明治から大正、大正から昭和と代替わりすると、前の代ではなかったことが起きる例を日本政治思想史が専門の放送大学教授・原武史さんが説明する。
「明治時代は天皇と皇后が御用邸でずっと休んでいるというのはありえませんでした。ところが、大正天皇は体調の問題もあったのですが、皇后とともに御用邸に何か月も滞在するように……」
昭和から平成になっても、天皇と皇后の静養は続いているが、現在の両陛下のお休みのスタイルはどの時代にもない独特なものかもしれない。
「天皇・皇后両陛下は、8月20日から長野県入りして、陛下の『おことば』発表から初めてのご静養となりました。
26日まで軽井沢町で過ごし27日からは群馬県草津町に移られ、例年より長い11日間の夏休みとなりました」(宮内庁担当記者)
軽井沢は、美智子さまが約60年前に「軽井沢会テニスコート」の試合で陛下と運命的な出会いを果たす前から縁のある土地で、何度も訪問されている「思い出」の場所だ。
しかし、美智子さまは静養を“完全休養”とは思われていないようで、その日程はかなり“過密”だった─。
「20日、上田駅から長野入りした両陛下は、信州大学繊維学部を訪問し、養蚕に関する資料館を見学されました。
23日も上田市にある、『旧常田館製糸場施設』を訪ね、繭倉庫などを熱心に見て回られました」(同・記者)
お休み中にも、養蚕や製糸業に関連する施設を訪問される美智子さまについて、
「休養中もただ休むだけではなく、テーマを設けられているのが美智子さま流の静養の仕方だからだと思います」
と話すのは、皇室を長年取材するジャーナリストで、文化学園大学教授の渡辺みどりさん。
「特に養蚕は、明治から歴代の皇后が大切にしてきた専門分野で、美智子さまは純国産の繭『小石丸』を温度管理にも気をつけながら大切に育てられてきました。
そんな養蚕や生糸の関連施設が静養先近くにあれば、立ち寄りお勉強され、関係者を励ましたいお気持ちがあるのだと思います」(渡辺さん)
公式日程以外にも、美智子さまは“休養”に専念されていたわけではなかった。
21日の日曜日に、陛下と出会ったテニスコートに立ち寄り、15分ほど見学されていた美智子さま。
「23日に旧製糸場を視察した後、午後3時ごろから軽井沢会のコートでテニスをプレーする予定だったようですが、雨で中止になりました」(近所の住人)
その後、午後5時ごろに美智子さまは陛下と町内の別荘地に滞在していた美智子さまの知人のもとをお訪ねに。
翌24日も朝からあいにくの天候だったが、午後5時ごろに美智子さまがおひとりで向かわれた先は、『富士ゼロックス軽井沢倶楽部』という保養施設。
「保養所で美智子さまは、ピアノの練習をされていたそうです。
軽井沢の後に向かう草津での音楽祭のワークショップに美智子さまは参加予定だったので、その練習だったかもしれません」(宮内庁関係者)
その後、午後6時半ごろに陛下も同所に合流し、夕食をともにされたようだ。
25日も、精力的だった陛下と美智子さま。
「午前10時過ぎに、美智子さまは陛下に付き添われ、『軽井沢千住博美術館』で日本画家・千住博の展覧会を鑑賞されていました。
美智子さまは美術館前に集まった50〜60人の人たちに向かって、わざわざ窓を開けて身体を乗り出すように手を振ってくださいましたよ」(近所の住人)
約1時間後、そのままおふたりは、森林に囲まれた閑静な別荘地にある陛下の同級生のお宅を訪ね、昼食を囲まれたようだった。
「その後、宿舎にいったんお戻りになりましたが、午後4時には『軽井沢大賀ホール』へ。この日は『熊本地震復興支援 松田華音ピアノ・リサイタル』を鑑賞されました」(皇室記者)
絶好のテニス日和だった26日は、軽井沢ご滞在の最終日だったが、美智子さまが陛下に従い向かわれたのは、浅間山の麓にある大日向開拓地。
この地は戦後、命からがら帰国した満蒙開拓団が開拓した土地で、'47年に昭和天皇が初めてご訪問。その後、両陛下もたびたび訪れ、心を寄せられている。
「今回は、昭和天皇の『御巡幸記念碑』を訪れた後に、『大日向開拓記念館』に立ち寄られました。
正午ごろには町内に、別荘のマンションを構える島津貴子さんのもとをお訪ねになりました。
貴子さんは陛下の実妹で、両陛下が軽井沢に来た際には、立ち寄られるそうです。昼食をともにされたと思います」(別の宮内庁関係者)
残念ながら今回は、「思い出のテニス」はせず、翌27日は群馬県草津町に移動された美智子さま。
一方、栃木県の那須御用邸でご静養中だった雅子さまも、3日目から登山にお出かけ。
皇太子さま(56)を先頭に、愛子さまも本格的な“山ガール・ファッション”で茶臼岳と朝日岳を縦走された。
10日ほどのご静養の間、雅子さまも美智子さまのようにアクティブに過ごされるかもしれない。