70年前、国民は戦争から解放された。肉親や友人ら大切な人を失った。なぜ、また戦争に怯えなくてはならないのか。私たちは戦争の怖さを体験者から学んだはずなのに……。あの夏、何があったのか、戦争体験者に聞いた。
◆「目の前に仲間11人のバラバラ遺体。頭は真っ白で泣く余裕はなかった」
ーー猪熊得郎さん(神奈川・横須賀市 元少年兵)
「普段は“戦争万歳、万歳”と言っている大人たちも、いざ子どもが兵隊に行くとなると賛成するはずがありません。でも“戦争に行くな”とは言えないから“20歳の徴兵まで待て、なぜ急いで少年兵になるんだ”と、父にはひどく説得されました」
1944年4月、中学を卒業したばかりの猪熊得郎さん(86)は、3人の兄に続けとばかり“俺も戦争に行かなきゃ”と気持ちがはやっていた当時の自分を、「戦争しか知らない子どもだった」と回想する。
「父親の説得に聞く耳を持たず、3日間絶食などのハンストをしました。4日目に父が“わかった、仕方ない。でも命だけは大切にしなさい”と折れました。その時のね、親父の寂しそうな顔といったら……。いまでも忘れられませんね、最大の親不孝ですよ」
’28年、東京・日本橋で、猪熊さんは生まれた。「小学3年生のときに中国との戦争が始まり、中学1年のときに太平洋戦争が始まりました」というきな臭い時代だったが、
「“時代のせい”という言い方はしたくない。流行に乗ったのではなく、銃弾が飛び交う戦地に自分は飛び込んでいくのだ、ということを考えたうえで決断しました」
と自ら陸軍特別幹部候補生に志願したことを振り返った。
毎日毎日、怒鳴られ、どつかれ、ひっぱたかれる軍隊生活。16歳で初めて戦闘を体験した際、「“ああ、戦争は殺すか殺されるかなんだ。やらなければ、やられる”ということを骨身に感じました」という。仲間11人が、目の前で戦死したときのことが、今も脳裏から離れない。
「壕内の無線の送信所の入り口に、米軍の爆弾が落ち、中にいた全員が死亡。私は砲弾を避けながら、送信所に向かっているところでした。あたりには、遺体がバラバラに散らばっていました。腕やら首やら、胴体やら……。頭は真っ白で怖いというよりパニック。無我夢中のまま遺体を集めました。涙は出なかったですね。そんな余裕はなかった」
’45年4月に配属された満州新京の部隊では、日本政府のうそを目の当たりにした。
「日本国内では“満州は5民族が仲よく暮らす楽園”と宣伝されていましたが、とんでもない。日本軍はふんぞり返りわが物顔。略奪、暴行、強姦を繰り返していました。特に慰安所の周りはひどかった」
という猪熊さんは、当時16歳の少年だった。慰安婦を買うことに抵抗したところ、理不尽な制裁が待ち受けていた。
「“貴様、上官を侮辱する気か”と、烈火のごとく怒鳴られました。“女も買えないやつに敵が殺せるか”とぶん殴られ、蹴飛ばされ、踏みつけられ、血だるまになりました」
終戦後はソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。氷点下30度、足は凍傷になり、食料はなく、毎日バタバタと人が倒れ、6人に1人が亡くなった収容所生活。
「医務室の前に、遺体が並べられますが、朝になると裸になっている。生きているやつが身ぐるみ剥(は)いで、パンに変えているんです。同部屋の戦友が下痢をしていると、“明日も治らなければ、こいつの飯も食べられる”と心の中で願っている。常に励まし助け合ったなんていうのは捏造。人を助けていたら、自分が死ぬという過酷な状況でした」
生きるか死ぬかの瀬戸際で、空腹の兵士はやがて、腹いっぱい食べて威張っている上官を引きずり下ろすという民主運動を起こしたという。
約2年にわたる捕虜生活の末、’47年12月に京都・舞鶴港に帰国。父と、人間魚雷の特攻隊員になった三男の死を知らされたのは、自宅に戻ってからだった。
少年兵への志願を許してくれたときの父の寂しそうな表情を戦地で思い浮かべながら、“何としても生きて帰って親孝行しなければならない”という気持ちをよりどころに忍耐してきた猪熊さん。現実はあまりにも残酷だった。
“残りの家族と助け合って生き延びていこう”という思いを支えに戦後の復興を生き、10数年前からは戦争の真実を包み隠さず伝える「語り部」活動に、心血を注いでいる。
「戦争は、日本が抱えた負の遺産です。被害者としても加害者としても、反省することばかりです。(安保法制を進める)安倍総理にも若い人にも、歴史をきちんと勉強して、間違った道を選ばないようにしてほしい、いや、しなければならないのです」
少年のような強い眼差(まなざ)しで、猪熊さんは語気を強めた。