同性愛者が、同性愛者に偏見を持っている異性愛者に告白するという挑戦
告白してフラれたという、よくある失恋話だという声も聞かれますが、私はそうは思わない。元々AくんとZくんの属するグループラインのなかでは、会話の節々で、ゲイに対して偏見をもっているきらいがあったといいます。
異性愛者が同性愛者に告白され、受け入れるケースが稀である現状のなか、そして同性愛者に対して寛容ではないことも知っているという状況のなかで告白するというのは、かなり難しい挑戦だったと思う。
断られて、それで終わりというのではなく、その先に失恋以上の辛いことが待ち構えているなかでの告白だったという点だけでも、よくある失恋話という一言では片づけてはならない問題だと思うよ。
アウティングしたZくんが悪かった、あるいは異性愛者が同性愛者に告白されれば戸惑うのは仕方のないことで、むしろZくんは被害者なのではないかという意見も耳にします。
しかし私は、Zくんをはじめ、いまだにゲイを特別視してしまう社会、ゲイを面白おかしく茶化そうとするメディア、そしてAくんが勇気を出して相談したにも関わらず、何も解決法も見出そうとしなかった大学側のカウンセリングにこそ問題があるのではないかと思う。
わがままではなく、属性、生まれつきものに対して、まだ未熟な学生が悩んでいる場合、大学側は専門のカウンセリングを設けているわけだから、もう少し真摯に対応しなきゃならなかったんじゃないかな。
マイノリティに対し、いまだステレオタイプを押し付ける社会
とくに芸能界では、ウケを狙って未だにゲイを特別扱いする風潮があるよね。だけどそれって、ゲイといえば、みんなおネエみたいな喋り方をするものなんだという間違った認識を助長させてしまうところがある。
ゲイのみんながみんな、おネエのような喋り方をするわけじゃないのに、そういうステレオタイプをメディアが率先して作ってしまっていて、それが社会に浸透してしまっている。
そうしたなかでZくんが持っていたようなゲイを特別視し、ちゃかす価値観が生まれてしまうのは、ある意味必然だったんじゃないかなと思うんだよね。
これは、ゲイに限らずマイノリティ全般について言えることだよ。たとえば、私自身、最初テレビに出たときにはおもしろ外国人というステレオタイプを求められたの。
納豆は苦手、梅干しは嫌い、片言で喋るおもしろ外国人という理想像が求められていた。だけど、ステレオタイプな外国人としてメディアから需要があってウケたとしても、マイノリティに対して社会が寛容になるわけではないのよ。
そして、私もそのステレオタイプの形成に加担してしまったら、日本で生きているステレオタイプを快く思わない外国人たちが困るんじゃないかと思った。それで、はじめてのテレビ出演こそ片言の日本語で喋っていたけど、次からはふつうに喋ることにしたの。
つまり、今回の問題は単に失恋話という問題なのではなくて、マイノリティに対する社会の受け入れ姿勢、その個々への影響が生み出してしまったんだと思うよ。
《構成・文/岸沙織》