——ゲスの極み乙女。・川谷&ベッキーの不倫騒動にはじまり、2016年も『週刊文春』によるスクープが炸裂していますね。元文春記者の目にはどのように映っているのでしょうか?
「いまでこそ、週刊文春すごいですね、という評価がついてきました。でもね、20年前はそうじゃなかった。週刊誌自体が嫌われる存在でした。ろくに取材もしていないのに書き飛ばしやがって、と。
でも、僕ら週刊誌の記者というのは、一生懸命汗をかいて、裏を取った仕事をしているんです。たとえそれがどのような取材対象であっても、与えられた仕事に対しては全力でやるし、結果を出そうと、それこそ地を這いつくばってやっているんですよ。日々のそうした努力があるからこそスクープもとれるわけです」
——たとえ世間からはゲスだと思われる記事でも、その裏には記者たちの絶え間ない努力があると。
「ええ、こんなゲスみたいな話をよくもまあ…といった言い方をされることも多々あります。だけど、僕は実際に取材をした記者たちの気持ちがわかるから、世間からそういう言い方をされる記事でもリスペクトしていますよ。同じ週刊誌の記者たちには、常にエールを送っています」
——そうした記者たちのなかでも、中村さんが突出して活躍できた背景には、何か特別な努力があったのでしょうか。
「僕はすごく文才があるわけでもないし、賢いわけでもない。人間関係だって、そんなに得意なわけでもないです。何ができるのかといえば、人一倍努力するしかなかったんですよね。
そもそも、スポーツ紙や新聞社の番記者たちに比べ、週刊誌の記者というのは、仲間外れにされてしまうんですよね。普通の手段では取材をさせてくれない。だから、始発から終電まで聞き込みや張り込みもしました。そんなのね、頭が悪くないとできないですよ(笑い)。
でもそういった恵まれていない環境でも、頑張ってやっていれば、運命の扉が開く瞬間があるわけです。これはきっと記者だけではなく、どんな仕事でも同じだと思います」
——聞き込みや張り込みをなさってきたいうことですが、情報を集める際、中村さんがとくに意識していることはありますか?
「人に会うことと、現場に行くこと。まずはこの二つです。ネットの場合は、鵜呑みにすると痛い目をみることが多い。お茶をするなり、ご飯食べたり、そうしたことのなかからの方が、きちんと質量を感じる情報を手に入れられることが多いんじゃないかなと思います。
だから、実社会で人と会ってコミュニケーションをとり、情報をとってくるような仕事をしている人は、これからもっと活躍するようになるんじゃないかな。上辺だけの情報ではなくて、リアルな情報をとってこれるということは重要ですよ」
——中村さん自身がとってきた、そのリアルな情報のなかには、ジャニーズにまつわるものもあったようですね。
「ジャニーズと僕には因縁があるんですよ。ジャニー喜多川社長の"ホモセクハラ疑惑"は、『週刊文春』がキャンペーンをはって取材をしていましたからね。1999年かな。もちろん僕も取材をしていました。結局、裁判になって、同性愛行為をされた少年を法廷に連れて行き、証言してもらいました。
そして、最高裁で社長がそういった行為をした事実が認められたんです。だから僕は、ジャニーズにしてみれば、もっとも嫌いな敵かもしれませんね。けれど、僕はジャニーズのタレントさんのことを嫌いではないんですよ。
もちろん、それよりも重要なのは、そんな重大なことなのにもかかわらず、ほかのメディアがオール無視したということ。事実はもちろん、少年たちがどのような目にあっていたのか、どこも報じませんでした」
——少年少女に対するわいせつ事件が話題になっている昨今、そうした重大なことをメディアが黙殺している日本という国は、ある意味異常ですね。
「ええ、その状況は1999年からいまだにまったく改善されていません。欧米では考えられないことですよ」
——いわばタブーとなっている事柄に正面から一人ぶつかっていった中村さん。タブーに触れたことで危険な目に遭遇したこともあったのではないですか?
「ええ、忘れもしません。2010年のクリスマス・イヴの夜のこと。うまい具合にはめられたんです。
ジャニーズとの折衝をいつもしてもらっていた、とある法律事務所の弁護士さんに言葉巧みに連れて行かれて、ジャニーズの会議室で大勢に囲まれちゃってね。6時間。お茶もでないんですよ(笑い)。
それに、こっちは弁護士を連れてきていないし、不用意なことを喋ることができない。お互いICレコーダーにとっているのでね。そんな我慢比べのようなこともありました」
——目の敵にされていますね。
「僕は、木村拓哉のSMAPからの独立を報じたこともありましたからね。これも1996年のことです。当時、キムタクはSMAPで図抜けて人気があったから、独立しようとしたんですよね。
お父さんが川島織物という会社に勤めていたんですけど、キムタクの写真集を川島織物の子会社から出したんですよ。実際にそういう具体的な動きがあったものだから、本当に芯を食ったようなことを書いたんです。
そしたら記事が出た途端、キムタクがテレビ番組に突然現れ、どこの雑誌かは名指ししないものの、私が書いた記事は間違っているというようなことを長々と説明。そんなこともありました」
——今年の12月31日に解散するSMAP内の軋轢は、その頃からすでに生じていたのでしょうか?
「発端はここから始まっていたんでしょうね。キムタクは独立もしようとしたし、結婚もした。だけど、香取クンも稲垣クンもそれぞれお付き合いしていた人たちと本気で結婚しようと思っていたのに、許されなかった。
だから今回のSMAP解散騒動も、突発的に飯島さんに可愛がられていた香取クンがクーデターを起こしたわけではないと思うんですよね。長年にわたる小さな切り傷の積み重ねが、大きな溝になっていったんじゃないでしょうか」
——これからもジャーナリストとして生きていくという中村さん。長年の経験を振り返り、いま改めて思われることはありますか?
「さまざまな人と会って、そして事件やスキャンダルを見てきて思うのは、世の中、自分のやりたいことをできている人はほとんどいない、ということです。
会社や組織の人間は、ある部署に配属されたら、たとえ能力に欠けていても、いや応なしにその仕事をするわけです。
あるいは、会社勤めをしていなくても、嫌だなと思う仕事はたくさんあります。だけどその仕事を一生懸命やって達成感を感じるしかないんです。
そして、たとえば記者をやっていて、ときに大きなスクープをとったならば、ひとりでしみじみとその達成感を噛み締めればいい。あのときこうだったからと、長年にわたって過去の自慢話をすることは、ちょっとカッコ悪いような気がするんですよね」
週刊誌の記者、そしてジャーナリストとしての誇りが伝わってくる中村氏の言葉であった。
《構成・文/岸沙織》