津波はさざ波程度だろうと思っていた
「あの日、利用者の白寿を祝う式典があり、片づけていると揺れてきました。震度3くらいかと思っていると、経験したことのない大きな揺れが襲ってきました」
そう話すのは、宮城県岩沼市の海岸から約250メートルのところにあった特別養護老人ホーム『赤井江マリンホーム』(小助川進園長)の生活相談員・我妻信幸さん(34)。
2011年3月11日14時46分、東日本大震災が発生した。激しい揺れの中で、何度も壁にぶつかりながらボイラーの点検に向かった。自動停止しているのを確認した後、ラジオを探す。
「情報を取らないといけないのでラジオを探しましたが、揺れで散らかっていたので、電池が見つかりませんでした。そのため、施設の車のラジオをつけ、大音量にしました。みんなに伝える手間が省けます」
当時の利用者は、特養とショートステイ、デイサービスを合わせて96人。職員は48人。計144人に不安と緊張がよぎった。
施設は平屋建てだったこともあり、職員たちは利用者をすぐにラジオの音が聞こえる玄関先に集めることができた。津波警報が聞こえた。予想される津波の高さは当初3メートルだったが、最終的に10メートルにも及んだ。
施設と海岸の間に松林があり、海が見えない。我妻さんは堤防の高さ(7・2メートル)を知らなかった。
「津波はさざ波程度だろうと思っていた。ただ、念のため避難をするようになるだろうとは考えました」
津波が施設を襲ったのは全員が避難したわずか1分後
ラジオでは、津波到着予想時間を「仙台港に15時40分」と伝えていた。助かるには、この時間までが避難のリミットだと意識した。
小助川園長は仙台市内の会合に出席のため、連絡がつかない。介護職員と話していると10メートルの津波警報とわかり、事務長は約1・5キロ北側の仙台空港に避難すると決め、すぐに指示した。
「公用車をすべて玄関前へ」
職員たちはリフト付きバスなど13台を玄関先に配置した。また毛布や非常食、医薬品、利用者のケース記録を車に詰め込んだ。
ワゴン車は本来、車イス2人乗りだが、その介助者2人のほか8人の利用者を一気に乗せた。この第1陣の車は我妻さんが運転した。
「玄関先に利用者さんたちが集まっていたので、迅速に出発できました」
空港に向かうと最も手前にある橋には地震によって段差ができ通行禁止状態。回り道をして耐震工事をすませていた「相野釜橋」を渡った。この橋も崩れていたら、無事に避難できたかわからない。空港に着いたのは15時10分。玄関前に利用者を降ろした。しかし施設ではほかの利用者が待っている。空港職員に「まだ多くの高齢者が避難してきます」と伝え一目散に戻った。途中、施設の車とすれ違い、橋のことを伝えた。
施設に着くと、市から3台の送迎車が応援に来ていた。再び、仙台空港に着いたのは15時35分。このころ小助川園長は岩沼市に向かって歩いていた。メールを送っていたが、15時37分、ようやく「空港に移送中」との返事が届いた。
「10メートルの津波では堤防を越えることは確実です。ダメかもしれないと何度も不安がよぎりましたが、現場の判断がよかった。ちゃんと逃げてくれると思いました」
津波が施設を襲った時間は、時計が止まっていた15時56分とみられる。全職員が避難した、わずか1分後。間一髪だった。
避難時間を7分に設定していた
デイサービスを利用していた大槻かちさん(89)はバッグが気になっていた。娘にプレゼントされた指輪をはずして現金とともにバッグに入れ、ロッカーに預けていたからだ。しかし職員から「バッグと命、どっちが大事なの!」と言われ避難を優先した。
空港まで避難しても大槻さんは「津波がくるとは思っていなかった」。だが避難先の3階で近くの男性に促され外を見ると、目を疑う光景が飛び込んできた。
「家も流れていた。あのときのことを思い出すと、本当に水は恐ろしい」
車や松林の木が駐車場まで流れてきて、津波は3・2メートルの高さまで浸水した。海上保安庁や民間のヘリなどが被害を受けた。仙台空港は一時、孤立した。翌日、自衛隊の大型ヘリ(50人乗り)で救出する話も出たが、施設ではその後のことを考え、断ったという。
「ヘリに乗る場合、(避難先として)茨城県へ向かうことになるということでした。職員同行も条件。“助かってもバラバラになる”と思い、現場が判断したようです」(小助川園長)
そのため、ほかの避難できる道を探った。我妻さんらが空港内で非常通路を発見し、国土交通省と交渉した。マイクロバスで総合福祉センターへ向かった。
園長不在のなか、なぜ、マリンホームは迅速な避難ができたのだろうか。ひとつは、避難限界時間を決めていた火災避難訓練をしていたことが挙げられる。
「津波想定の訓練は1回もしていません。ただ、年2回の火災避難訓練で、避難時間を7分に設定していた」
時間内に避難することは職員や利用者の中に刻まれていたことになる。
1年前に起きた「チリ津波」の教訓
また最大の要因は2010年2月27日に起きたチリ津波のときの避難経験だ。チリでマグニチュード8・8の地震が起き津波が発生した。翌28日、津波警報が発令。宮城県は「大津波(3メートル)」という予報で事務長が判断し、午前11時40分ごろ、10キロほど内陸にある、認知症グループホームなど3か所へ避難した。
この「チリ津波」では、岩手県久慈港で1・2メートル、宮城県石巻市鮎川で78センチを観測している。
実はこのときは、施設では素早い避難ができず、組織としてのまとまりを欠き、1時間以上もかかってしまった。そのため、反省会を10日後の3月9日に開催、教訓を共有したのだ。
利用者がパニックになるため職員は冷静な対応をすべき、非常食を持ち出せていなかった、利用者のケース記録を持ち出すべきだった、などの声が出ていた。
「チームワークのよさが思わぬところで出ました。チリ津波のときの反省を生かし、震災では犠牲者を出さずにすんだ」(小助川園長)。
震災から3年後、施設(4階建て)は約2・5キロ内陸側で再建した。それまで利用者は別々の施設で生活していた。現在は津波対策で、利用者は2階以上で生活する。避難所になることも想定している。
“奇跡の脱出”は日ごろの訓練と教訓の共有、そして当日の現場責任者の的確な判断が重なり、生まれた。