグ「チコ・アウトローズ」の目に留まり、入団が決定。チーム唯一の女子選手で、男子選手相手にナックルボールで戦った。
アメリカで憧れの選手に出会う
アメリカでは大きな出会いがあった。18歳のとき、憧れのウェイクフィールド選手と対面する機会に恵まれている。
「メジャーのトップのキャッチャーでも捕れないくらいの球で、変化の幅がすごかった。本当に驚きました」

挑戦は続く。渡米2年目、ハワイの米独立リーグ「マウイ・イカイカ」に入団。米独立リーグ史上2人目の女性勝利投手という快挙を果たす。
「17歳で独立リーグに入り、何度かマウンドで投げるチャンスもあったけど、なかなか結果を残せなかった。
そこで、投球を変えようと考えて。それまで横から投げていたけれど、上からの投球に変えています。これでダメなら諦めようと思っていました」
米独立リーグの活動期間は6月〜8月の3か月間。その他の期間は「兵庫ブルーサンダーズ」に籍を置き、日米を3年間にわたり行き来した。ナックルボールを武器に、身一つでチームを渡り歩いた。
「自分からは絶対にやめない、という気持ちがありました。最初に兄と独立リーグに挑戦してからずっとそう。入りたいのに入れない人もいる、自分からやめるのは失礼だと思った。
どこか採用してくれるチームがあれば行く。その間は続けようと思っていました」
2016年、日本に拠点を戻し、栃木に誕生した「栃木ゴールデンブレーブス」に入団。しかしケガに悩まされ、出番なくシーズンを終えた。
「最終的に、クビという形で切られました」
退団翌年、栃木の女子硬式野球部「エイジェック」から声がかかる。女子野球という新たな世界に飛び込んだ。
「こんなに野球好きな女子がいたんだと、女子もこれだけできるんだと感じて、一気に女子野球が好きになりました」
エイジェックでは選手兼監督を務めた。女子野球の発展に力を注ぎ、同時に一つの思いを抱え続けていた。
「ケガで終わった、やり切れなかったという心残りがあった。けじめとして最後に男子にナックルを投げようと──」
アメリカでメジャーに挑戦する。31歳になっていた。

現地ではウェイクフィールド選手と念願の再会を叶えている。13年ぶりの対面に涙が止まらなかったと話す。
「自分の中では締めくくりのつもりでアメリカに行ったんですけど……。ウェイクフィールドさんに『Keep going(続けて)』と、『ナックルを伝えてほしい』と言われて」
再会の翌月、ウェイクフィールド選手は病のためこの世を去り、それは忘れられない記憶となった。
女子野球の発展に全力で取り組む
昨年末、エイジェックを退団。地元神奈川に戻り、兄が立ち上げた「tsuzuki BASE」に参画している。現在は野球塾の指導や女子選手向けのグッズ開発と多忙な日々を送る。
「今は女子の野球人口がすごく増えてます。でも神奈川は女子チームがなくて。今回神奈川に戻った一番の理由はそれで、地元への恩返しも含め、女子野球チームをつくれないか模索しています」
目指すは女子野球の発展だ。ウェイクフィールド選手の言葉を胸に、ナックルを次に伝える。第2の吉田えりが誕生する日も遠くないのでは?
「本当にそうなったらいいですね!女子選手がもっと増えてほしい。それでナックルを投げる子がもっともっと増えたらなって思っています」
取材・文/小野寺悦子