11月20日、最後まで相撲界を見守って旅立った北の湖親方。日本相撲協会の理事長として威厳のある姿が印象に残るが、現役時代は“憎らしいほど強い”と言われた、別格の暴れん坊だった。
「30回以上優勝している白鵬や大鵬と比べると優勝回数こそ24回と少ないですが、北の湖関は記録にあらわれない強さがありましたね。勝ちっぷりが猛々しく、相手を蹴散らすような感じでした」
相撲ジャーナリストの中澤潔氏は、横綱時代の北の湖がケタはずれの強さを持っていたと語る。大相撲の歴史にはほかにも伝説となった名力士が数多くいた。中でも、69連勝という金字塔を打ち立てた双葉山は、今も史上最強の名横綱と言われている。
連勝は、昭和11年から始まった。江戸時代の大横綱・谷風の持つ63連勝の記録を約150年ぶりに塗り替えた。昭和14年の初場所ではアメーバ赤痢で体調不良だったのを押して出場したものの、4日目に安藝ノ海の外掛けに屈した。館内には座布団が飛び交い、新聞は号外を発行。
「安藝ノ海は双葉山の右目がほとんど見えないのを知っていて、弱点の右足を狙ったと言われています。双葉山は言い訳をせず、“いまだ木鶏たりえず”とだけ言ったそうです。木彫りの鶏のように泰然として動じないのが力士の理想で、まだ自分がその水準に達していないことを反省したんですね」(スポーツ紙記者)
双葉山はこの後も29連勝、21連勝、36連勝を達成しており、まさに昭和の大横綱の名にふさわしい名力士だ。
戦後は土俵の確保にも苦労する困難な時代を迎えたが、“栃若時代”を迎えて相撲人気が盛り上がる。栃錦と初代若乃花が昭和26年の初取組から毎場所、熱戦を展開し、ライバル対決が注目された。栃錦が昭和30年、その3年後に若乃花が横綱に昇進して、2人の取組が文字どおりの最強力士決戦となる。
「栃若にはほかを寄せつけない強さがありました。戦後すぐの復興期で食べ物がなく、生活そのものも非常に厳しい時代でした。その中で、相撲を人気スポーツに押し上げた功績は本当に大きいですね。栃錦の相撲はひと言で言うと“潔い”。技のキレがよくて、勝負どころを絶対に逃しませんでした。
なんとなく勝つのではなくて、“あっ、だから勝つんだな”というハッキリしたものがありましたから。負けるときも最後まで粘るというのが日本人好みだったんです。栃錦は13歳で力士になって、相撲協会の定年である65歳まで50年以上も角界に身を置いた唯一の人なんです」(前出・中澤氏)
対戦成績は栃錦の19勝15敗で、実力は拮抗。引退後は栃錦が春日野親方となり、昭和49年に理事長に就任。昭和53年に二子山親方となっていた若乃花に後を託した。
「現役時代はライバルでしたが、親方となってからはタッグを組んで相撲協会の改革に尽力しました。二子山親方は実弟の貴ノ花を大関に育て上げ、その息子2人が横綱貴乃花と若乃花になりました」(前出・スポーツ紙記者)