この日は夏休み中。菜美さんは、博志さんと授業の課題でもある美術館に一緒に行く約束をしており、そのために起こしに行ったときだった。
母・響子さん(48・仮名)も駆けつけ、慌ててふたりで菜美さんを下ろした。寝ているようにも見えたため、「起きて、起きて!」と揺さぶりながら、叫んだ。
火葬のあと、響子さんは妹と弟が寝静まった深夜に仏間に行き、遺骨を持って泣いた。
半年後、響子さんは菜美さんが亡くなった部屋にいた。後追いしようと考えたからだ。しかし、博志さんが気がついて止めた。一緒になって泣いた。響子さんは踏みとどまった。だが、'14年7月15日、博志さんが菜美さんと同じ場所で、同じ方法で亡くなる。
「お父さんが、まさか……。後を追おうと思いました。でも、残された子たちがいるので、私までそうなっちゃいけないと思って」
家族ふたりを失った響子さんも精神的に追い詰められた。しかし、残された子どもふたりのために必死に生きようとしている。
「(菜美さんに)トラブルがあったのは聞いていました。亡くなった後に、中学時代の友人にいじめの相談をしていたことがわかったんです」(響子さん)
菜美さんが育ったのは上天草市内。小中学校とも小規模校だ。
「9年間で欠席は1日だけ。大きなケンカはなく、みんなきょうだいのように育ちました」(響子さん)
中学校のころは生徒会副会長や応援団の副団長にもなった活発な子だった。部活動はテニス部。地区大会で団体3位の好成績だった。
幼稚園から習っていた習字は6段。高校見学に行ったときに、書道のパフォーマンスを見て気に入っていた。
高校は熊本市内にある伝統校。自宅からは遠方のため、学校管理の、構内にある女子寮に入った。週末には帰省もできた。部活は書道部でなくボランティア部に所属した。
菜美さんと同じ寮生のBさんとの間にトラブルが芽生え始めたのは5月ごろ。Bさんが帰省時、寮の洗い物や炊事の当番を菜美さんに何度か交代した。体育系部活の寮生は当番ができず、菜美さんともうひとりに集中していた。
寮生活について菜美さんは「押しつけ」られていると、出身中学のLINEグループに不満をつぶやいた。「音を立てて歩いてはいけない」などの“裏寮則”もあった。
「スリッパの親指部分に穴があいていたんです」(響子さん)
というほど、菜美さんは気をつけていた。それでも先輩に注意される。「ほかの生徒は見逃されているのに、どうして自分だけ」と納得がいかないこともあった。
ストレスのある寮生活に加えて、Bさんが菜美さんを“いじり”始めた。身体的特徴を笑われて以後、マスクをするようになった。
こうしたことを響子さんは知らなかった。5月18日、50代の男性担任に、
「離れて暮らしているので心配です。何かあったら教えてください」
と懇願した。担任の答えは、
「私は何もしません」
耳を疑った。担任への不信感の始まりだった。6月、菜美さんとBさんの関係はさらに悪化する。菜美さんはお風呂セットを隠されたり、スマホを無断で使われそうになった。
28日、菜美さんが響子さんのLINEに、Bさんとのやりとりのスクリーンショットを送信してきた。
《どんだけへぼいと》《つら死んどる》《逃げんなや》《レスキュー隊呼んどけよ》
身体的特徴を笑ったものも含まれていた。菜美さんは響子さんに初めて、電話で泣きながら訴えた。
「もう無理。寮を出たい。こういうことされるとばい」
脅迫的なLINEが来たのは、菜美さんの出身中学のLINEグループでの愚痴がBさんと仲のよい生徒Cを通じて流出したからだった。
《シメに行く》
Bさんはその生徒Cにトークを送ると、隠れている菜美さんを探した。が、見つからないため脅迫的な内容を送ったのだった。
「娘に何があったのか。不安になり、担任に相談したんですが、“それは寮のこと。舎監長に電話してください”と言われました」
担任は何もせず、舎監長は「迎えに来るように」と言っただけ。6月30日、博志さんは菜美さんを迎えに行った。
「家には妹と弟がいるので話しにくいだろう」と3人でドライブに出た。
「菜美はシクシク泣いてばかりでした。“何があってもあなたの味方だからね”と言うしかできなかった」
7月1日、響子さんは実姉に相談に行き、実姉宅から通学できるように決めた。このころ、菜美さんは「5月からいじめられている。寮を出たい」と申し出た。舎監長は「寮から出さない」と言った。
「亡くなってから知りました。言ってくれればよかったのに」
と響子さんは嘆く。7日、舎監長に気持ちを伝えるため、菜美さんは手紙を渡した。
《『なんあいつ』みたいにコソコソ言ってきたり、言いたいことあるなら言えば?て言ってくるので、言ったら、悪いのはおまえだと言わんばかりに言い訳して、すべて丸め込まれ、挙げ句の果てには『被害妄想じゃ?』と言われて…》
すると、舎監長から響子さんに電話があった。
「退寮するのは相手ですから。下宿先では学習時間を自分で作れなくて、失敗している子を何人も見ています。寮がいいですよ」
舎監長は再度、退寮させることを拒み翌日、菜美さんとBさん、Cさんの3人を指導した。しかし、お互いに問題がある「トラブル」という認識で、3人だけで話し合いをさせたのだった。舎監長は「仲直りした」と判断し保護者に連絡した。響子さんは言う。
「舎監長は“遠くに離れていて心配でしょうが、親のように見ているので、大丈夫ですよ”と言われました。このような先生がいるなら安心だと思い、退寮をとどまりました」
だが、このときの話し合いを菜美さんが録音していた。出身中学のLINEグループでの悪口についてBさんは、「レッテル貼らんでよ」「陰口ば言うことしかできんとね」と責め立てた。寮生活での嫌がらせについては和解しているかのようだが、Bさんからの脅迫的なLINEは話題に出ない。
その後、目立ったトラブルは確認されていないが、菜美さんには心理的な圧迫感が残っていたのだろうか。夏休みになった24日、タイムラインに「寮をやめたい」と書き込んだ。さらに27日、アイコンを「怒ったウサギ」に変更した。響子さんは言う。
「アイコンを見て、“怖いよ、ウサギ”って聞いたら、菜美は“よかもん”とだけ答えたんです。LINEで何かがあったのではないでしょうか」
8月に入っても菜美さんは気持ちが沈んでいた。11日に突然、「学校をやめたい」と言いだした。
「1学期は理由を聞きすぎたかな、今度はそっとしておこうと思っていた。そしたら“寮を出たい”と。親としては高校は出してあげたいと思って励ましました」
亡くなる前夜、菜美さんは自殺系サイトや首つりの方法がわかるサイトにアクセスしていた。登校日を数日後に控えていた。
「学校の対応はどうしましょう?」と担任から電話があった。「それどころじゃない」と伝えた。通夜には校長と教頭、担任は自宅に訪問。そこでも担任は同じことを聞いてきた。パニックにある中で、両親は「任せます」としか言えなかった。火葬後も同じ質問を繰り返した。担任への不信感が一挙に高まった。
「なぜ亡くなったのか? 経緯を知りたい」
両親が学校へ要望して、校内の『プロジェクト会議』ができた。菜美さんの自殺は当初、「遺族の意向」として発表されなかった。
「学校しか頼るところがない中、“公表すると調査がしにくい”と言われました。結果、“遺族の意向”となったんです」(響子さん)
学校はこの時点で「いじめ」ではなく、「トラブル」との認識だった。調査の報告のため、校長や教頭が自宅を訪問したが、学校側の報告は口頭のみ。響子さんが「報告書は?」と聞いても、校長や教頭は黙ったままだった。県教委に問い合わせると、学校に報告書の作成が指示された。
その後、博志さんまで失って響子さんは後悔する。
「夫は“(学校を)なぜ信じたんだろう”と言っていました。様子がおかしいと思ったとき、いじめを疑えばよかったです」
'15年2月、公平性・中立性の確保のため、弁護士を加えた『学校調査委員会』を設置した。1年後の最終報告書で、トラブルのうち5件を「いじめ」と認めたが、自殺との因果関係について「直接的な影響を与えたとは認め難い」とした。響子さんはこう話す。
「いじめがなくても寮を出られないことで、うつになったと……。この内容には傷ついています。菜美は、いじめと調査委によって、2度も3度も殺されました」
調査委には校長や保護者会長もいた。そのため、響子さんは今年3月に、より公正な再調査を県知事に手紙で要望。3月29日に県は調査の検証を含む『第三者委員会』の設置を決めた。そのことについて県教委は「特にコメントはない」としている。
響子さんは加害生徒らを相手に提訴も検討している。
取材・文/渋井哲也