裏切り者─。
SMAP解散騒動で国民的ヒーロー木村拓哉に捺されたのは、不名誉な烙印だった。
「ダッセーと思うことはやりたくない。カッコつけマンだから、俺」
誤解を恐れずに取材の場でも公言していた木村。メンバーの中で唯一の妻帯者であり、家族のために事務所残留を決意するのは不自然なことではない。「生意気」と言われることはあっても、嘘の嫌いな正義漢として通してきた。その素顔はどんな男なのか。
「あいつは最初からカッコよかった。レッスンを重ねたわけじゃないのに、歌も踊りも上手にこなして。生まれ持った才能を感じたよね。人前では見せないけど、陰でかなり努力してたんじゃないかな」
SMAPのリーダー・中居正広は、出会ったころの木村をこう評していたと女性誌記者が振り返る。木村はスターになりそうなオーラのようなものをすでに放っていた、と。
「最初の印象がすごかったですね。すごいきれいだった。みんな、そのころは元気いっぱいの子どもたちでしたが、その中で木村くんだけは、さっさと色気をつくっちゃった」
木村はどんな子ども時代を過ごしてきたのか。
《オヤジにボコボコ殴られて育ちました。おかげでというか、ものすごく負けず嫌いなんです。たとえば、ちっちゃい頃、オヤジとキャッチボールするでしょう。すっげぇボール投げるんですよ。“取らねーと、痛ぇぞ!”って。もう必死で取るしかないよね》(JUNON'94年9月号)
本人も明かすように負けん気の強い性格になったのは、父親の教育の賜物のようだ。
「習っていた剣道の先生の話では、かなり厳しい稽古でみんな稽古中に泣くんだけど、木村くんは泣いても向かってきた。倒れても竹刀を離さない。そういう根性があったとか」(前出・女性誌記者)
木村の母親は雑誌の取材にこう明かしている。
《中学のころ、同級生の女の子のお母さんが亡くなったんです。“料理の仕方がわからなくてかわいそうだから、教えてあげて”って家に連れてきたことがありました》
中学時代は体操部の花形、女の子にもモテた。将来は獣医を夢見ていたという木村の転機は中学3年生。叔母が知らないうちにジャニーズ事務所に写真を送り、連絡が来て家族は騒然となった。本人は、芸能界に興味はなかったが。
「断りに行ったのに、“ちょっと踊ってみて”と言われたそうです。で、やってみたらできなくて。ほかの人はカッコよく踊ってるのが悔しくて、やる気になったんだとか」(テレビ局関係者)
週1回のレッスンに通い始め、その年の暮れには前身のスケートボーイズの一員に。翌年3月にはSMAPとしてアイドル誌のグラビアに登場していた。ジャニーズに入っても“エリート”だった。
はじめて味わった挫折
そんな木村が初めて挫折を味わったのが、17歳のときに出演した蜷川幸雄さん演出の舞台『盲導犬』だった。主人公の男性とホモセクシャルな関係になるフーテンの少年という役柄の難しさもあったが、蜷川さんの木村に対する要求は高かった。ひとつのセリフに何十回もNGが出て、そのたびに稽古が止まる。生前、蜷川さんが回想している。
「完璧にうつ状態になって稽古場の陰から出て来なくなったことがあった。だけど拓哉は強がりだから、何もなかったかのような顔で、また稽古を続けた。あいつ才能ありますよ」
木村自身も当時のことを、
「すっごい悔しかった。稽古場ではトイレと友達になっちゃってね。休憩時間や終わったあとは、ひとりでトイレに入って……ずっと泣いてた」
と振り返っている。
その後、『あすなろ白書』(フジ系)の取手役で一躍ブレイク。お調子者だけど、一途になるみ(石田ひかり)にアタックする姿、なるみを背中から抱きしめるシーンは“あすなろ抱き”と呼ばれ、憧れる女性が続出した。
当時、プロデューサーだった亀山千広フジテレビ社長は、クールに見えた木村をあえてメガネをかけたお調子者の役にしたという。
自分の役に驚いたはずの木村だが、亀山氏のメガネを取り上げてかけると、「僕、メガネが似合うんですよ」と、おどけてみせた。
雑誌『an・an』の「抱かれたい男№1」に選ばれるようになったのもこのころ。日本中が木村の言動に注目する中、彼はテレビ番組の中でさらりと「彼女くらいいますよ」と発言。元モデルの“カオリン”のことである。
「トップアイドルが恋人の存在をはっきり認めるなんてありえなかった時代です。あとで事務所からこっぴどく怒られたそうですが、木村くんは“別に悪いことをしてると思わない”と平気な様子でした」(テレビ誌記者)
堂々とデートをし、何度も報じられたが、その振る舞いに好感を持つ人は多く“カオリン”はファン公認の恋人となっていく。'99年の破局の際もマスコミ各社にFAXを送り、彼女の両親にも直接会って筋を通したと報じられた。9年間という長い交際だった。
しかし、ほどなくして工藤静香との交際が発覚する。共通の趣味であるサーフィンを通じて親密になった2人。
「木村くんがもともと静香さんのファンだったこともありますが、サーフィン仲間から“姉御”と慕われる飾らない性格や、料理がプロ級にうまい家庭的な面などにますます惚れちゃったみたいですね」(前出・テレビ局関係者)
そして'00年11月23日、木村は会見を開き、工藤の妊娠4か月と結婚を報告した。
「今はとにかく幸せ」と笑みを浮かべて話す木村に「堂々としていてカッコいい」という声も聞かれたが、女性ファンの多くは悲鳴をあげた。
「“別れないと不幸になる”“殺してやる”“お腹の子をおろさなければ突き飛ばす”などと書かれた脅しの手紙が大量に届いたそうです。そんな心労が重なって静香さんは体調を崩し、入院したことも」(スポーツ紙記者)
木村の言動の影響力は絶大だった。主演するドラマは軒並み25%を超える視聴率。劇中で使ったダウンジャケットやブーツなどの商品は飛ぶように売れた。
演じた検察官やパイロットの就職志望率が上がり、「ぶっちゃけ」「よろしこ」などドラマのセリフが流行語に。ドラマで使われたバタフライナイフによる事件が起これば木村の影響と騒がれる始末。時代が木村を求め続けたといっても過言ではない。
ドラマやCMに出演する際も、用意されたものをこなすだけでなく企画の段階から参加し自分の意見を言う。
《ちゃんと材料から仕入れして包丁持ちたいし、炒めてみたいし、皿だって洗いたいし。だからそういうところにも口を出しちゃうんだと思う》と当時の取材に答えている。
コピーライターの糸井重里氏も木村のセンスに惚れ込んでいるひとりだ。
《彼の企画力、これがあきれるほど鋭い。コンサートでギターのピックを投げるにしても、木村はいったんピックを口にくわえて、髪をかき上げてから投げるんです。あれは演出なのか、無意識なのか?》(週刊文春'95年8月10日号)
一方で、2児の父となってからも“当たり障りのある”言動はおさまらなかった。
'05年、大阪でのコンサートで稲垣吾郎が男性ファンからしつこく野次られると、「うるせぇよ、ボケ!」とマジギレ。ドラマ『プライド』(フジ系)の撮影中、木村の打ったアイスホッケーのパックが女性ファンに命中し、ケガを負わせたこともあった。しかし、いずれも本人が謝罪している。
「木村はぶっきらぼうで……。すごく不器用なんだと思うんです。初対面でペラペラしゃべれるタイプじゃない」
常に熱く自分流を貫くため、誤解を招くことも多い木村に対し、元チーフマネージャーのI氏はいつもそんなふうにフォローしていた。
これまでに幾度か木村がジャニーズ事務所から独立するという噂が浮上したことがあった。最初に独立の噂が立ったころのインタビューでは、
《ケンカして別れるのも成長じゃないですか。時間が経つってことは何らかの形で成長してることだと思う。ケンカしたときの気持ちっていうのはケンカしたときにしかわからないんだから。これは自分だけの考えかもしれないけど、俺はそれも成長と呼びたいな》(JUNON'96年7月号)
メンバーに背を向けてでも、事務所に残る。彼はどんな思いでそう決意したのか。SMAPとして生きた28年間は、いつも自信に満ちた“成功者”であり、時代の風は彼を後押しした。その瞳に曇りはなく、選ぶ道は正しい道。誤算はなかったはずだった。しかし、時代の足並みにも少しずつズレが生じてくる。
彼の“決断”が導く行き先はどこなのか。いまはまだ語らない「本当のこと」を聞ける日を待ちたい。