東大経済学部卒業後、旧通産省を経て政治の世界へ……。華やかな経歴を持つ、日本初の女性知事・太田房江さん。実は学生時代は専業主婦願望が強かったというから意外だ。
「私の世代だと、卒業後は家庭に入る女性が多かったですね。私も若いころは、主婦になるのが夢というか、それが普通だと思っていましたから。私は地方(広島)身の普通の女子学生だったんですが、東大で出会った東京出身の女性は、非常に開明的。意識が一歩先に進んでいて、“女性も地域のために、国のために働かなくてはいけない”と言ってくれました。親友です」
ゼミの担当教授の小宮隆太郎先生は、日本で近代経済学を確立した人物。
「留学が長く、アメリカで女性が苦しみながら社会進出し、ビジネスで活躍していく姿をずっと見ていらしたんですね。だから“日本にも必ずそういう時代が来る”と導いてくださいました」
当時は女子学生が民間の会社で、男子学生と同じ扱いを受けるのは、まず無理だった時代。
「国家公務員は一種の資格試験ですから、これをクリアすればどの省庁でも働くことができる。無事受かり、'75年に通商産業省(現・経済産業省)に入りました。通産省の女性の採用は10年ぶりだったそうです」
'75年は、国連が制定した国際婦人年。
「そんな新しい時代だったからこそ、“女性の能力を使ってみよう”と、おもしろがってくれる採用担当者に巡りあえたのかもしれません。私はそんなふうに、新しいことをおもしろがる人を“器が大きい”と称しています。
器が大きい男性が組織にどれだけいるか。それが、女性が社会で登用されていく、大きな原動力ですね。すごい激務でしたけど、通産省では非常に気持ちのいい25年を過ごさせてもらいました」
そんな居心地のいい場所を飛び出して、なぜ大阪府知事になったのだろうか?
「通産省からの出向で岡山県副知事を務めたんですが、そのときに地方政治の大切さを知りました。その後、大阪の経済産業局で働いた経験もあり“大阪のために、関西のために働きたい”と思ったことが、主な理由です」
離婚経験があり、今の夫は2人目。
「最初の結婚では、姑に“家庭に納まりなさい”とずいぶん言われました。それが原因で別れたわけではないんですが、その主人のままだったら、私は今、こうなってない。現在の夫は大阪人で、働いている私を見初めてくれました」
夫と義理の両親に「大阪府知事選に出ようと思います」と話したときの反応とは?
「義父がひと言、“やってみなはれ、ふーちゃん”と言ってくれたんです。『あさが来た』でも舅(近藤正臣)から「やってみなはれ」と言われるシーンがありましたよね? まったく同じです。想像を絶した言葉に、思わず“お義父さん、本当に大丈夫ですか!?”と言ってしまいましたが(笑い)」
義父の言葉が背中を押してくれたと語る。
「義父は“東京で働いているより、大阪のために働いてくれたほうがうれしい”と背中を押してくれました。大阪人特有の“反・東京精神”もあったのかもしれません」
大阪府知事は2期8年務めた太田さん。
「深く入り込むほど、難しい問題も多かった。大阪という名前に泥を塗るようなことをしたら、すぐ“NO!”を突きつけられる。“立ててやったんだから、しっかりやれ”の叱咤激励です。驚きと反省、そして挑戦の毎日でした」
同時に、大阪はこの国の10年先を行く素質のある土地柄だとも実感。
「東京にはないチャレンジ精神があって、新しモノ好き。考える前に一歩を踏み出しちゃう。そんな土地柄が、“びっくりぽん”な女性を育てたんでしょうね」
現在は、参議院議員で、厚生労働大臣政務官を務めている。
「順調に見えるかもしれませんが苦労の連続です。離婚歴もあるし、仕事での挫折もあるし、不妊治療を受けても子どもができなかったことへの悔恨の情もあります。自分の経験から“何が女性の活躍推進にいちばん効くのか”を女性の立場で、生の声で訴えていこうと思っています」
働く女性が不妊治療を受けることは、本当に大変なことだと語る。
「でも、男性には通じない。私には子どもがいないから、今いる日本の子どもたちに“この国に生まれてよかった”と思ってもらえる環境づくりをしたいんです。保育所増設やベビーシッターへの補助、ひとり親家庭の支援など、お母さんたちを応援する仕組みをつくらなくてはいけないんです」
最後に、こう締めてくれた。
「私が“女性だから”という理由でした苦労を、次の世代には繰り越したくない。これからの女性がより働きやすくなるような日本をつくる政治家でありたいです」