"皆川おさむ"と聞いて、おや? と思われた方も少なくないはず。
ご存じ、昭和を代表する大ヒット曲『黒ネコのタンゴ』を歌っていた、あの"おさむくん"である。1969年の発売当時、彼は6歳。その後、バラエティーやドラマなどで活躍し、12歳の変声期を機に表舞台から姿を消していた。
「もともと芸能界に憧れていたわけではなかったし、自分には演技の素養がないこともわかっていたので、声変わりして子どもらしい高い声が出なくなったら終わりかな、と自分でもわかっていたんです。だから、いまだに"天才子役の"なんて形容詞をつけられると違和感がありますね。僕は"天然子役"だったから」
そう言って笑った皆川氏は現在52歳。たれ目の優しい眼差しに当時の面影が残る。音楽大学で打楽器を専攻し、その後は造形デザインを生業としてきた。それがなぜ、合唱団の代表を務めるようになったのか?
実は『ひばり児童合唱団』の創設者である皆川和子さんは、彼の伯母であり、3歳から合唱団に在籍していた皆川氏に『黒ネコ~』を歌わせたのも和子さんだった。
「当時、歌番組やドラマの現場にはいつも伯母がついて来てくれていて、私にとっては実の母よりも伯母に育てられたような感覚があるんです」
自宅を兼ねた合唱団の稽古場が目黒区の洗足にあり、和子さんと皆川氏一家はそこに同居していた。生涯独身で子どものいない和子さんにとって、皆川氏はわが子のように愛しい存在であった。
デザインの仕事をしながらも、"ひばり"の定期演奏会などではパンフレットの絵を描いたり、荷物を運んだりと、何かと合唱団の手伝いをしてきた皆川氏。それでも、
「伯母の跡を継ぐとは考えたこともありませんでした」
それが突然の決心をしたのは、’04年。和子さんが82歳のときに脳梗塞で倒れたのがきっかけだった。
「伯母が生涯をかけてここまで大切に育ててきた合唱団を、このまま終わらせたくないと思ったんです。伯母には子どもがいなかったので、引き継ぐのは自分しかいない、と。私はいろいろなことを同時にできないので、それまでの仕事をいっさい辞めて合唱団に専念することにしました」
皆川氏が引き継いだ後、’12年にはクラシックの殿堂として名高いサントリーホールで70周年の記念公演を行い、車イスに乗った和子さんも幸せそうに壇上に上がった。
「かつての教え子たちが集まって、伯母も"あら、〇〇ちゃん!"って昔に戻ったみたいに楽しそうでしたね。吉永小百合さんもステージでご挨拶をしてくださって、伯母もとてもうれしそうでした」
その2年後の’14年8月16日、和子さんは92歳で、その波乱の生涯を閉じた。
「今回、伯母の人生をたどった『太陽がくれた歌声』を出版するにあたり、40代から80代に及ぶ卒団生の方たちにお話を伺って、驚くべき事実がたくさんわかり、改めて偉大さを実感しました」
和子さんが、ひばり児童合唱団を立ち上げたのは1943年。日本はまさに太平洋戦争のさなかであり、彼女は21歳という若さだった。
東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業した後、"奥村和子"の芸名で流行歌手としてデビューしたものの、戦争によって歌手の道を志半ばに断念した和子さんは、東京・荻窪の実家で近所の子どもたちを集めて、歌の指導を始めた。
「どんなに外で悲惨な戦争が繰り広げられていても、ここでは自由に素直に子どもらしさを発揮しなさい、と。伯母は、そうやってみんなで童謡を歌うことで子どもたちの心を慰め、和ませていたのではないでしょうか」
このころはまだ名もなき歌の会であったが、これが"ひばり"誕生の礎となった。その後、戦況はますます厳しくなり、和子さん一家は神奈川県の足柄上郡山北町へと疎開。そこで"ひばり"は産声を上げる。
「疎開先で伯母は軍需工場に徴用されて、飛行機の部品を削る作業をしていたんですが、とにかく不器用で失敗ばっかり。そこで、工場長が"あなたは歌をやっていたそうだから、昼休みにみんなに歌でも教えてあげて"と、助け船を出してくれたそうなんです」
工場近くの山北駅に、機関車を止めておく機関庫があり、そこが歌の稽古場になった。昼休みになると、早々に弁当をすませて、工員たちが機関庫に集まってくる。工員といってもみな、勤労動員された少年少女たちだ。
当時の世相から彼女が教えていたのは軍歌ばかりだったが、そのひとときだけ彼らは悲しみやつらさを忘れて、夢中になって声を合わせ歌った。
「伯母は、この戦時中にこそ、歌の持つ力を強く実感したのだと思います。それから、疎開先の自宅でも歌を教えるようになったんです」
機銃掃射に怯え、灯火管制の日々の中で、それでも明るくみんなを鼓舞し、笑顔を絶やさない和子さんの周りには、つねに歌の輪が広がっていった。
「卒団生の方たちが必ず伝えてくださるのが、伯母の笑顔なんです。アハハハッと大きな声で豪快に笑う、その笑顔が今でも心に焼きついていると、みなさんが言いますね」
山深い山北町で、合唱団は実に100人もの大所帯となっていき、終戦後は、NHKラジオの学校放送にも出演するようになる。子どもたちを連れ、朝一番の列車で東京・内幸町の放送局へと通う日々が続いた。
また、戦後の荒んだ人々の心を癒した映画作品にも、合唱団は大いに貢献した。ひばりの子どもらしい歌声が評判を呼び、映画の現場でも引っ張りだことなっていったのだ。
最も彼らの声を気に入っていたのが、木下惠介や小津安二郎など、昭和の名作と呼ばれる作品を多く撮り続けた監督たちだ。
「中でも、木下監督の『二十四の瞳』は、全編でひばり児童合唱団の歌声が使われていて、子どもたちはよく大船の撮影所に通っていましたね」
劇中で何度も歌われる『七つの子』には、思わず涙を誘われる純粋さがある。
「みなさん、ひばりの歌声は聴くとすぐにわかると言われます。発音が明瞭でまっすぐで素直な子どもらしい発声なんです。その伝統は、今でも引き継がれていますね」
山北町で始まった小さな歌の輪は、さらにオリンピックという大舞台へと子どもたちを誘う、大輪へと育っていった。1964年に行われた東京オリンピックの際、選手村劇場でひばり児童合唱団の子どもたちが歌を披露したのだ。
「外国の選手たちをおもてなしする、文化交流が目的だったと聞いています。小さい子どもたちが絣の着物を着て、日本の童謡を歌う姿を外国の方たちは楽しんでくれた。これは、ひばりの歴史の中でも、とても光栄な出来事です」
戦時中から一貫して、彼女が思い描いてきた"歌を通して子どもたちに希望を"という理念が、戦後の復興を象徴するオリンピックで大きく花開いたと言えるだろう。
ひばり児童合唱団はまた、安田祥子・由紀さおり姉妹をはじめ多くの童謡歌手を誕生させてきた。学校の現場で、運動会や学芸会などで使われていたレコードも、実はひばりに所属している童謡歌手が歌っていることが多かった。
また、『文明堂』や『ヤンマーディーゼル』など、誰もが知っているCМ曲を歌ったり、ザ・ドリフターズが司会を務めるバラエティー番組などにも多く出演したりと、まさに、昭和のエンターテイメントを陰で支えていたと言っても過言ではない。