この夏、車椅子の生活になって初めて飛行機に乗った。

 発病する前は、1か月に10回ぐらい、年間に100回ぐらい国内外で乗っていた。そのほとんどが仕事。毎週、広島や大阪のテレビやラジオの仕事に何十年も通っていた。

 新幹線も時には乗っていたけれど、ボクは飛行機が好きだった。新幹線も年を追うごとに速くなっていたから、友だちに「羽田に行ったり、広島空港から市内に出ることを考えたら、新幹線のほうがはやいだろ?」とよく言われた。

 ボクは決まって「いや少しだけ飛行機がはやい」と言って、応戦した。それぐらい、飛行機が好きだったのだ。

 東京からの行きは、決まって左側2Cか5Cという通路側の席を取っていた。左側だと箱根の山々が最初に見え、そのあと、富士山が見える。窓側にはどなたかが座っているわけで、ちらっと覗くだけだが、それでいい。

 雲の合間から富士山の頭が見えるだけで、なぜか意味もなく安心する。まあ、いつも夜中まで飲んでいて、滑り込みで空の上にいるのだから、寝ていることのほうが多かったかもしれない。

 そう、飛行機は寝ていても絶対乗り過ごさないところがいい。着いて寝ていたら、起こしてくれる。新幹線ではボクのことだ、福岡まで行ってしまう心配があったから。

 そんな感じに飛行機と切り離せない生活をしていたボクは2011年9月、飛行機の上でクモ膜下出血に見舞われた。

 広島からの帰りの便だった。羽田に到着すると救急車が待ち受けてくれていて大学病院に向かった。

 そのとき、飛行機に乗り合わせていた、見ず知らずのお医者様が応急手当をしてくれたのだという。いまでもどなたかはわかっていないが、感謝の言葉しかない。

 それから初めての飛行機だった。

 その運び込まれ手術した病院で、今回、飛行機に乗るにあたって、検査もした。雑誌の企画とはいえ、娘との二人旅だったから、念には念を入れた。

「娘との沖縄二人旅」ということと「車椅子で旅をする」。なかなか難しい条件の旅に思え、家族には「無理じゃないの?」、そう言っていた。

 でも、『通販生活』という雑誌の企画で、バリアフリーのいろいろな旅をさせてくれるという。バスの旅や飛行機の旅、ホテルに泊まるなど、バリアがあるボクが、どうすれば満足いく旅ができるか、そんな企画だ。

 車椅子のボクだって、飛行機に乗って娘と二人で普通に旅行に行けるかどうか試そうではないか!と重い腰を上げた。

 実際、車椅子になったボクは出かけるのも迷惑になっちゃいけないとかいろいろ考えて、旅なんて……そう思っていた。

 けれど、ボクはともかく、それを家族が望むなら、旅も悪くない。そう思うようになった。

 雑誌社の方は「神足さんがやりたいことや、行きたいところを普通に車椅子で体験して、お身体が不自由な場合、どうなのかを確かめてみてください」。そういってくれる。

 第一に、20歳になった娘と南の島に旅行をしたかったのだ。

 娘との二人旅なんて、一生に一度あるかないかのことだろう。

 今回は旅行会社もオーダーメイドの介護旅行ができる、専門の代理店にお願いした。身体が不自由な方や健康に不安がある方専門のトラベルヘルパーも付いてくれる(この介護つき旅行のことはまた今度、詳しく)。

 だから、娘と二人でも、トイレの問題やお風呂も大丈夫だし、海に入りたいと言えばトラベルヘルパーさんが何でも手伝ってくれる。

 そして、飛行機はどうだったかといえば……バリアを持ったボクにも快適な乗り物だった。

 バリアがあると言っても本当に千差万別。足の不自由な御仁が飛行機に搭乗拒否されたなんてことも聞いたこともある。空港に着けば、専用のカウンターで手続きする。ここで自分の車椅子とはたいていの場合、お別れだ。ボクの場合、あまり車椅子は選ばないので大丈夫だが、これでなければという人にはこれが問題だとも聞く。

 ボクの場合に限って言えば、空港専用の車椅子に乗り換えて、係員が搭乗口まで連れて行ってくれた。この車椅子は飛行機に乗り込む直前で外輪を外す。飛行機の通路が通れるようにするためだ。

 壁の前の空間が広い席に通される。

 機内用の車椅子で機内トイレにも行けるとのこと。よく見たら、トイレの前にカーテンがあり、広い空間が確保されていた。

 年間100回乗っていても、気がつきもしなかった。

 沖縄に到着後、乗り換えて宮古島に向かった。

 すべてプロフェッショナルな係員がやってくれる。

 あまりにスムーズで、いままで心配していた億劫さはまるで感じられない。娘との二人旅は、海にもプールにも行き、星空を見にも行った。

 娘と二人で出かけた沖縄の旅はバリアを忘れるほどのゆったりとした優しい時間が流れていた。

 帰りの宮古島から那覇空港への便はタラップだったので、専用のリフトに乗って、飛行機から降りた。

 こんなに飛行機がバリアに優しい乗り物だということに、初めて気がついた。こんな身体になってしまったが、まだまだやれることはたくさんある。どんなことができるのか、いろいろ試そうではないか!

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那覇空港からの羽田便はタラップでの搭乗だったため、リフトバス(パッセンジャーボーディングリフト/リフトが付いた空港内専用車)を利用した。
那覇空港からの羽田便はタラップでの搭乗だったため、リフトバス(パッセンジャーボーディングリフト/リフトが付いた空港内専用車)を利用した。

写真提供/『通販生活』(カタログハウス) 撮影/在津完哉

〈筆者プロフィール〉

神足裕司(こうたり・ゆうじ) ●1957年8月10日、広島県広島市生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。学生時代からライター活動を始め、1984年、渡辺和博との共著『金魂巻(キンコンカン)』がベストセラーに。コラムニストとして『恨ミシュラン』(週刊朝日)や『これは事件だ!』(週刊SPA!)などの人気連載を抱えながらテレビ、ラジオ、CM、映画など幅広い分野で活躍。2011年9月、重度くも膜下出血に倒れ、奇跡的に一命をとりとめる。現在、リハビリを続けながら執筆活動を再開。復帰後の著書に『一度、死んでみましたが』(集英社)、『父と息子の大闘病日記』(息子・祐太郎さんとの共著/扶桑社)、『生きていく食事 神足裕司は甘いで目覚めた』(妻・明子さんとの共著/主婦の友社)がある。Twitterアカウントは@kohtari