舛添要一東京都知事の辞職により、都知事選との時間差選挙の様相となった参議院選挙。7月10日の投開票日まで3週間を切り、各党の論戦がにわかに活発化している。
選挙公約で自民はアベノミクスの成果を強調、さらに野党のお株を奪うような社会保障の充実策を並べる。ただ、その財源となる消費税10%への引き上げは、2019年10月までの延期を決めた。
私たちの暮らしを大きく変えるかもしれない参院選の争点を検証していこう。
働けど働けどわが暮らし楽にならず……。それが大企業を除いたほとんどの労働者の生活実感であるはずだ。アベノミクスはもはやただの標語であることに多くの国民が気づいている。
今年の元旦、テレビ朝日の看板番組である『朝まで生テレビ!』は「激論! 安倍政治~国民の選択と覚悟~」と題しての有識者による討論を放映。
このなかでアベノミクスを推奨してきた元総務大臣の竹中平蔵慶応大学教授が、アベノミクスで実現するとされた“トリクルダウン”(富裕層が潤うことで経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも落ちてくるという経済論)について「富が滴り落ちてくるなんてありえないですよ」と明言したのだ。
これは「効果がない」ことを示した発言であるが、アベノミクスでの雇用・労働への「悪影響」も検証しなければならない。
労働問題に詳しい佐々木亮弁護士(旬報法律事務所)は以下のように語る。
「安倍政権が成立させた悪法は、例えば、昨年の派遣法の改悪。1人の派遣労働者を生涯派遣労働に従事させるものですが、どれだけの悪影響が出るかはこれから明らかになるはずです」
さらに、佐々木弁護士はこう警鐘を鳴らしている。
「これから出てくるのは『労働基準法』の改悪。絶対に阻止しなければならない」
昨年4月、安倍政権は労働基準法の改定を閣議決定したが、これは「長時間労働を防ぐため、労働時間ではなく、労働による“成果”で給料を支払う制度」を目指しているからだ。簡単に言えば、その目的は「残業代ゼロ」。
一部有識者は「残業代が出ないと、社員は“早く帰るにはどうすべきか”と考え生産性が向上する」と歓迎する。だが、労働者に長時間労働を強いるブラック企業を取材してきた筆者は、ブラック企業を喜ばせる制度でしかないと思う。
「最初は年収1000万円以上の労働者のみが対象とされていますが、入り口は小さい穴でも、それを広げるのが政府の常套手段。加えて今度は『1億総活躍』といった標語を持ち出し、『同一労働同一賃金』や『長時間労働の規制』などを言い始めた。本当にその方向で進むのか見極めなければなりません」(佐々木弁護士)
同一賃金同一労働は実現するのだろうか?
これをもっとも強く願うのが、非正規労働者だ。どの企業でも例外なく、非正規労働者は正社員と同じ仕事をしながら、その年収は正社員の3分の1程度でしかなく、福利厚生も薄い。
東京都を縦横無尽に走る地下鉄を運営する『東京メトロ』の子会社『メトロコマース』は駅売店を経営するが、そこで働く後呂良子さん(62)もその1人。後呂さんが入社したのは2006年。ところが初めから「おかしい」と感じた。
「最初の3か月間は見習い期間として時給1000円でした。でも契約社員として独り立ちして店を任せられても、1000円のまま。勤続10年の人も1000円で、アルバイトも1000円。え、何かの間違いじゃないのと思いました」
ボーナスはある。1年で24万円程度。正社員はこの5倍以上を得るが、それも仕方ないと後呂さんは当初思っていた。ところが、当たり前のことに気づく。
「正社員は私たちとまったく同じ仕事をしている」
それなのに契約社員は手取りが月12万~13万円台にすぎず、正社員はその3倍は稼ぐ。さらに契約社員にも「A」と「B」という区分があり、後呂さんは自分がBであることを入社後に知る。Aには正社員と同じ、1週間の有給忌引き休暇や月7400円の食事補助券などの福利厚生がある。Bには何もなかった。
是正しなければ。後呂さんの職場の先輩でもあったKさんは、当時の約90店舗を回り一緒に闘おうと訴えた。仲間が集まり、労働環境の是正、特に賃金格差をなくすために相談に向かったのが、日本でもっとも多くの労働相談が寄せられる「全国一般東京東部労働組合」(以下、東部労組)だ。
東部労組は1人でも非正規労働者でも加入できる組合で、労働問題を自ら解決しようと動く人には団体交渉や裁判などの支援を惜しまない。対応したのは須田光照書記長だった。
契約社員Bの女性の労働環境を知り、須田さんは現実を痛感した。
「家計の補助ではなく、月13万円で大黒柱として家族を支える女性もいる。買い物はスーパーの閉店間際の値引きタイムですませ、新しい服も3年も買わない。その人たちが必死に闘おうとしている」
こうして'09年3月、東部労組内に「メトロコマース支部」が結成される。当初のメンバーは後呂さんも入れわずか4人(現在6人)。
東部労組の基本方針は、おんぶに抱っこではなく、自ら立ち上がる人への後方支援だ。だから、コマース支部と会社との団体交渉には必ず東部労組の須田さんやほかの職員も同席する。
「たった4人で始めた闘いです。でも会社は相当に慌てたようです」(須田さん)
団交の結果は現れた。例えば、会社は、それまでの時給1000円を年10円ずつ上げると約束(後呂さんの時給は現在1070円になった)。有給忌引き休暇や食事補助券も得られるようになり、イスのなかった売店にイスが設置されるようになった。
だが根本解決にはほど遠い。同一賃金同一労働以前に、メトロコマースでは、65歳になるとそれ以上の契約更改をしない雇い止めが待っている。貯金もできない現状に加え、数千万円を手にできる正社員と違い退職金はゼロ。どうして生きていけようか。
'13年3月18日。やがて雇い止めされるS組合員の雇用継続を訴え、コマース支部はストライキを決行した。「怖かった」と後呂さんは振り返る。
「決行前夜は、“私、クビになるのかな”と不安で眠れませんでした」
だが翌日、いざストを実行し、アピールのために本社前に移動すると、130人も支援者が集まっていた。「本当にうれしかった」。さらに、ストを通してS組合員の雇用継続を勝ち取ることもできたのだ。
■非正規と正社員の格差を問い訴訟に
だが、いまだ根本解決には至らない。コマース支部と会社との団交はじつに60回を超えたのに、いまだに同一労働同一賃金どころか、時給は1100円が上限と定められたままなのだ。賃金格差の是正などいつ実現するかわからない。
ついに後呂さんを含めたコマース支部の4人は'14年4月1日、会社を相手どり、正社員との3年分の賃金格差を含む約4250万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。
これは、有期契約を理由に正社員との間に不合理な労働条件の格差を設けることを禁じた改正労働契約法('13年4月施行)を根拠とした初めての裁判になる。今月23日、いよいよ原告と被告の両者が証人尋問に立つ。
非正規労働者が増えている以上、こういった労働者と会社との法廷闘争も増えるはずだが、前出・須田さんには懸念がある。
「解雇の金銭解決制度の導入です。例えば、不当解雇された労働者が法廷闘争で『解雇無効』と勝訴しても、会社がお金さえ払えば労働者を解雇できてしまう」
これは、安倍内閣の諮問機関『規制改革会議』が3月25日、制度の導入をめざす意見書をまとめたばかりで、その運用次第では、会社側に解雇拡大の口実を与えかねない制度だ。
これが適用されたら後呂さんたちはどうなるか。不安を覚えずにはいられない。
非正規労働者の多くが思っているはずだ。もし政権交代が実現したらどうなるのかと。予想は難しい。最大野党である民進党内でもさまざまな意見があり、厚生労働省や総務省の体質も変わらない。だが、
「さすがに旧民主党も反省しているはず。これ以上、悪くならないことを期待したい」(佐々木弁護士)
非正規労働の問題は人間の尊厳に関わる問題だ、と後呂さんは強調する。
「正社員とも仲よくやろうと思います。でも、ここまで差別的に苦しめられると、つい彼らを妬みそうになる自分に気づくんです。このままでは私の人格もねじれてしまう。だから裁判を通して、非正規労働者の尊厳が守られる制度ができれば……。それが私にとって勝利です」
須田さんは、その心情をこう酌み取る。
「後呂さんがそこまでの気持ちをもつのは、彼女たちの責任ではない。同じ仕事をする労働者を分断する会社がいけないんです」
取材・文/樫田秀樹