瀬戸内海に浮かぶハート形の祝島(いわいしま)。人口約400人、西に大分県の国東半島、東に愛媛県の佐多岬、北に山口県の熊毛半島を望む越境的な島だ。太平洋から豊後水道を通り瀬戸内海へ入る海流が、周防灘と伊予灘へ分かれる潮の境でもある。古来、海上交通の要で、近海は豊かな漁場だ。
その海が2011年の福島第一原発事故前、まさに埋め立てられようとしていた。祝島から約3・5㎞対岸にある上関(かみのせき)町田ノ浦は、中国電力の原発建設予定地なのだ。出力約140万kwの原子炉2基。2号機の炉心は海を埋め立て配置する。
だが計画浮上から34年、予定地に原発はない。海もそのまま。祝島の人びとが声をあげ続けているからだ。裏を返せば、3・11後も新規立地の計画は延命。第二次安倍政権の発足後、漁業補償金の強要が再開した。
県漁協本店が「原発のための漁業補償金受け取り」を強行採決
'13年2月、山口県漁協祝島支店が「上関原発のための漁業補償金受け取りへ」と報じられた。だが、祝島では「原発のカネは受けとらん」という声が根強い。漁師も約10億8000万円の漁業補償金の受け取りを拒んできた。周辺漁業への補償なしに、原発を造ることはできないからだ。
だからこそ受け取りに向けた動きは巧みで、拒み続けた例は少ない。ただ祝島は'12年2月、「もう漁業補償金の話はしない」とまで決議している。
話を聞くと、'13年2月は山口県漁協本店が招集した祝島支店の会合で、十分な説明なしに県漁協の主導で採決、受け取り賛成が多数とされたとわかった。県漁協は、組合員から事前に交付請求があっても定款規約を出ししぶり、組合員が決めるべきことにも介入するなど規約違反の手続きで、採決を強行していた。
早くも6月には、県漁協が配分案を作ってきた。「拒否」を何回議決しても再採決を迫られたのが、「賛成」の議決は1回で配分案までできる。納得できない祝島の人びとは発奮した。
「絶対に受け取らん。海は私らのものじゃない」
「誰の海でなし。みんなの海じゃから、守らんと」と、一本釣り漁の岡本正昭さん(67)。「絶対に受け取らん。海は私らのものじゃない」。女漁師・竹林民子さん(73)も決意をにじませる。公務員を定年退職し、島内のさまざまな役を担う藤本芳子さん(76)は「漁師だけの問題じゃない」と話す。奔走が始まった。
牽制するように、外部から懐柔や脅しが続いた。もっとも女性の多くは動じない。'10年1月から'11年3月半ばまで田ノ浦へ毎日交代で通い「中電に言われ慣れちょる」のだ。
県漁協は、配分案の採決のため会合を4回招集したが、いずれも延期した。4回目の'14年3月は祝島総出で船着場に人があふれ、県漁協は船着場の階段を数段上っただけで帰った。
5回目の招集は'15年4月。初めて島外の会場となった。漁業補償金を拒む祝島の漁師は、定款規約にのっとり書面で議決権を行使することにした。荒天で船が出ない場合の備えだろうか。原発事故の避難計画など、祝島には空論とわかる。
だが県漁協は書面を受理しない。「定款を守れ」と声が飛ぶ。祝島の漁師は粘った。最終的に書面は受理され、配分案は否決された。漁業補償金の強要を2年がかりで押し返したのだ。
脅しと暴行に抵抗「引いたら負け。絶対に引かん」
埋立免許をめぐり、山口県もブレだした。県は'08年、上関原発のための埋立免許を中電に交付。だが'09年9月の着工の際、祝島を中心に各地から人が集まり、現場で抗議の声をあげた。
「上関の計画は僕が生まれる前からあり、僕の意見を聴いてもらう機会もなく工事強行となった。最後の表現行動の場として、埋め立て現場の田ノ浦があった」と広島県で農業をする岡田和樹さん(30)は語る。
中電は強硬だった。クレーンで宙づりにされた人もいる。岡田さんは暴行され、救急搬送され入院した。岡田さんを含む4人の住民は裁判で訴えられもした。住民の抗議を「妨害」と呼び、損害を受けたので賠償金約4800万円を支払えと、中電は主張したのだ(後に約3900万円へ減額)。典型的なスラップ──国や大企業が、反対する市民を裁判で訴え、脅しで口を封じる恫喝訴訟だ。嫌なことを嫌と言う自由を損ない、憲法が保障する表現の自由を掘り崩す。
ただ、中電の意図に反し、4人に恫喝は効かなかった。祝島の女性たちも怯むどころか、田ノ浦へ連日通いだした。'11年2月、埋め立て工事を一気に進めようと大量の台船や作業船、警備員や作業員を中電が田ノ浦へ派遣した際も、美容師の橋本典子さん(57)はダイバースーツを着込み、サーフボードで海へ漕ぎ出した。中電が小船でオイルフェンスを引っぱり、田ノ浦の湾を封じようとしたからだ。「引いたら負け。絶対に引かん」と2月の海で半日以上、典子さんは湾封鎖に抗った。
繁忙期だった民子さんは、「夜は磯へ行ってひじき狩り、朝戻ると田ノ浦へ行って浜でゴロンと横になった」と笑う。いのちの海が育むひじきを薪で釜炊きし、風と天日で干す。祝島の海山の恵みの結晶だ。それを受け継ごうと、文字どおり不断の努力だった。
恫喝訴訟が、住民側の勝利的和解で決着
福島第一原発で事故が起きたのは、総攻撃のようだった工事態勢が沈静化したころだった。工事は一時中断され、免許を出した二井関成元知事は「免許延長は許可しない」と言明。'12年夏に就任した山本繁太郎前知事もそれを踏襲した。
ところが'12年10月、失効直前に中電が免許の延長許可を申請すると、前知事は不許可から判断先送りへ転じた。現在の村岡嗣政知事は、それを引き継ぐと言っていた。だが今年8月3日、唐突に延長を許可。上関原発が国のエネルギー政策に位置づけられていることを中電は説明したから「公有水面埋立法に基づき許可するほかない」と釈明した。
一方で、9月の山口県議会では「'12年10月の中電の延長許可申請には正当な事由がなく、不許可にせざるをえない」と真逆の指摘もあった。'12年9月に閣議決定の「今後のエネルギー・環境政策について」に明記された「革新的エネルギー・環境戦略」の原則は「原発の新設・増設は行わない」であり、上関も適用対象だと経産相に指摘されていたからだ。戸倉多香子県議はそう話す。
延長許可と同時に出た設計変更許可についても、漁師の家に育った戸倉県議は安全性を疑問視する。
「上関に近い周防大島は上関同様、県の想定津波高は3mほどだが、162年前に16mの津波が来た伝承がある。原子炉敷地の地盤高を5m嵩上げして15mとしつつ、護岸設計で考慮した津波高は4・6mのまま設計変更なし。十分なのか」
1982年に女性が始めた祝島の原発反対デモは3・11後も続き、まもなく1300回となる。次々に危機は起きるが、そのたびに、当事者になる人も増えている。表現の自由も問われる恫喝訴訟で、特に顕著だ。
その恫喝訴訟が8月30日、住民側の勝利的和解で決着した。中電は損害賠償請求を全額放棄、工事が再開されても、訴えていた4人の表現行動を尊重するという。
「市民の力が世の中の流れを変えることができるという希望だ。抗議行動は間違っていなかった」と岡田さん。あきらめずに声をあげる限り、それは広がる。
<プロフィール>
取材・文/山秋 真
ノンフィクションライター。神奈川県出身。石川県珠洲市、山口県上関町と原発立地問題に揺れる町と人々の姿を取材。近著に『原発をつくらせない人びと―祝島から未来へ』(岩波新書)がある