わずか1年2か月の、新婚生活の甘い思い出とふたつの小さな命を残し、過酷な戦場で散った─。そんな亡き夫にいま、恋文を書き続ける女性がいる。まるで傍らにいるかのように、語りかけるように何気ない出来事を、喜びを、そして感謝を綴る。
《流れる雲よ、心あらば私の思いを伝えておくれ─》
 
これは、戦争で最愛の夫と引き裂かれ、それでも力強く戦後を生き抜いた、ひとりの女性の物語─。〈人間ドキュメント・大櫛ツチヱさん 第1回〉

《貴方(あなた)!! 貴方!! 貴方!!
 何回も呼んでみたいのです。
 貴方と呼ぶと貴方と過ごした一年二カ月の新婚時代に戻るのです。
 貴方の温もりが蘇ってきます。有難う! 有難う!》

 あふれる思いを手紙に綴っているのは、御年94歳の大櫛(おおくし)ツチヱさん。太平洋戦争で亡くなった、当時27歳の夫にあてた恋文だ。

 取材で訪れたのは、福岡県糸島市の自宅。

「まあ、遠いところから─。ありがとう」

【写真】手紙を書く指定席だという文机の前で
【写真】手紙を書く指定席だという文机の前で

 情熱的な手紙とは裏腹に、ツチヱさんは穏やかな笑顔で迎えてくれる。白壁のしゃれた二階屋は、11年前、長男との同居を機にバリアフリーに建て替えた。30畳はありそうな広々としたリビングには、窓際の一角に、古い文机とイスが置かれている。

「ここが手紙を書く指定席」

 亡き夫、仁九郎(にくろう)さんにあてて手紙を書き始めたのは、昨年3月のことだ。そのきっかけが、子どものように純粋で微笑ましい。

「こうやって窓から空を眺めていたの。そうしたら、真っ青な空に、白い雲がポッカリ浮かんでいてね。雲が流れるのを追いかけていたら急に夫のことが湧き上がって、気づくと、貴方! 貴方! と、雲に呼びかけていました」

 終戦後、大黒柱の夫を亡くし、無我夢中で生きてきた。そんなツチヱさんは、90代を迎えた今、穏やかな老後を過ごしている。

「時間にも気持ちにも、余裕ができたからでしょうね。ふっと開いたのね。夫との思い出が詰まった“宝箱”が」

 とたんに、当時の思いがよみがえり、夢中でペンを走らせていた。それから毎日、夫にあて、手紙を書いている。

《今日は立冬、冬本番に向かいます。(略)貴方がボーナスで買ってきて下さったあのショール、今も大切にしています。私の肩にやさしくかけて、ギュッと抱きしめてくれましたね。体がポッと熱くなりました。貴方!! 有難う》

《今日はとても良い天気で洗濯物が気持良く乾きました。(略)出征される貴方を送ったプラットホーム。鮮明にパノラマのように思い浮かびます》

「昔のことやら、その日にあったことも報告します。そうするとね、夫が横にいるような、ふたりで話している気になれるから」

 夫の話題になると、とたんに笑顔がこぼれる。その表情から、いまも色あせない愛情の深さが見て取れる。

【写真】使っていない、いただきものの手帳に、湧き上がった亡き夫への思いを綴り始めた
【写真】使っていない、いただきものの手帳に、湧き上がった亡き夫への思いを綴り始めた

 ツチヱさんの恋文は、新聞各紙に取り上げられ、NHK『おはよう日本』でも紹介された。今年6月に『70年目の恋文』を出版してからは、取材の依頼が引きも切らない。

 しかし、生活が一変したかと問えば、「別に、変わらんねえ」と、まるで他人事(ひとごと)のよう。かわりに、「変わったのは僕のほうですよ。運転手兼マネジャーですから」と、同席していた長男の勝彦さん(72)が笑う。

 ツチヱさんがメディアに取り上げられるのは、戦後70年の節目を迎えたこと、安全保障関連法案のゆくえに国民の関心が高まっていることもあるだろう。だが何より、ツチヱさんの一途な生き方に、多くの人が心を打たれるからに違いない。

 これは、戦争で最愛の夫と引き裂かれ、それでも力強く戦後を生き抜いた、ひとりの女性の物語─。

■赤紙に奪われた幸福な新婚生活

 1920(大正9)年、福岡県福岡市で生まれた。

「小さいころから、知りたがりの、したがり屋。とにかく好奇心が旺盛で、女学校時代もピアノに弓道、水泳と、何にでも挑戦していました」

【写真】県立筑紫高等女学校1年生(12歳)のときに両親、弟たちと。ツチヱさんは友達も多く、学校でもリーダー的な存在だった
【写真】県立筑紫高等女学校1年生(12歳)のときに両親、弟たちと。ツチヱさんは友達も多く、学校でもリーダー的な存在だった

 小学校の教師だった父親はそんな娘の性格を見抜いてか、「これからの時代、女性も職業を持つべき」と、師範学校への進学をすすめた。しかし、ツチヱさんは、良妻賢母になる道を希望した。

「両親はとても仲がよくて、父のバイオリンに合わせて、母がマンドリンを演奏するような家庭でした。だから、憧れていたのね。夫を支え、家庭を守る母の姿に」

 父親の意向で、教員免許は取得したものの、女学校を卒業後は、福岡市内にある名門の花嫁学校、『幸祝女塾(こうしゅくじょじゅく)』に入塾。2年かけて、和裁、洋裁、生け花、和歌に古典まで、知識と礼儀作法を厳しく仕込まれた。

 当時の福岡では知らぬ人がいない、『幸祝女塾』出身に、この美貌である。塾を卒業して2年後には、小学校時代の恩師のつてで持ち込まれた縁談が、とんとん拍子にまとまった。

 その相手が、当時、税務署に勤務していた仁九郎さんだった。

 結婚式の当日、花嫁控室にいたツチヱさんは、紋付き袴姿の男性が廊下を通るたび、「あの人かしら? とドキドキして見ていた」と笑う。それもそのはず、仁九郎さんとは、この日が初対面だった。

【写真】ツチヱさんと仁九郎さん。三三九度で初めて仁九郎さんと顔を合わせたとき、「自分はこの人の妻になるために生まれてきたんだ」と直感したのだそう
【写真】ツチヱさんと仁九郎さん。三三九度で初めて仁九郎さんと顔を合わせたとき、「自分はこの人の妻になるために生まれてきたんだ」と直感したのだそう

 ところがツチヱさん、言葉を交わしたとたん、瞬く間に恋に落ちてしまったのだ。

「まず恋人から始めよう」

 それが、仁九郎さんの最初の言葉だった。

 こうして、1941(昭和16)年10月、2人は夫婦になった。ツチヱさん20歳、仁九郎さん24歳のときだ。

 新居は夫の職場に近い、福岡市内の練塀町(ねりべいちょう・現在の桜坂)にある長屋。

「長屋といってもけっこう広くて、1階には12畳の茶の間と炊事場。お2階にも2部屋あったの。だから、お家賃が当時で20円もしたんです」

 平日は、「いってらっしゃい」と夫を送り出すと、家事を片づけて市場に買い出し。夕飯をこしらえ、首を長くして夫の帰りを待った。休日には、映画を見に行ったり、部屋でレコードをかけてダンスを踊ったり。

「よく2階の出窓に夫と腰かけ、手をつないで歌を歌いました。淡谷のり子の『別れのブルース』や、東海林太郎の『国境の町』。きれいな夕焼けを眺めながら」

 結婚の2か月後には、戦争が始まっていた。

 戦火は身近に及んでいなかったものの、「いつどうなるかわからない。今日の幸せを大切にしよう」と、夫婦で話したという。

 結婚の翌年、1942(昭和17)年8月には、長男・勝彦さんが誕生した。

「子煩悩な人で、それはかわいがってくれました。仕事から帰ると、“勝彦、勝彦”と抱っこして、よくお風呂にも入れてくれてね」

 親子水入らずの生活は、平凡でも、このうえない幸せを与えてくれた。

 しかし、その日は突然訪れた。同年12月、仁九郎さんに召集令状が届いたのだ。

「覚悟はしていたものの、まさかこんなに早く赤紙が来るとは……。涙が止まりませんでした」

 結婚から、わずか1年2か月後のことだった。

※以下、中編に続く(本記事は『週刊女性PRIME』用に3編に分けて再構成しています)
〈中編〉94歳の恋文が話題――ようやく届いた夫の手紙には“武器をくれ”と
〈後編〉94歳の恋文が話題――結婚50年の節目の慰霊巡拝、最愛の娘の死

取材・文/中山み登り 撮影/佐々木みどり