昨年2月、深夜の多摩川河川敷で、わずか中学1年の少年・上村遼太くんが年上の不良グループに惨殺された。主犯格の少年Aに対し検察側は懲役10~15年を求刑。10日には判決が下る。
上村くんが交流していた仲間5人との接触を試みた。仲間うちの2人に声をかけると「あ? んだテメー。マジさっさと消えろ!」と眉間にシワを寄せ詰め寄られ、ひるんだ。
だが相談して取材を受けることに決めたのか、背を向けていた記者を呼び止め話を聞かせてくれた。
「事件後、先生たちは厳しくなった?」と尋ねると、淡々とこう返ってきた。
「学校は何もやってない。見回りも最初だけ。遅くまで遊んでいたら、学校行かなくなるのは目に見えているけど、特に注意もしてこない」
こう答える子もいた。
「親も、俺がどこで何していても何か言ってきたりしない」
全員面識があった少年Aに対しては、「刑務所に入っても、直ると思わない」「出てこないのがいい。またやらかすと思う」と危険性をぬぐえない。
赤いパーカーに迷彩ベスト、着崩した学ラン、耳にはピアス、手にはタバコと一見、人を威圧するに十分な外見と言葉遣いの5人だが、話してみると親しみやすく、等身大だ。
互いにからかい合いながらも、仲間同士の結束が固いこともわかった。少年Aが上村くんを殴り青あざを作らせたときも、謝らせにAの家に乗り込んだのは彼らだった。
上村くんの命日、今月20日はどうするのかと尋ねると、「現場に行くでしょ」「行くべ」「やることはまだ決めてない」と言葉をかぶせる。
上村くんは今も心の中に生き続け「忘れることはない。ずっと笑っている感じ。ノリもよくてかわいい後輩」「忘れられないっしょ。事件が起きた日、こっちが先に誘っていれば助かったかも、って思う」「学校で後輩を見ると、カミソンが生きていたらこんな感じなのかなって」と思いを口にした。
他者への思いやりも、思考力もある。周りの大人が少し寄り添えば時に見え隠れする彼らの心のトゲは少しずつ丸くなっていくのではないだろうか。
殺害現場は今、祈りの場所に姿を変えている。事件直後、花などを供えに来る人らが後を絶たなかったが、昨年2月と4月、ボヤ騒ぎが起きた。
上村くんの遺族の「献花などを見ると思い出すので」という思いを酌み取った市は昨年7月、看板を立てた。
「整理させていただきます」
だが、今でも献花に訪れる人が毎日いる。彼らへの声かけや清掃などを担当しているのが、前出の有志ボランティアだ。10数人の有志ボランティアが入れ替わりで活動している。前出の50代の女性ボランティアが説明してくれた。
「地元の川崎や東京のほか、いちばん遠い方は神戸。出張のたびに参加されるんです。当初、個々でお参りに来ていたメンバーが徐々に顔見知りになって、ボランティアをするようになりました。主な活動時間は午前10時から午後4時ごろ。毎日の人もいれば、週に1日程度の人も」
子どもとの関係を変えた大人もいる。
「子どもたちと、今日あったことやちょっとした噂話など、積極的に会話をするようになりました。自分の子どもだけじゃなくて、寂しそうにしていたり、夜まで出歩いている地域の子にも働きかけられたらいいんですけれど」(40代主婦)
事件後、上村くんのような子を救いたいと考え、区役所に転職する40代女性は、行政や地域、学校などの取り組みより先に、まずは自分が変わろうと動き始めた。
「話を聞き、守ってあげられる大人がいるべき。大人ひとりひとりが意識して、地域が変わらなきゃ、街はよくならない」
第2の上村くんを出さないための手立ては、私たちの身近なところにある。
取材/山嵜信明と週刊女性取材班