父・七宮有三さん(享年77)を思い出しながら話す佐々木里子さん(47)。
「主人が父に娘さんをくださいって挨拶をするとき、娘を手放したくなかったのか、眠くもないのに布団に入って寝たふりするんです。結婚には苦労しました(笑い)」
里子さんは宮城県女川町にある旅館奈々美やを営む両親のもとで育った。楽しそうに仕事をする両親を見て、自身も自然と手伝いをするようになったと話す。母・恵子さん(享年74)は、
「ムスッとしたお客が来たら母は “帰りは絶対笑わせてやろう”って笑顔で言うんです」
24歳で結婚し、女川を離れた。だが旅館の仕事は想像以上にハード。高齢になった親を心配し、転勤族の夫の許可を得て2003年3月に子どもと女川に帰ってきた。
「そこで過ごした8年間は本当に濃密な時間でした。両親には最後まで言えませんでしたが、いつか私が旅館を継ぎたいと思っていたんです」
女川で充実した日々を送っていたが、その日常を一変させるときが訪れた。旅館には、14時は仕事が一段落し、休憩できる時間だった。
「2階の部屋でゆっくりしていたら、大きく揺れました。下では父が調理をし、母は近所でボランティアをしていました。1階に下りると父は割れた食器の片づけをし、私が子どもを迎えに出るところで母が戻ってきて私に“先に行け”って言いました。それが母とした最後の会話です」
子どもを連れ旅館に戻ろうとしたら津波が襲った。なんとか逃げ切り高台に避難すると、女川がすっぽりと水の中に。映画のようだったと話す。
奈々美やには高台に避難所があり、そこに立つプレハブ小屋には食料の備蓄も。母・恵子さんが“先に行け”と言ったのはここだったが、両親の姿はどこにもなかった。
「ああ、もう会えないんだ。直感的にそう思いました。でも子どもがいるから、あえて明るく振る舞いました」
その後、里子さんは両親を探す日々。父・有三さんとは3月中に安置所で再会できた。
「大好きなお酒を持っていきました。顔をふいて、口の中の泥をとって、お酒を含んであげました。なんであのとき逃げなかったのよ! って」
自然と涙があふれ、頬を伝っていた。母を探す傍ら、旅館の再建に動き始めた。被災した同業者と週に1回開く会議で出会ったのは、トレーラーハウスを利用した宿泊施設。
「即、長野まで見学に行き一目惚れしました。国と県のグループ化補助金の申請も、土地の確保も町ぐるみで支援いただき共同経営という形で『エルファロ』をオープンすることができました」
2012年12月末に女川の復興のシンボルとして誕生した。充実した日々を過ごす中、翌年6月に母が見つかった。
「新聞の似顔絵に遺留品が載っていたんです。それでわかりました。このタイミングでなければ私は『エルファロ』をやれていなかったと思います。母がどこかで生きているかもしれないという思いが心の奥底にあったんだと思う」
そう言い終えるとニッコリと笑って続けた。
「もし私の寿命の1年と引き換えにたった10秒でいいから両親に会えるなら聞きたい。私のやってきたことは間違ってないよねって。結婚して出ていった私が継ぎたいってずっと言えなかったけど、里子ならやると思っていたって言ってくれる気がして…」
震災から5年、いまだ復興が進まない土地も多々ある。だが、その中でも『エルファロ』(スペイン語で灯台の意)は復興のシンボルとして、人々を照らし続ける。