20150421 tanahashi (16)
"タナハシー!!"の大声援を、全身で受け止める


いま、プロレスが熱い! それも女性のあいだで熱い! 闘うマッチョな男たちに萌え萌えな女性たち。中でも、ひときわ熱い視線を受けるのが新日本プロレスのイケメンレスラー・棚橋弘至だ。プロレスの人気絶頂期に入団するも暗黒時代に突入。苦難の時代を知る男が新しいプロレスの扉となって、今日も四角い戦場に立つ!


 スポーツシーンでは、女性ファンの存在が大きな注目を集めている。プロ野球・広島カープを熱烈に盛り上げる「カープ女子」を筆頭に、大相撲を語りだすと止まらない「すー女」、Jリーグ・セレッソ大阪の力強い援軍「セレ女」……などなど。

 ここにきて話題なのが、プロレス会場をヒートアップさせている女性ファンたち。彼女らは「プロレス女子=プ女子」と呼ばれ、プロレス人気復活の原動力とさえいわれている。

 そして、プ女子たちから絶大な支持を得ているのが、新日本プロレスのエース・棚橋弘至だ。

 その日、格闘技の聖地といわれる後楽園ホールは超満員。噂どおり、女性客の姿が目立つ。一眼レフを持った32歳のOLは声をうわずらせる。

20150421 tanahashi (19)


「プロレス観戦は月に3、4回。都内や関東圏はもちろん、大阪や札幌にも遠征します」

 41歳の主婦は7歳になる娘を連れている。「プロレスは、この子の幼稚園時代のママ友にすすめられたのがきっかけ」という彼女は、

「棚橋の大ファンです。彼は究極のマッチョなのに強いだけでなくやさしさがある。もちろん娘も応援しています」

 そんな母の袖を娘が引いた。

「ママ、タナが来た!」

 激しいエレキギターサウンドが流れ、会場中の視線がひとりのレスラーに集まった。アニメヒーローを連想させる逆三角形の筋肉ボディー。歩みを進めるたび、金メッシュの入ったロン毛が揺れ、ロングガウンの裾がたなびく。

 彼がコーナーポストに駆け上がり、右手の人さし指と親指を天に向けると、悲鳴に近い声援が飛び交った。

 棚橋は「100年にひとりの逸材」といわれている。ほかにもイケメンレスラー、太陽の天才児、愛の戦士、あるいはミスター・ナルシスト、チャラ男など数々の異名を持つ。彼は自分のレスリングスタイルをこう表現している。

「勝負をあきらめない。がむしゃら。泥くさい。対戦相手の技を食らっても、耐えて、耐えて、耐え抜く。ようやく最後に得意技を炸裂させたとき、僕がリングで光り輝くんです」

棚橋の"強さ"の根源は家族にあった

20150421 tanahashi (16)
"一升餅"を背にくくり、歩いた


 棚橋は1976年11月13日に岐阜県大垣市で生まれ、高校卒業までこの町にいた。

 生家は、東海道新幹線の岐阜羽島駅からクルマで20分ほど。揖斐川にかかる大安大橋を渡って、すぐのところにある。遠くに大垣市街の高層ビルが見えるものの、車窓からの風景は民家や商店、田畑が交互に現れる、至極のんびりしたものだった。

 棚橋は父・貞之(68)と母・とも子(65)の初子として誕生した。長男・弘至の生後2年して弟、また2年たって妹ができた。一家は父方の祖父母を含めて7人。現代では珍しい大家族のもと、愛情いっぱいに育てられた。

 母は顔をほころばせる。

「私たちにとって子どもは宝物。おじいちゃん、おばあちゃんにしても初孫だから、弘至のことは目に入れたって痛くなかったんです」

 両親はさっそく写真アルバムを広げてくれた。

「これは弘至が1歳の誕生日に撮りました。一生食べるのに困らないようにと、一升の餅を背負わせるんです」

 赤ん坊の棚橋は、約2キロもある餅を背にしながら、苦もなく歩いてみせたそうだ。

「弘至が足を前に出すたび、頑張れって応援したり、拍手したりと大騒ぎでした」

 母が身ぶり手ぶりを交えて話す隣で、父は落ち着いた声を響かせた。

「小さいころから、弘至の意思は尊重してやりました」

 母はうなずく。

「弘至のやさしい性格はお父さんに似たんですよ。天然キャラは私の遺伝です」

 そういえば、棚橋は「母からキツく叱られた記憶がない」と話していた。母は言う。

「ガツンとやるのはお父さんでしたね。無口だけど怒ると怖いというのは、弘至も承知してたはず」

 棚橋は、自分の個性がこの環境の賜物だと認めている。

「両親や家族との絆を、僕は素直に信じています。世界中が敵になったとしても、家族だけは僕を信じ、生きている価値があると言ってくれる。このバックボーンが僕の"強さ"の秘密でしょうね」

 両親は月に1度、神社に出向いて弘至の無事を祈願するのを欠かしていない。大事な試合の日は、必ず赤飯を炊いて仏壇に供え、勝利を祈る。

少年時代の棚橋が書いた3つの"夢"とは

20150421 tanahashi (1)
きょうだい3人でケーキを前に(中央が棚橋)


 棚橋の少年時代は野球一色だった。

「中日ドラゴンズの大ファン。小松辰雄や郭源治といった速球派の投手に憧れていましたね」

 棚橋は、中学から高校と野球三昧の日々を送った。ただ、レギュラーの座は獲得したものの、外野手で下位打線を任されることが多かった。それでもめげずに、「いつかエースになる」と公言していたのは、いかにも彼らしい。

「子どものころから、僕の考えって基本的に変わってないんですよ」と棚橋は言う。

「エース志望はレスラーになっても同じ。野球だけじゃなくサッカーにもエースがいますし、エースにはエースとしての責任とやるべき仕事がありますよね。僕はプロレス界のエースと呼ばれたい」

 それは、力道山やジャイアント馬場、アントニオ猪木のように、時代をつくった伝説のレスラーたちと並ぶことを意味する。

「僕はいつも夢を掲げて突っ走ります。だって、有言実行のほうが実現したときにカッコいいじゃないですか」

 彼は屈託のない笑顔で語った。この衒いのなさ、底抜けの明るさもまた、棚橋の大きな魅力にほかならない。

 両親は、いかにも彼らしい思い出の品を見せてくれた。それは、棚橋が中学2年のとき、「でかすぎる夢を語るぜ」と題した版画。バスケ選手を描いたパネルの裏には、棚橋の"夢"がいくつも手描きされていた。

・プロ野球選手になる

・年俸5億円

・歌をうたってCDを出す

「美人の女房をもらう、なんてことも吹いてましたねえ」

 父は、やれやれという調子だったが、「特に反抗期もなかったし、素直な子だったのはありがたかったです」と自らとりなす。

 母は、「弘至は成績がよかったんですよ。面白い知恵の使い方をする子でした」と太鼓判を押した。

「運動会の棒倒しで、あの子はみんなが棒に殺到するのを待ち、後から悠々と頭や肩を踏み台にして登っていってました」

 大垣西高の入試では、トップ合格してみせた。棚橋は迷わず野球部に入る。ここで本格的な筋トレと出あった。

「監督が、超のつくほど筋トレに熱心だったんです。だけど、バーベルはあくまで野球で勝つための手段。それほど野球に打ち込んでいました」

 高3の夏は同級生の部員が9人、総勢わずか10人で甲子園に挑んだ。棚橋は言う。

「それでも僕らは代表候補だったんです」

 2回戦の相手は大垣日大、棚橋は7番・レフトで先発した。大垣西高は6回表まで7対0でリード、あと1回を抑えればコールドゲームという展開だった。

「ところが6回の裏に追いつかれてしまい、負けちゃったんです」

 だが棚橋は、「全力を尽くしたのだから、悔いはない」と断言する。

「むしろ、あの敗戦で野球にケジメがついた。次は団体競技じゃなく、個人競技でエースを目指そうと思いました」

 余談ながら、棚橋は控え投手でもあった。サイドスローの変則派で、公式戦2勝0敗の記録を残している。


取材・文/増田晶文 (※本記事は『週刊女性PRIME』用にリライトされているため、必要に応じて加筆修正してあります。少年時代編に続いて、全部で3部の構成になっています。続編も是非、お読みください) 撮影/伊藤和幸