「SMAPが年末に解散!」
衝撃のニュースから半月、世間の混乱はまだ収まらない。
25年間、お茶の間を魅了し続けた国民的アイドルグループが終幕する。単なるテレビスターの枠を超え、いつの間にかファンや視聴者とともに日々を生きていた稀有な存在『SMAP』だからこそ、喪失感は計り知れない。
「僕らは周りからこうしろ、ああしろって言われるのが好きじゃなかった。自分たちが“コレだ!”っていうものをやってきた。歌にしろ、衣装にしろ、ドラマにしろ、好きなものだけをやってきたから無責任なことはできなかった」
SMAPのリーダー・中居正広はかつて、雑誌の取材でこう語っている。
たしかにSMAPはスーパーアイドルであると同時に、“作りもの”ではない人間味を感じさせた。幅広い層から人気を集めるきっかけとなったバラエティー番組『夢がMORI MORI』や『SMAP×SMAP』(ともにフジ系)で見せてきた姿はお笑いあり、料理あり、かぶりものあり、身体を張ったチャレンジありと、それまでのアイドルとは一線を画していた。
SMAPをデビューから支え、今年1月に退社した元チーフマネージャーのI氏は、人気が急上昇したころの彼らを、近しい関係者にこんなふうに説明していた。
「正統派は光GENJI、少年隊といっぱいいますから、同じことをやってもしょうがないかなというのは本人たちの中にあると思います。木村(拓哉)がよく言っているのは、ドラマをやってるのは木村A。
でも『夢モリ』に出てるときは木村B。で、歌っているときは木村Cだと。多面性があることがタレントとしてこれからすごく必要なんじゃないかと」
見立てはゆっくりと、しかし見事に的中する。デビュー曲『Can't Stop!! –LOVING–』はオリコンチャート2位にとどまり、その後泣かず飛ばずの状態が続いたが、『Hey Hey おおきに毎度あり』で初の1位を獲得すると一気に追い風が吹き始める。その裏で懸命にメンバーの乗る船の舵を取り牽引してきたのが中居だった。テレビ局関係者が語る。
「当時はコンサートの構成も中居クンが中心になって考えていました。“6人が対等な関係で作っていくのが大事”と。たまに心の探り合いがあって、メンバー同士で遠慮してしまうこともある。
そういうときに自分が出て行って“じゃあ、こういうふうにしようぜ”と仕切るんだけど、“すごく勇気がいる。メンバーの気持ちを遮って、プライドを傷つけるんじゃないかと思うから”と言ってましたね」
デビュー時、まだ20歳の中居がグループをまとめていこうと苦慮していたことが伝わってくる。そんな彼も18、19歳ごろまでは自我が強く「俺が、俺が」と、何でもいちばんになりたいと思っていた。
《歌はソロをとりたい。踊りは真ん中で踊りたい。芝居はおいしい役じゃなきゃ嫌だ。笑いは自分がいちばんとりたい。自分がいちばん人気者でありたいって。6人でひとつなんて、考えてなかった》(JUNON'95年4月号)
意識が変わるきっかけになったのは、その当時の手痛い経験だった。光GENJIのバックを離れ、SMAP単独公演を行うようになっていたが、名古屋レインボーホールではアリーナの半分ほどしか客席が埋まらなかったのだ。
「ショックだったねぇ」
後に中居は振り返って語っている。幕が開いたとたんに6人で目を合わせた、と。それまで自分たちが人気者だと思い、最先端と思っていたのが、とんだ勘違いだったと。
「そのときに6人で頑張んないとダメだって思ったね。そこから人を立てるっていう気持ちが出てきた」
そんな中居の変化は、当時を知る関係者にもはっきりとわかるものだった。
「ほかのメンバーに対して厳しいことを言うのが中居クンでした。ちゃんと練習しないメンバーに怒ったり、騒いでいるメンバーを叱ったり。リーダーであり、年長である責任感から嫌われるようなことも言うのが自分の役目だって」(前出・テレビ局関係者)
一方、同じ年長組の木村拓哉はメンバーの中ではカッコいい兄貴分。叱られたりして落ち込んでいるメンバーに声をかける役割だったという。
Ⅰ元マネージャーによるとメンバー間での立ち位置や関係性は事務所が指示したわけではなく、本人たちが自ら構築していったもの。当時、こうも語っていた。
「うちは別に教え込まないんですよ。中居はほんとにあのままの子ですし、香取にもこうこうだと教え込まない。下の者は上の者を見て育つじゃないですけれど、年上のいいところを盗んで、もしかしたら悪いところも感じて。そうやって、あうんの呼吸でグループがうまくまとまっているのかなと思います」
最近では、昨年9月に『ビストロスマップ』の収録を観覧した女性ファンが、こんなエピソードを話していた。
「中居クンは、セット上で話し続けているオーナー役の(香取)慎吾に、“(通常の)ビストロのゲストは、俺がここで話を聞いてる間『SMAPさんを下で待たせている』ということをすっごくプレッシャーに感じてるんだよ。
だから、なるべく15分以内に話を終えて下におりるようにしているんだ。お前、今日はすでに1時間40分たってるから。今回は俺たちだけの回だからいいけどさ”と、アドバイスしていました。慎吾クンは神妙な顔で聞いていましたよ」
プライベートでは今でも時間があれば地元の神奈川県藤沢市の幼なじみたちと飲みに行き、メガネのスタイリストや専属ヘアメイクをはじめとする6、7人の“チーム中居”の面々とは兄弟のように固い絆で結ばれている。多忙なスケジュールの中でも長年変わることなく仲間を愛し、慕われてきたことがよくわかる。
SMAPが今までのアイドルにない新しさを打ち立てたという意味で、中居の司会業進出も見逃せない。
「彼が17、18歳のころ当時の自分の年齢でほかの人がやってないことをやりたいと思っていたそうなんです。そこで目をつけたのが司会。
もともと校則が嫌いで縛られるのがイヤ。ハッタリのきかない一発勝負の緊張感が大好きという彼には向いていたんだと思います。ただ、“司会って考えていたほど簡単なジャンルじゃなかった”とも漏らしていました」(テレビ局関係者)
'97年には、史上最年少の25歳にして『第48回NHK紅白歌合戦』で初の白組司会に抜擢。また翌日の『新春かくし芸大会』では2年連続で総合司会、年末年始のテレビを独占する形となった。なぜ大役が集中したのか?
「声をかけたら笑顔で応えてくれそうな、ひと昔前の若者みたいな人懐っこい魅力があったんですよ。ロスジェネ世代の中ではああいうキャラクターが必要とされたんでしょうね」(一般紙社会部記者)
「ちょうどそのころですよね。中居さんの一人称が“俺”とか“おいら”から“僕”に変わったんです。それまで街のアンちゃんだったのが、急に気圧されるような迫力が出て驚きましたね」(女性誌記者)
若い世代の『紅白』離れを食い止めるためなどとも言われ、当初はあまり実力を高く評価されてはいなかった。だが、中居はそこにしっかりと焦点を絞っていた。
《10代の頃ってさ、歌って踊ってドラマに出て、カッコいい自分を見せたい時期なんです(笑)。でも僕は人を笑わせたり、カッコ悪い部分をさらけ出したりする、そっちのほうがカッコいいんじゃないかって思ってたから》(JUNON'98年4月号)
ドラマもラブストーリー全盛で、それをやればある程度の視聴率を見込めることが予想できた。しかし、中居はあえて『味いちもんめ』『ナニワ金融道』(フジ系)など男くさいドラマに主演した。司会業も多くの経験を重ね、『うたばん』(TBS系)は約14年間続く人気番組となる。
「『うたばん』のときはゲストを迎える立場だから、どれだけその人を引き出せるかってこともそうだけど、何よりも楽しんで帰っていってほしいと言ってました」(テレビ誌ライター)
嵐の大野智との“下克上コント”は最たるものだった。
「いちばんしゃべらない大野が中居に暴言を吐き、中居が怒る。それを嵐の4人が止める」という構図は中居が考案したもので、自然とメンバー全員が番組の中で自分から発言できるようになった。ゲストを軽妙にいじり、ほどよく毒も吐くが、決して行きすぎることはない。雑誌の取材でこんな言葉も。
「誰でもテレビで見せたくない弱みとか、プライドってあるじゃない。そこは絶対押しちゃいけないスイッチで、話していくうちにわりとすぐ場所がわかったりする」
前出の女性誌記者は、
「“プライベートでも押されたくないスイッチには気をつけてる”と言っていました。いくら相手が親友だろうが彼女だろうが親だろうが、人と接するときに気を遣わないってことはないと」
ただ、自分の押されたくないスイッチについては別。
「そういうのはない。たとえ押されても顔に出さない、って。ファッションセンスがないとか言われても、そういうスイッチに俺はプライドを託してはいないから、何を言われてもへっちゃら、と笑っていましたね」
中居正広は底知れない。'13年に放送された『SMAPはじめての5人旅』のカラオケで『BEST FRIEND』を聴きながら号泣していた姿。この25年間、背負ってきたものの大きさを感じずにはいられなかったが、そこに弱さを見ることはなかった。「自分の弱さ」について、20歳の中居はこう語っていた。
《僕ね、自分の弱いところは人に見せるもんじゃないって思ってる。だから友達にも悩みを相談したりしないで、ひとりで解決しちゃうんだ。わりと自分の感情は抑えるほうなのかもしれないな》(JUNON'93年3月号)
幼いころから人生をSMAPに捧げてきた中居。中野美奈子アナや倖田來未との交際が報じられたこともあったが近年は「結婚願望はない」と口にする。それは、“SMAPのリーダー”という居場所が彼にとって、最大で最愛であったことを物語っているのかもしれない。