'10年6月7日午後2時ごろ、川崎市麻生区の自宅1階のトイレで、中学3年の篠原真矢くん(当時14)が亡くなった。自ら硫化水素ガスを発生させての中毒死。トイレにはいまも目張りの跡が残る。
「毒ガス発生。扉を開くな 即死するので絶対に扉を開かないでください」
そう貼り紙され鍵がかけられていたドアを、母親の真紀さん(49)がドライバーでこじ開けたのは、パートから帰った午後4時過ぎ。
目の前に真矢くんが横たわっていた。そのときのトラウマで、真紀さんはいまでもこのトイレを使うことができず、2階のトイレを使う。
そばに遺書があったが、真紀さんは気がつかなかった。のちに警察から見せられて、初めて確認した。その遺書には《先立つことをどうかお許し下さい》という言葉とともに、《奴等は、例え死人となっても、必ず復讐します(※原文ママ)》と書かれていた。いったい何があったのか。
真矢くんは'95年7月に生まれた。「阪神大震災のときはおなかにいた」と真紀さんは振り返る。幼いころは地元のプロサッカーチームのジュニアに所属したこともあった。
小学4年生になると野球を始めた。きっかけは関西の甲子園常連校出身の隣人に誘われたこと。真矢くんは父親・宏明さん(51)の影響で、幼いころから阪神ファンだった。
中学時代も野球部に所属していた。背番号は「11」。レギュラーではなかったが、「声出し番長」と呼ばれ、ムードメーカーだった。生徒会の役員もやっていた。
正義感は強いほう。「自分が“おかしい”と思ったことには黙っていられない性格だった」と真紀さんは話す。
例えば、小学校の修学旅行で児童が騒いだときに、校長が「お前ら、静かにしろよ」と注意した。騒いだことは児童が悪いが、真矢くんは「校長先生がそんな言葉遣いをしていいんですか?」と抗議。校長はのちに謝罪をした。
一方、何かあったときでも親が学校に行くのを嫌がった。「心配かけたくない」と思うと同時に、「自分で解決したい」と考える子だった。
静岡県に単身赴任中の宏明さんに、その日夕方5時過ぎ、祖母から電話があった。
「真矢が、真矢が……。帰ってきて」
電話では詳細が聞けず、宏明さんは「大ケガをしたのではないか」と思った。自宅に着いたのは午後7時ごろ。警察が来て、規制線が張られていた。 「ただごとではない」そう思っていると、病院から電話があった。
「真矢が亡くなった」
宏明さんは状況を理解できないでいた。病院に行き医師や看護師に、「何とかしろよ!」と食ってかかった。しかし医師は首を振った。宏明さんはその場にくずおれた。
両親は自殺の明確なサインを受け取ることができなかった。あとで知ることだが、携帯電話を持っていなかった真矢くんは、リビングにあったパソコンで自殺のやり方を検索し、硫化水素の発生方法も調べていた。
「亡くなる1か月前に自殺の方法を検索していたようですが、本人は“死”に関して口にしていません。いきなり死なれた感じ」(宏明さん)
硫化水素を発生させる薬剤は5月29日に買っている。前日は真紀さんの誕生日。
「次の誕生日は真矢だね」と問いかけると、「俺はイチゴのケーキがいいな」。その一方で「お母さんは、7、8日って仕事?」と聞いていた。亡くなった7日は月曜日で修学旅行の代休。真紀さんが仕事で不在なのを確認したのだろうか。
硫化水素は猛毒だ。自殺の発見者にも危険性がある。だからこそ、真矢くんは「扉を開けるな」と貼り紙していた。しかし、見つけた真紀さんにそんな余裕はない。ガスを発生させるバケツを真紀さんはマスクもせず、風呂場に移した。救急車の中では真矢くんの身体をさすっていた。
真矢くんは遺書に《俺は、『困っている人を助ける・人の役に立ち優しくする』それだけを目標に生きてきました。(略)でも、現実には人に迷惑ばかりかけ、A(※原文では友人の実名)のことも護れなかった。(略)俺は友人をいじめたB、C、D、E(※同じく実名)を決して許すつもりはありません》と友人をいじめていた4人を名指しした。
「2年生のとき、友人がいじめられていることは聞いていました。でも亡くなったのは3年のとき。(終わっていると思ったのに)真矢の中ではいじめは終わっていなかった」
宏明さんは出棺のとき、「絶対、仇をとってやる!」と叫んだという。
何があったのかを知りたいと両親は学校へ出向いた。学校とのやりとりは当初、「不毛に感じた」と宏明さん。同席していた市教委の職員2人は発言もない。その後、「調査委員会を作りました」と事後報告された。自分たちの知らないところで動いていることに不安を覚えた。
真矢くんが亡くなって8日後の6月15日、学校や保護者、市教委、地域住民、有識者からなる調査委が設置された。当時はいじめ防止対策推進法がなく、調査委設置義務はないが、市教委は毎日のように両親のもとへ通った。
「こっちはもう戦闘モード。市教委がまともな調査をしないだろうと思っていました」
と宏明さん。「報告書を四十九日には持ってこい!」と怒りを持って発言したこともある。すると、市教委側は「そんなに短い間にはできない」と言ってきた。きちんと調査しようという姿勢に、少しずつ心を開いていった。
聞き取り対象は100人に及んだ。調査委は会合が開かれるたびに、両親に丁寧に報告をした。四十九日となる7月24日には中間報告が出た。最終報告は約3か月後、9月4日に公表された。
報告書によると真矢くんと友人へのいじめが中学2年生の5月ごろから翌年の3月まで続いた。しかし3年生になりクラス替えがあり、いじめはほとんどなくなっていた。
ただ、加害生徒から、ほかの生徒へのいじめが起きていた。いじめのターゲットが変わっただけだった。
真矢くんへのいじめの内容は、背中をたたく、頭をはたく、肩を殴る、馬乗りになる、ズボンや下着を下ろす、名前を呼び振り向いた瞬間に頬をたたく、プロレスごっこと称して壁や床に押しつける、といったものだった。
真紀さんは「報告書を見るまで、真矢へのいじめは知らなかった」という。
「いじめられていた友人と加害生徒のうち2人はリトルリーグにいて、そのいじめが学校に波及しました。中2のころ、真矢は“あんないいやつをいじめるなんて”と言い、いじめられている友人をかばっていました」
亡くなる直前の5月。いじめがおさまらないため、我慢の限界だったのか、真矢くんは加害生徒のひとりの教科書をカッターナイフで切り刻んだ。その後、名乗り出て、費用を弁償することになった。
担任の40代の女性教師は電話で「積もり積もったものがあったのでは」と真紀さんに伝えた。
「気持ちはわかるけど、やり方を間違えちゃったね。どうして本人に直接言わないの?」 「お母さんは偽善者だ。俺が全部悪い」
この“教科書事件”で真矢くんは不利な立場になる。加害生徒たちから執拗な呼び出しを受け、詰問を受けた。
教科書を弁償した後、「あいつらに何を言っても無駄だ。形式だけ謝っておいた」
と真矢くんは答えた。
「担任からの対応が電話だけというのもおかしいと思いますが、私がもっと酌み取ってあげればよかった。“どうしてわかってくれないの?”という気持ちだったのではないでしょうか」(真紀さん)
報告書では、加害者がいじめをした理由は書かれていない。自殺との「因果関係は調査対象外」だった。ただ、「校内に『いじめ』の状態があったこと」が「自殺の外的要因のひとつ」として認めた。
「自分がいじめられているとの告白がありませんでしたが、いじめられている友人の話はしていました。それは黄色信号ではなく、赤信号だったんです」(真紀さん)
正義感が強かったからこそ加害者によるいじめが止まないことが許せなかったのだろう。真矢くんの部屋のカレンダーは自殺する2か月前の4月から何も書き込まれなくなった。重圧に心をふさがれていたのかもしれない。
子どもが自殺した後の調査委員会の報告書に対し、遺族は不満を口にすることがある。しかし、宏明さんと真紀さんは結果に納得した。
「調査委員は真矢が読んでいた漫画『鋼の錬金術師』の単行本をすべて買った。自己犠牲の精神が描かれてあり、真矢の思いをわかってくれていました」(宏明さん)
月命日には、両親とも仕事を休んでいる。真矢くんの友人たちが家を訪れてくれるからだ。今年1月、その友人たちは成人式に真矢くんの写真を持って出席した。
「写真を持って式に出てくれないかと思っていたら、お友達も“そう思っていた”と言ってくれて」(真紀さん)
宏明さんと真紀さんは現在、子どもの命を大切にする活動に取り組むNPOの理事を務め、いじめ自殺や学校事件・事故の遺族ともつながる。
「いじめは子どもだけの問題じゃない。それを大人が理解してほしい。子どもだけでは解決しない」(宏明さん)
東日本大震災から5年目の3月11日。学校死の情報を学校側から引き出す手助けもしているふたりは、多くの犠牲者を出した宮城県石巻市の旧大川小学校の校舎を訪れた。
「命を学ぶ学び舎ですね」
宏明さんが言い、真紀さんは涙があふれた。
取材・文/渋井哲也