美化されがちな日本の“家族信奉”を見直す内容で話題を呼んでいる『家族という病』(幻冬舎)。“子離れができない親は見苦しい”“夫婦でも理解し合えることはない”などのテーマで家族間に悩みを持つ人を勇気づけ、現在43万部のベストセラーになっている。そこで、著者の下重暁子さんに、本を書くに至った理由、家族との傷つかない距離の取り方を聞いてみた。【前編】
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■家族そのものを美化しがちな社会

「大したことを書いたつもりはないので、なぜこんなに反響があるのか、不思議でならないの。だけど世の中の人って、よっぽど何かに縛られて暮らしているんだなと思いました。そんなもの捨てちゃえば、ラクに生きられるのにね」

 よく通る声で小気味よく話すのは、作家の下重暁子さん。今年3月に上梓した『家族という病』(幻冬舎)は、現在43万部のベストセラーとなっている。本書は、“家族”という絆に縛られ“個”を失いがちな現代社会のあり方に疑問を投げかけた1冊だ。

「今は理性をなくした家族が非常に多いですね。親も子も本当のことを知るのが怖いからぶつかりあうのを避けている。お互いに甘えて依存しあっているでしょう。そこは“情”の世界でしかなく“理性”が働いていないんです。そうなると、他人ならば抑えられることが家族だと許せなくなってしまう。その結果として“親殺し・子殺し”のような悲劇が起きているんです」

 現に、家族間での殺人事件は増加している。それは家族そのものを美化しがちな社会にも問題があるという。

「“家族とは温かいものだ”“家族とは固い信頼で結ばれているもの”といった考え方が当然のようにありますよね。そのために本当はうまくいっていないのに、無理やりよい家族を演じている人たちもいる。しかし、家族といえどもそれぞれ個人なので、違った考えを持っている。だから摩擦が生じて親子ゲンカやきょうだいゲンカが起きるのが普通だし、確執が生まれるのも何もおかしくないんです」

■憧れの父から許せない父へ

 そもそも下重家自体、確執がある家だった。それは本の中でも赤裸々に語られている。

「うちは親子間の確執が大きかったですね。私も両親に反発していました。特に父に関して許せない気持ちが強くて、小学3年生のときから父が亡くなるまで避けていました」

 下重さんは戦前の1936年、栃木県生まれ。幼いころ、父は憧れの存在だったという。

「毎朝、軍服に長靴をはいて、馬にまたがって出かけていくんです。マントを翻しながら去っていく姿が、とてもカッコよかった。だけど戦後“公職追放”となって、民間の仕事をしたもののうまくいかない。もともと絵描きの夢をあきらめて軍人になった人ですから、このときに父は2度目の挫折を味わったのです」

 苛立つ父を思いやることもできない。それどころか“落ちた偶像”に成り果てた姿を見るのが嫌で、顔を合わせることすら避けるように。一方、母からは“暁子命”と言わんばかりの愛情を注がれた。その理由は下重さんの出生に関係する。

■“落ちた偶像”の父に従う母への反発

「両親は再婚同士で、父には連れ子がいました。それが4歳上の兄です。母は兄をかわいがるためにも自分の子を、それも女の子が欲しいという強い意思のもとに私を産んだんですね。だから、私のためには何でもしてくれました。でも、その愛情がうっとうしくて仕方なかったんです」

 自分の能力を生かしていくこともできたのに家庭におさまる生き方を選んだことも、納得ができなかった。

「医者と学者になった母の2人の弟たちからすれば、きょうだいの中でいちばん母が優秀だったと。父と一緒になった理由も、軍人は嫌だけど絵を描く人だから結婚したと言っていたんです。それなのに現実には完璧に“軍人の妻”をやってのけていた。そういったところも嫌でしたね」

“落ちた偶像”の夫に付き従う妻。反抗期でもあり、中学生の兄が父の考えに疑問を抱き始めた。

「ある日、父と兄が怒鳴り合う声が聞こえました。見ると男2人がつかみ合いのケンカをしていて。殺気立っていて怖かった。とりなした母が父から殴られることで場はおさまりましたが、凶器がそばになくて本当によかったです」

■家族の確執は生まれて当然

 これをきっかけに兄は東京の祖父母のもとへ。その後も両親の関係は変わらず、それに違和感を覚えた下重さんも、高校進学を機に家を離れる。

「あのまま兄が家にいたら、事件とまではいかなくても何か起きていたでしょうね。私も下宿先から進学校へ通って、ボーイフレンドをつくって楽しく過ごしていました(笑い)。もしも家にいたらダメージを受けて、そんなふうには過ごせていなかったと」

 自身の経験をもとに、ある程度の年齢になったら親子は離れて暮らすべきだと、下重さんは力強くいう。

「最近のいわゆる“友達親子”の関係には欺瞞を感じますね。本来、人間は上にいる存在を目障りに思うもの。親なんていちばん身近にいる、批判の対象以外の何者でもないじゃないですか。それをどう乗り越えていくかで、子どもは大人へと成長するんです」

 下重さんは早稲田大学を卒業すると、’59 年にアナウンサーとしてNHKに入局。出版社や新聞社を目指すも当時は女性の募集がなく、“食う”ための就職だった。9年間の勤務の後、フリーキャスターを経て作家へと転身。両親は活躍を喜んだが、娘にとってはありがた迷惑だった。

「父が亡くなる直前に初めて入院先の病院へ行ったら、枕元に私が載っている新聞記事が貼ってあってね。それを見たときはゾッとしましたよ。父にとっては愛情表現なのかもしれないけど、私は父の優しさを見たくないんです。私自身の父に似ている部分が確認されるからです。それに、人に期待することが嫌いなので向こうから期待されるのも負担に思うんです」