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マニラの児童保護施設を訪問し歓迎を受けられた('62年11月)

 半世紀以上前の1962年11月、フィリピン訪問を前に記者会見で、皇太子妃時代の美智子さまは以下のような抱負を述べられた。

「以前、(フィリピンの)戦争未亡人会の方が日本に来て、靖国神社を参拝したことを覚えています。(略)どんな生活をしているか、うかがってみたい」

 皇太子(当時・浩宮)さまが、まだ2歳のときだった。

 今回、1月26日から30日の予定で天皇陛下に従い、そのとき以来のフィリピンを公式訪問される美智子さま。

「対比(フィリピン)賠償の一部がフィリピン政府から未亡人会へ割り当てられ、それを有効に使うために(日本に)みえたともうかがっており、これがどうなっているかもお聞きしたいと思います」

 当時の美智子さまはこうも述べ、第2次世界大戦で夫を失ったフィリピン人女性たちを、気にかけられていた。

 宮内庁OBが当時を振り返る。

「フィリピンを舞台にした米軍との激戦では、日比合わせて160万人以上の死者が出たといわれ、終戦から20年もたっていなかった当時、対日感情は複雑なものがありました。

 両陛下が訪問予定だった現地の大学で、デモが予定されているとの現地報道もありましたね。

 しかも昭和天皇の名代(代理)としてのこのときのご訪問は、10か月前に予定されていたものが、陛下の発熱で延期。その後もフィリピンの政情不安で延期されたこともあって、ご帰国まで緊迫した雰囲気がありました」

 結局、そんな心配は杞憂に終わり、現地で日本の若きプリンスとプリンセスは大歓迎を受けられ、フィリピンとの親善は深まることになった。そのときから53年余り─。宮内庁担当記者が、今回の経緯について解説する。

「両陛下は昨年の戦後70年を節目と考え、一昨年から激戦地だった沖縄から慰霊の旅を続け、広島や長崎などを訪問し、昨年は念願のパラオでも花をたむけられました。

 そんななか、昨年6月にフィリピンのアキノ大統領が国賓として来日しました」

 この記者が続ける。

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2歳の皇太子さまを残し、羽田空港からフィリピンへ向けて出発された('62年11月)

「今年は、日本とフィリピンの国交正常化60年になることから、両陛下のフィリピン訪問への招請がありました。

 そこで、国際親善を主目的として、現地で慰霊もされることになりました」

 アキノ大統領との宮中晩餐会では、次のようなお言葉を述べられた陛下。

「先の大戦においては、日米間の熾烈な戦闘が貴国の国内で行われ、この戦いにより、多くの貴国民の命が失われました。

 このことは私ども日本人が深い痛恨の心とともに、長く忘れてはならないこと」

 今回の5日間の旅では、歓迎式典や晩餐会のほか、フィリピンの戦没者墓地に供花し、在留邦人らと面会の予定も。

 マニラからヘリコプターで、カリラヤ地区に移動して、日本政府が建てた『比島戦没者の碑』に供花するなど、タイトなご日程になっている。

 これで足かけ3年にわたる陛下と美智子さまの「慰霊の旅」は終わることになるのだろうか─。

「戦後71年の年に両陛下が、フィリピンにいらっしゃるとは思いませんでしたが、鎮魂の旅を今回で終わりにするつもりはないはずです」

 そう両陛下について語るのは、皇室を長年取材するジャーナリストで、文化学園大学客員教授の渡辺みどりさん。

「'05年のサイパン、昨年のパラオ、今回のフィリピンと南方の太平洋地域への訪問が続いてきました。

 次回は、韓国や中国東北部、ロシアのシベリアなど、戦争中のわだかまりが残り犠牲者が眠る国や地域を訪問したい気持ちを持たれているのではないでしょうか」(渡辺さん)

 特に終戦前後に、旧ソ連で拘束された日本兵や民間人が抑留生活や強制労働を強いられたいわゆる「シベリア抑留」では、約57万5000人が抑留され、約5万5000人が死亡したともいわれている。

 美智子さまは'14年10月の傘寿のお誕生日の際に発表した文書で、この出来事について触れるなど、北方で起きた「悲劇」についても心を寄せられている。

 両陛下の海外訪問は政府が決めることで、政治的に微妙な関係にある国もあるので、ご希望がそのまま通るわけではないが、

「慰霊の訪問での過労で倒れても本望だと、お考えになっているのではないかというほど、両陛下のご活動からは気迫が伝わってきます」(同)

 陛下に同伴される美智子さまの次の「慰霊先」は雪と氷に閉ざされた北の大地に移ることになるのだろうか─。