光GENJI

 爆発的な人気で社会現象を巻き起こした光GENJI。活動期間は1987年のレコードデビューから8年間と短かったが、今では考えられない異次元のスーパーアイドルだった。

 ’95年の解散から、ちょうど30年になる。節目の年に、ある番組が始まった。

 WOWOWで放送・配信中のドキュメンタリー『7 S.T.A.R.S. ~7つの答え~ 佐藤アツヒロが繋ぐ光GENJIの現在(いま)』(月1回放送・全7話)。デビュー時に13歳だった最年少のアツヒロが、ある思いを胸にメンバーを順に訪問していく内容だ。2月11日放送の第2話に赤坂晃、3月16日放送の第3話には大沢樹生が登場。

 7人の今後の動向が気になるところだが、まずは伝説をおさらいしておこう。

いまだ色あせない、数々の“伝説”

●記録的ヒット

 ローラースケートで駆け抜けた彼らの勢いはすさまじかった。『STAR LIGHT』でデビューして間もなく、オリコンシングルチャートで初登場1位に。

 ’88年の年間シングルチャートでは、1位『パラダイス銀河』、2位『ガラスの十代』、3位『Diamondハリケーン』とトップ3を独占する快挙を達成。

 このうち3枚目のシングル『パラダイス銀河』はその年の日本レコード大賞を受賞。このときアツヒロは15歳4か月で、当時の最年少受賞となった。

●チョコに悲鳴

 バレンタインデーといえば光GENJIというくらい、この逸話は浸透してきたが、当時、事務所に届いたチョコは4トントラック20台分とも45台分とも報じられた。郵便局はチョコを大量にさばかねばならず、パニック状態に。

 恒例だった日本武道館でのバレンタイン握手会では、7人全員が6万人と10時間かけて握手。’94年は大雪だったにもかかわらず、全国からチョコを手にしたファンが詰めかけた。

 諸星和己は2021年2月に出演した『5時に夢中!』(TOKYO MX)で、積み上げたチョコを「(武道館の)2階の席から(手を)伸ばして取りました」と振り返っている。

 食べきれなかったチョコは児童福祉施設などにおくられたそう。ちなみに現在のSTARTO  ENTERTAINMENTではファンレターの受け付けのみで、贈り物は禁止されている。

光GENJI
●ファンを連れて通学

 アツヒロがテレビ出演時によく話しているのが通学時のエピソードだ。

 人気絶頂のころに高校生。朝、自宅のドアを開けるとすでにファン数人が待っており、最寄り駅で数人が加わり、乗車中も途中駅から数人ずつ乗ってくる。

 徐々に増え、駅から学校に歩いていくときには300人にふくれ上がっていた。アツヒロが学校に着くと、ファンはそれぞれの学校に向かうが、放課後また集まっていた。

 ほかのメンバーも同じような状況で、通学時の車両がファンでいっぱいになることも珍しくなかった。

●荷物になって移動

 コンサートツアーなどで移動するときも、駅や空港にファンが押し寄せていた。

「次第に対策が取られるようになりました。彼らは会場から楽器車や機材車に乗って出たり、新幹線から荷物に見せかけたワゴンの中に入って移動したり。飛行機は機体の下にバリケードを設置して乗り降りし、ファンから見えないようにしていたそうです」(芸能ライター)

 ほかにも、ローラースケートが全国のスポーツ用品店で売り切れたとか、音楽番組で歓声が大きすぎて司会者の声が聞こえなかったとか、京都への修学旅行で駅構内にファン数百人が集まったとか、仰天話は尽きない。

国の法律まで変えた彼らの人気ぶり

 極めつきは、中学生だった赤坂とアツヒロが労働基準法により、午後8時以降はテレビ番組に出られなかったところ、国がいわゆる「光GENJI通達」を出し、出演OKにしたことだ。

 今と同じく当時も、駅や空港はもちろん、自宅や学校付近でタレントを待つことはダメだった。しかし、その状況が人気のバロメーターととらえられる傾向もあった。いずれにせよ、日本中のそこかしこが活気にあふれていたことは確かだ。

光GENJI

 リアルタイムで見たことのない世代にも、Kis-My-Ft2が披露しているローラースケート・パフォーマンスの元祖、なにわ男子が歌う『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』のテーマ曲『勇気100%』の初代と聞けばピンとくるかもしれない。

 さて、古今東西たくさんのアイドルがいる中、光GENJIが、いちアイドルの枠を超えて社会的存在になったのはどうしてだろう。

 旧ジャニーズ事務所のタレントたちの取材歴が長い芸能リポーターの山﨑寛代さんは、まず、メンバーが7人という人数に注目し、「セブンスターという構成が良かった」と話す。それ以前のシブがき隊、少年隊はいずれも3人組。メンバーカラーは当然3色だった。

「光GENJIは7色に増えたのが大きかったと思います。ローラースケートで歌って踊るという斬新なスタイルで、足を上げてクルクル回り、カラフルなキラキラを振りまいた。後にV6でも見られますが、お兄さんチームと弟チームの組み合わせも絶妙でした」(山﨑さん、以下同)

はかなさも魅力。彼らの現在は…

 輝きの一方で、青春の刹那(せつな)も感じた。

「全員が10代でデビューして、まさに『ガラスの十代』でした。メンバーの取材をしたことがありますが、当時のことは覚えていないくらい、がむしゃらだったそう。未完成の状態で、はかなさがあった。そこが魅力だったのでしょう」

 時代の影響も大きい。デビューからの数年はバブル景気の真っただ中。’89年に平成が始まり、テレビCMで『24時間戦えますか』というフレーズが流れまくっていた。

『ザ・ベストテン』(TBS系)、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)など歌番組も多く、彼らは毎週のように出演。

光GENJI

「みんなが見ている番組に出ているから、ファンじゃなくても、みんなが曲を知っていて歌えた。だから驚異的な人気につながり、社会現象になったのではないでしょうか」

 団塊ジュニア世代がちょうど中高生で、子ども・若者の人数は現在の2倍近く多かった。「若い人が多かったから、彼らに向かう情熱もすごかったですね」

 山﨑さんは現在のメンバー同士の活動もウォッチしている。

 内海光司とアツヒロは光GENJIデビュー35周年の’22年8月、ユニット「U&S」(ユーアンドエス)を結成、楽曲を配信リリースし、音楽番組への出演やライブ活動を行っている。ローラースケートでのパフォーマンスは健在だ。

 佐藤寛之と山本淳一もユニット「ふたつの風」を結成し、’23年12月にCDシングルをリリース。’24年1月の公演の構成・演出は少年隊・植草克秀が手がけた。

 諸星と赤坂も一緒にコラボライブを行っている。昨年夏の公演には光GENJIの数々のヒット曲を生んだASKAが訪れ、ステージで“共演”した。

 ここまで来ると、やはり再結成の行方に興味津々。「あのころのキラキラした思い出は、多くの人の宝箱に入っている。箱が開けられ、あの宝をまた目にするときが訪れるのでしょうか」と山﨑さん。

 記憶に新しいのは男闘呼組の再結成だ。彼らは光GENJIに続いて’88年にレコードデビューし、’93年に活動を休止していた。’22年7月、音楽番組に出演して29年ぶりに復活。期間限定で活動すると発表し、全国ツアーで当時の楽曲を披露した。告知どおり、約1年で終了したが、新たなバンドになり、現在も活動を続けている。

 また、環境も変化している。ジャニーズ事務所がSTARTO  ENTERTAINMENTに変わり、かつてのような事務所の垣根はなくなった。STARTOのタレントと、退所したタレントが共演する機会も増えてきた。

 機運は高まっているように見える。WOWOWのドキュメンタリーが第7話を迎える夏ごろには、はたして、何らかの動きがあるのだろうか。

 散らばった7つの光が再び集まる日を期待するファンは多い。再結成が実現するとしたら、それは新たな伝説の幕開けとなるに違いない。

山﨑寛代/FM群馬での勤務を経て、TBS系『3時に会いましょう』、『スーパーワイド』、テレビ朝日系『スーパーモーニング』などワイドショー・情報番組でリポーターを務める。朝日放送系『おはようコールABC』出演を機に芸能リポーターとして、現在はテレビ朝日系『羽鳥慎一モーニングショー』などに出演中。舞台や歌舞伎など、演劇の取材も多い。
光GENJIファンを公言するタレント、ホリ

●ものまねタレント、ホリが分析する「光GENJIの魅力」

 光GENJIが日本中を席巻していたころ、ものまねタレントのホリさんも、3歳下の妹とともに夢中になっていた。彼らがレコードデビューした1987年に小学5年生だったホリさん。

「クラスのみんなが好きでしたね。なんなら先生も好きで、『6年生を送る会』で『ガラスの十代』を歌って踊ることになった。先生が当時の粗いビデオで練習風景を撮って、動きを教えたんですよね」(ホリさん、以下同)

 女子たちは下敷きやブロマイド風のカードを手に熱狂していた。

「その勢いが男子にも来て、みんな砂場でバク転を練習してましたね。カッコいいなと思って。僕は何回か成功したけど、結局できるようにはならず、側転や鉄棒を頑張りました」

「彼らは未来への憧れを体現していたのかも」

 女子のみならず男子までトリコになったのはなぜなのか。

「やっぱ嫉妬じゃないですか。僕は少年野球の主将や児童会をやっていて、目立ちたがりタイプだった。だから、注目を集めている存在への嫉妬があったと思います。

 ちょっと年齢が上のお兄さんという親近感もありましたね。あと、『エンターテインメントとしてすごい』と子どもながらに肌で感じていたんじゃないですかね」

光GENJI

 今振り返り、改めて思うことも多い。ヒット連発の楽曲については、

「当時は深い意味まではわかってなかったけど、ASKAさんの曲すげえカッコいいって、後々実感するんですよね」

 さらに熱弁は続く。

「『STAR LIGHT』とか『パラダイス銀河』とか、タイトルやきらびやかな衣装で未来を想像させたのかな。昭和の人々は平成の初期にかけて、未来への憧れを抱いていた気がします。それを形にしていたのが彼らじゃないでしょうか」

 ’80年代後半は『科学万博-つくば’85』が開かれ、
’87年にNTTの携帯電話サービスがスタート。ポケベルの普及も進んだ。IT社会に向け、テクノロジーが急速に進化した時期だった。

「光GENJIはローラースケートを履いて滑り、すごさを見せてくれた。キラキラした近未来への入り口をダンスと歌で表現していたのかなって思います」

ホリ/ものまねタレント。1977年、千葉県生まれ。日本大学法学部新聞学科卒。会社員を経て芸能界入り。現在のものまねのレパートリーは200以上。木村拓哉のものまねは本人から公認を得た。「昭和の子ども」ネタにも詳しく、トークライブをしていたことも。