1935年に開場した築地市場が80年以上にわたって多くの胃袋を満たしてきた役目に幕を下ろそうとしている。東京都中央区から江東区の豊洲新市場に移転するまであと半年となったが、なぜ“世界一の台所”と称される築地市場が移転しなければならないのか。
都市計画に詳しい早稲田大学社会科学部の佐藤洋一教授にその理由を聞いた。
「物流の点から言うと現在の築地市場は時代にマッチしていないんです。開場した当初は鉄道輸送がメイン。市場の最奥には鉄道を引き入れるための引き込み線が引かれ、それに伴って扇形の市場が形成されました。かつて鉄道で運ばれてきた商品は扇形の外から内へと流れる非常に理にかなった構造をしていたのです」
全盛期には1日に150両の貨物列車が出入りしていたが、やがてトラック輸送の割合が増え、'87年を最後に列車運行は終了。
「現在、トラックの発着所は内側にあり、産地から届いた商品を仲卸が市場内の店舗に運び、またそれを取引先に輸送するために発着所に戻すという2度手間を強いられる構造になっています」(佐藤教授)
結果、手狭な土地でトラックや荷物運搬用の小型車“ターレ”が激しく行き交う混沌とした状況に。買出人や観光客との接触事故もたびたび起きていた。加えて、建物の老朽化で商品の品質や鮮度保持が難しくなってきた事情もある。抜本的な改善が急務なのだ。
それでもいまだ、移転反対を唱える市場関係者もいるという。約2年間、築地市場長を務めた森本博行氏は、その背景をこう説明する。
「築地市場移転の構想が出たのは、開場から40年たった'75年ごろから。老朽化に伴う改築の話が出始め、何度も失敗してきました。やはり築地という便利な場所からわざわざ移転したがらない。築地は飲食店の多い銀座に近く、複数の地下鉄路線を利用できる。
それに比べ、豊洲へは現状、モノレールの『ゆりかもめ』を使うしかない。早朝4時には活気づく市場に始発列車が間に合わない。今まで自転車やバイクで買い出しに来ていた人も多く、通勤コストも上がるうえ、アクセスの悪さは商売に大きな影響を与えます。これに、都はいまだに明快な打開策を打ち出せずにいるのです」
移転反対派の中でも、特に思い入れが強いのは浦安の人々だという。
「江戸時代から漁業が盛んだった浦安は魚河岸との付き合いが古くからあった。でも、市場で商いをするために必要な板舟権はなかなか手に入れられず、四苦八苦してきた歴史がある。手狭な軒先商売から大店舗に育った店も多く、先代が苦労して得た築地という場所を手放したくない強い思いがあるんです」(森本氏)
さらに、環境汚染も危惧されている。
'14年末、豊洲市場の土壌汚染対策工事の完了を都が発表するも、今年2月に入り、300を超える区画で底面調査が行われていなかった実態が判明。指定の審査を怠り、虚偽記載を行ったずさんな対応に、移転反対派は怒りの声を上げた。食の安全をつかさどる市場として、早急に解決しなければならない問題だ。
「豊洲市場はもともと東京ガスのガス製造工場跡地に位置し、'08年の調査で基準値の4万3000倍の発がん性物質ベンゼンが検出されました。そのとき、まっさきに声を上げたのが浦安グループ。高度成長期の真っただ中、旧江戸川上流の工業排水によって海産物や養殖海苔に壊滅的な損害を受けた過去があるので、どこよりも環境問題には敏感なんです」(前出・森本氏)
■消えゆく景色、魚河岸たちの思い
筆者は、移転騒動に揺れる築地の現状を知りたいがゆえに、市場の警備員として1年数か月働いてきた。いろいろな人と話していると、移転に関して多くの思いが交錯していることに気づかされた。仲買人、買出人、ターレの乗り手さん、立場によってもさまざまだ。
市場が静まり返る昼過ぎ、商売道具の包丁を洗っていた仲卸の吉田光郎さん(仮名)に声をかけた。築地で30年働いてきたという。
「ここ最近だと多い月で5店舗ほどが廃業しているって聞くよ。後継者がいない店もあるみたいだけど、移転費用が出せなくて閉める店もある。都の負担だって全額なわけじゃないからね。新しくダンべという大型冷蔵庫からそろえなきゃならないんだから大変だよ。
うちは日本橋時代からやってきた店だから、意地でも豊洲に行くけどさ。俺の代で終わらせるってわけにはいかないだろ。国なんて何にもわかってないんだよ。どうせ偉いやっちゃ、書類しか見てねーんだろうからさ」
築地に来て10年、ターレで運送業務を行っている長尾雄介さん(仮名)は、
「老朽化だっていうのもわかるけど、やっぱこの独特な雰囲気がなくなってしまうのは寂しいよね。俺だっていつかは築地で自分の店を持って、世界一の市場にしてみせようと思っていたのに残念だよ。豊洲も見てきたけど、あんな工場みたいなところで働くのは気が進まないね。ちょっと肩の力が抜けちゃったよ」
意外だったのは、若い人より年配の人のほうが移転に前向きな傾向が強いこと。30代くらいの若い人のほうが、失われゆく築地市場に対してノスタルジーを感じているのは不思議だった。
豊洲市場の開場2か月後をめどに、環状2号線の仮設道路を新橋~豊洲間に通す工事がスタートする。移転が完了する11月7日午前0時から、早くも築地市場の解体が始まる予定だ。
2020年の東京五輪に向けて、都心と選手村をつなぐことが期待される環状2号線は最優先事業であり、ノスタルジーに浸っている暇などないのだ。
多くの観光客でにぎわう築地場外市場にある飲食店や魚屋などはそのまま残るため、築地でも従来どおり仕入れができるよう60店舗の仲卸業者が入った新施設『築地魚河岸』が築地場外にオープンするという。
問題は、東京ドーム5個分の広さを誇る移転後の築地場内市場跡地だ。
「いくつか計画案はあるものの用途に関してはほとんど何も決まっていない」
と、森本元市場長。一時はカジノになるといった話も囁かれたが、あの巨大な土地に何ができるのか。せめて歴史ある築地市場を壊さなければよかった、と後悔することのないように有効利用してほしい。
無法地帯ともいえる一種独特のノスタルジーを持った築地の雰囲気は間もなく失われる。豊洲市場は現在のようなオープン型から、商品を高温、風雨から守る閉鎖型施設になる。そして、一般の観光客らは見学者通路しか通れなくなるという。市場の活気が肌で感じられた今の築地市場を思えば、少し寂しいものがある。
筆者は、警備員の仕事をしながら、移転後の築地の景色はおそらくこうなる、というコンセプトで未来を先取りする写真を撮り、写真集『築地0景』を上梓した。時代の流れの中で消えゆく景色もある。
しかし、歴史を刻み続けた日常の景色には、言葉にしがたい貴重性がある。それを少しでも多くの人に見てほしいと願っている。今ならまだ築地市場の歴史を感じることができる。移転前にぜひとも足を運び、私たちの食を支え続けた市場の最後を見届けてほしい。
取材・文/写真家・元市場警備員 新納翔
<プロフィール>
にいろ・しょう/写真家。早稲田大学理工学部応用物理学科中退。かつて肉体労働者の街といわれた東京・浅草北部にある「山谷」をはじめ消えゆく都市風景をテーマに活躍。写真集及び国内外での個展多数。
※写真はすべて新納翔氏の写真集『築地0景』(ふげん社)より