大学の研究室で未曾有の大地震に見舞われた前田祐聖さん(24)。
「連絡がとれない母と妹が気がかりでアクセル全開でスクーターを飛ばしました。自宅のある益城町に近づくにつれ周囲の明かりは少なくなっていき、到着すると家は真っ暗。飛びつくように玄関のドアを開けると、2人が震えるように肩を寄せ合っていました」
揺れがおさまり自宅や妹に電話をかけるもいっこうにつながらない。40分かかる家までの道のりを、はやる思いで駆け抜けた。
「2人の顔を見た瞬間、心底安心しました。中の様子が気になり居間に向かおうとすると“ダメ! ヘルメットかぶってじっとしていて!”と妹に止められました。妹の足の裏は食器棚や写真立てが割れて飛び散った破片で傷ついていました。食器は8割方割れて」
自宅は停電し、電気、水道はストップ。2年前に屋外設置し、やっとオール電化だと家族で喜んだ電気給湯器『エコキュート』も、無残な姿で道を塞ぐように倒れていた。
続く余震で家の中にもおちおち居られず、3人は車の中に移動し、眠れぬ夜を過ごした。
「翌日、親戚たちが持ってきてくれた水やパンでなんとか過ごしています。早くお風呂に入りたい。防災袋も用意してあったのに存在すら忘れていて、散らばった物たちに埋もれて取り出せなくなっていました。備えていたつもりなのに、実際に大地震が起こると何もできなかった……」
同町で電気店を営む60代の男性は修理を頼まれていた製品がほとんどすべて棚から落下し、破損したことを悔やむ。
「お客さんに申し訳ないけど作り直しだ。出費も痛い。でも、妻も私もケガひとつなかった。屋根の瓦が3分の1以上落ちてしまったから明日から復旧作業です。男手を近所に依頼していますよ、妻には危ない仕事だからさ」
両親とともに昔ながらの駄菓子屋を営む50代の女性は、当時の様子をこう語る。
「2階の自室の南と東に置いてある家具はすべて倒れました。1階で閉店後のお店を整理していた父に呼びかけると返事があったので急いで下りて外に出ました。外出していた母に電話がつながったのは20~30分後。3人命があっただけでも幸いと思いました」
店はメチャクチャで、お菓子は散らばり、割れた窓ガラスが中に入りこんで、とても営業できない状況。停電でクーラーが使えないため、溶け出したアイスは通行人や知り合いに配って回った。
「うちは大きな売り上げは見込めないけれど、近所のお子さんが100円握りしめて駆けてくるようなお店です。建て替えることになっても店はなくしたくないな。両親は高齢ですし、負担はかけさせたくない。なんとか前だけ見て3人で生きていきたいです」
今回の大地震では、九州全域に範囲を広げ、48時間後までに震度5以上の本震・余震が14回。強い揺れに何度も襲われて民家が多数倒壊、城や市役所もボロボロにされ、火災も起こった。
41名が犠牲になり、9万8000人が避難所に身を寄せた。肉親や長年の隣人、友人を亡くした人たちの悲しみの声も多く聞かれる。
突然、日常ががらりと変わり、大切な人や物が奪われる。この先への展望はまだとても見込めない。でも、命だけはある。守りたい家族がいる。
「県外に出ていた父も数日後戻ってこれそうです。全員生き残ったんだから、ここからはもう負けねえぞと思っています」(前出の男子大学生)