日本社会は“感動ポルノ”として障害者を扱ってしまっているのではないか
今年も『24時間テレビ』の季節がやってきましたけど、大人になるにつれ、私は同番組をはじめ、メディアそして社会の障害者の扱い方について違和感を覚えるようになった。何か違うんじゃないかと思うようになったの。
障害者の扱い方の主眼が、健常者を感動させることにある、つまり、障害を持った人たちでも頑張っているんだから、ちょっとしたことでクヨクヨするなんてバカみたい、というように、健常者を感動させ奮い立たせるための“モノ”として障害者を扱っているように思えてならないんだよね。
自身も障害を持つ、コメディアン兼ジャーナリストのStella Young(ステラ・ヤング)さんが、《ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱い》すること、つまりこの場合、《障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしている》状況を《ポルノ》と称し、《健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱い》することを《感動ポルノ》だと危惧していらっしゃいました。
ステラ・ヤングさんが指摘するように、『24時間テレビ』をはじめ日本社会の障害者への扱い方は、まさにこの“感動ポルノ”なんじゃないかと思うんだよね。
「標準を作ってしまった日本社会」
障害者を見るとき、日本社会は憐れみの目線で見てしまうところがある。本来人間は、環境も思想も身体的特徴も、一人一人異なるはずなのに、日本社会はそこに“標準”を作ってしまった。
多様性があるものに対して戸惑い、隠そうとする傾向が強いからなのかな。その標準に満たない人に対して、憐れみを持って見てしまう。標準がすべていいわけでもないのにね。この憐れみを持つこと自体が、バリアフリーを妨げてしまっているんじゃないかな。
『24時間テレビ』の裏では、この“感動ポルノ”としての障害者の扱い方に異議を唱えるかのように、『バリバラ』という番組が放送されるそうですね。こちらは'12年から放送が始まっているんだけど、障害者自身がどこまで笑いをとれるのかということに挑戦した内容で、真のバリアフリーに向けた動きも見受けられます。
たとえばこうした番組のように、健常者の視点からばかり考えるのではなく、障害者は社会とどうやって共存していきたいと思っているのか、障害者の視点からももっと考えていく必要があると思うよ。
《構成・文/岸沙織》