
「俳優一本で食えるようになるまで、20年以上かかりました。それでも諦めなかったのが僕の変な性格というか(笑)。何か別の才能があったならばともかく、僕には俳優しかなかった……」
数々の作品で揺るぎない存在感を発揮する古舘寛治。その異色の経歴は、演技の経験のないまま俳優を志して上京し、ミュージカル劇団に入ったことから始まる。
いろいろやった無名時代
「高校時代にブレイクダンスの第一世代みたいな盛り上がりがあって、僕も身体を動かすのが好きだったんです。毎日ダンスのレッスンを受けていました」
――テレビにも出演して、南野陽子や小柳ルミ子のバックで踊ったこともあるそうですね(1987年)。
「そうそう。『ザ・ベストテン』と『紅白歌合戦』ですね。でも、だんだんダンスに興味を持てなくなって。そもそも『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロに憧れて俳優を目指した人間なんで、思い切ってニューヨークに行くことにしたんです」
――ニューヨークでは俳優学校に入りました。
「演技の基本はそこで学びました。ただ痛感したのは言語の壁。やっぱり20代になってから行ったのでは記憶力や発音の部分でかなり難しい。
さらに日本人は演じる役柄も限られる。当時、野球では野茂選手が活躍していましたが、今と違って俳優はほとんど需要がないわけで。しかも日系アメリカ人で俳優っていうのもいっぱいいる。彼らはネイティブスピーカーだから言語では勝てないですよ」
――憧れのロバート・デ・ニーロが経営する日本食レストランでも働いたとか。
「デ・ニーロと料理人の松久信幸さんが共同経営する“NOBU"という有名店です。もともとLAに“松久"っていう店があって、デ・ニーロが常連客だった。それでニューヨークに店を出すことになって、スタッフを募集してたんです。デ・ニーロの空気みたいなものを吸いたくて、ひやかしで面接に行ったら受かっちゃったんですよ」
――アメリカ滞在は6年半。日本に戻った決め手は?
「俳優学校で僕を評価してくれる先生もいましたが、自分が何のためにここにいるのかリアルに考えるほど、ちょっと(未来が)ないなって。
学生ビザが切れるタイミングもあったし、学べることは学んだなと、30歳になる手前で帰ってきました」
“風呂なし・トイレ共同”から抜け出せた39歳
――その後、注目を集めたのが英会話学校のNOVAのCMでした。結果的には英語が役立ちましたね。
「39歳ですから、日本に戻って10年後です。それで少しお金が入って、ようやく風呂なし・トイレ共同のアパートから出られました」
――どうやって生計を立てていたんですか?
「33歳で劇団(平田オリザが主宰する『青年団』)に入ったんですけど、劇団員の人の実家が持っている六本木のビルで管理人をしていました。朝行って掃除をして、あとは領収書の仕分けとかいろんな雑事。劇団優先で行けるときに行けばいいというので、とてもありがたかったです。
そのうち舞台の僕を面白がってくれる人が出てきて、映像にも呼んでくれるようになったんです。沖田修一監督(『南極料理人』)もそうだし、山下敦弘監督もそう」
――山下監督の『マイ・バック・ページ』では主人公・妻夫木聡の先輩で、気骨ある新聞記者の役が鮮烈でした!
「その年(2011年)は『歓待』(深田晃司監督)も公開だったのかな。深田くんも青年団の演出助手だったし、本当に劇団が人との出会いをつくってくれて、そこから仕事が来るようになりました」
――独特の味のある演技に接するたびに、よくぞやめずに続けてくれたと思います。その後は順調ですよね?
「ものすごくラッキーだったと思います。すぐにダメになるかも、と不安もありましたが、とにかく食べてこられた。こういう仕事なんで何の保証もありませんが……。
それに今は世の中がすごいことになっている。世界を見ればアメリカは大変だし、ガザなんていうのは地獄ですから。あんなのを許してる人類ってなんだろうって。あんなのは遠い国の話だなんてことは絶対にあり得ない。必ず僕らに影響してきますよ。
まして日本の政治はひどいですから。つい去年だって、米がなくなって大騒ぎ。野菜もどんどん値上がりするし、本当に怖いと思います」

最新作は足立正生監督の映画『逃走』だ。演じるのは1974〜75年、過激派組織が起こした「連続企業爆破事件」に関与したとして全国指名手配された桐島聡。
偽名を使って土木工事会社に住み込みで働き続け、逃走から約49年後の2024年1月、病院に担ぎ込まれて亡くなるまでを描いている。
――昨年、指名手配犯の桐島らしき人物が見つかったと報じられ、さらに名乗り出た4日後には亡くなり大きなニュースになりましたね。
「桐島さんはずっと自分を隠すように生きた方なので、ほとんど資料が残っていない。なるべく忠実に演じたい欲求はありましたが、『逃走』の中の桐島さんはあくまで監督・脚本の足立正生という人が思い描く桐島。実在する本人になろうとする必要はなかったんだ、と今は思います」
――桐島といえば、なぜか笑顔を浮かべている手配写真がインパクトがありました。
「そうですね。ああいう写真はにらんだりしている顔が多いものですが、彼には逮捕歴も前科もないので、写真はあれだけ。それが捕まらなかった一つの理由なんでしょう」
――足立監督自身が日本赤軍に身を投じて海外に渡り、60歳を過ぎてから再び映画を撮り始めた人。出演オファーには即OKしたのですか?
「いや、やっぱり躊躇しましたよ。桐島を映画化するっていうだけで騒ぐ人もいるし、ネット右翼がウヨウヨして何をやっても批判の的になる。この役を進んで引き受ける俳優は少ないと思います」
――それでも出演したのは?
「監督に会わずに断るわけにはいかないと思って、会うだけ会って“僕みたいな俳優を使っていいんですか? 政治的な発言で批判されたりもするんですが、そういう色がついてない俳優のほうが、作品のためにもいいんじゃないですか?”って言ったんです。
でも足立さんはその議論に興味がなかったようで“で、脚本はどうだったの?”って聞くから“面白かったです”って言ったら、こうやって(スッと右手を差し出す)されたんで握手するしかなかった。足立正生という男に一目惚れしてしまったんです」
――最後、桐島は末期がんで亡くなります。逃げ切ったと思っていいのでしょうか?
「ある種のハッピーエンドとも受け取れるように撮ってはいますね。しかも、これはぜひ劇場で見てほしいんですが、死んでも“まだまだ戦い続けるぞ”みたいな決意まで表明している。そこが足立正生のすごいところですよね」
『逃げ恥』でつながった縁
――名バイプレーヤーとの評価が定着しましたが『逃走』は主演ですし、ドラマの『コタキ兄弟と四苦八苦』(2020年)では滝藤賢一さんとダブル主演でした。
「そうですね。あれは滝藤くんだったから話が進んだし、脚本が野木亜紀子さん。野木さんとは『逃げ恥』(2016年/バーの店主役で出演)からのご縁ですが、僕が昔出た舞台も見てくださっていたらしく、それで連絡先を交換して仲良くなったんですよ。
そういう流れでお願いしたら“タイミング合えばいいですよ”と。もう野木さんがグワーッて(急上昇の)ときだったんで、僕にとっても本当に奇跡的な作品の一つです」
――お話に出た『逃げ恥』も評判を呼びました。
「すごい大ヒット作で、そこに僕が入れたこともラッキーでした。ほかのことで忙しかった時期でお断りした可能性もある。たしかに『コタキ〜』は『逃げ恥』をやってなかったらなかったですね」

――星野源さんとは映画の『箱入り息子の恋』(2013年)でも共演しています。
「ですね。でも、沖田くんの映画『キツツキと雨』(2012年)で主題歌を歌ってくれたのが先です。長いこと続けているといろんな出会いがあって面白いですよ」
――ロバート・デ・ニーロは映画『ジョーカー』でも名演技を見せました。今、昔憧れた彼を見ると、どんな思いになるんでしょうか?
「それはもう素晴らしい俳優だし、その方が今も現役であんだけ元気でやっている。まさに足立さんぐらいの年齢かな。アル・パチーノもそうですけど、みなさん80代。本当にすごいなと思います」
──
「この間ノブさんと久しぶりに会って、初めて東京のNOBU(港区虎ノ門)で食事をしたんです。NOBUは世界各国に50店舗くらいあるんですが、彼も70代かな(76歳)。めちゃくちゃ元気で。
そういう先輩たちがいるのはちょっと希望だなと。デ・ニーロもそうだし、ノブさんもそうだし、足立さんもそうだし。僕もまだまだ頑張りたいなと思っています」
取材・文/川合文哉 撮影/佐藤靖彦