平幹二朗さんの遺影
シェークスピア劇やギリシャ悲劇など舞台を中心に活躍し、多くの映画やドラマにも出演。生前「引退という文字は僕の中にはない」と話していたように、亡くなる直前までドラマにも出演していた平幹二朗さん。プライベートでは自宅周辺のお店で買い物をする姿がよく目撃されていて、地元でも愛されていたという。当然、突然の訃報に涙する住民も多く―。

「ありがとう。お疲れさま」

 10月28日に営まれた平幹二朗さんの告別式には北大路欣也をはじめ三田佳子、富司純子、渡辺謙・南果歩夫妻など芸能界の大御所や現在放送中の“月9”で共演していた山田涼介など600人を超える弔問客が訪れた。

 前日の通夜では佐久間良子が涙を浮かべながら遺影に向かって、冒頭のように語りかけた。'84年に離婚した元妻で'04年に舞台で共演して以来、12年間会っていなかった。

「ドラマの共演で知り合ったふたりは、'70年に結婚して'74年に男女の双子が生まれます。男の子のほうは、俳優の平岳大です。今年7月に結婚した彼は12月に披露宴を行う予定だったので、久々に親子が顔を合わせるはずだったんです」(スポーツ紙記者)

 過去に肺がんで手術を受けたこともあるが、転移もなく健康状態は良好だった。今クールの月9ドラマ『カインとアベル』(フジテレビ系)にも出演するなど直前まで元気だっただけに、突然の死に衝撃が広がった。

左上から三田佳子、北大路欣也、栗原小巻

「平さんは俳優座で役者の勉強を始めた本格派です。人気が出たのはドラマ『三匹の侍』(フジ系)からでしょう。五社英雄監督が演出を手がけた痛快時代劇で、斬新なアクションが人気を呼びました。画面映えする長身の平さんにはハマり役でしたね。

 NHK大河ドラマでは、『樅ノ木は残った』と『国盗り物語』の2作で主演を務めています。舞台では『ハムレット』『マクベス』などで主演し、シェークスピア俳優としても第一人者でした」(映画ライター)

 年齢を重ねて演技には深みと凄みが増していく。堂々たる大御所だが、尊大な振る舞いを見せることはなかった。

「月9の撮影では、若手はさすがに近づきがたかったようです。なかなか話しかけられずにいましたね。平さんはおしゃれな人で、服や靴にはこだわりを持っていました」(テレビ局関係者)

 劇団出身ということで、友人には舞台関係者が多かった。

「30代のころは、よく後輩を引き連れてゲイバーに通っていましたね。新宿二丁目に足しげく通い、ママと会話を楽しんでいたそうです。ゲイバーのママは話術が達者なので、芝居の勉強になると考えていたようです」(前出・映画ライター)

 長男の岳大は高校時代にアメリカに留学してそのまま大学に進学。帰国して投資顧問会社に勤めていたが、27歳になって役者の道を目指す。昨年行われた雑誌の父子対談で、平さんはこのころ抱いていた悩みを語っていた。

《古典芸能なら家の芸とか心構えを伝えられるけど、現代劇は確立されたメソッドがないから、俳優本人の生き方や情熱を伝えるぐらいしかできない。僕は演ずることしか才能のない役者バカタイプ。岳はコンピュータも語学もできるから、まったく違う俳優になってほしい。僕から学んでほしいものは何もない》

 父の思いを受け止め、岳大は着実に俳優として成長していった。

喪主を務めた平岳大は「父は幸せだったと思います」と語った

「今年の大河ドラマ『真田丸』では、武田勝頼を演じて強い印象を残しました。これまではあまりいい扱いをされていなかった人物ですが、彼の演技で新たな側面が見いだされたんです。大河ドラマ常連だった平さんは、息子の熱演がうれしかったでしょうね」(テレビ誌ライター)

 平さんが暮らした自宅の近所では、2人で食事をしている姿がたびたび見かけられている。岳大は父と一緒の時間を過ごすことで、役者にとって重要なことを学んでいったのだろう。この街で話を聞くと、平さんの気さくな日常の姿が浮かび上がってきた。

「ひとりで街を歩いているところをよく見かけましたよ。この間は、スーパーで買い物をしていました。大根やネギなどの野菜を買っていましたね。

 スーパーにはちょくちょく顔を出していて、いつもお野菜中心でした。健康に気を配っていたんでしょうね。お元気そうな様子だったので、亡くなったなんて信じられません」(近所の50代女性)

 青果店では、いつも買うものが決まっていた。

「月に数回来ていただきました。よくアボカドを買っていたので、“今日もアボカドですか?”と聞くと、平さんは笑いながら“いやいや、今日は違うものだよ”と笑っていたことも」(店員)

 たまには焼き鳥を買うこともあり、店員に“ひとりだから数が少なくてごめんね”と言っていたという。よく通っていたのは、駅前にあるかまぼこ専門店。

大好物だった“かまぼこ”と“きびなご”

「去年のオープン初日から通っていただいています。お昼ごろに来られることが多く、買うのは決まって“かまぼこ”と“きびなご”。亡くなる前の週の水曜日は珍しく閉店間際にいらっしゃって、しばらく月9の話をしました。大きな声をあげて笑っていたのを覚えています」(店員)

 自宅の近くにあるバーにもちょくちょく顔を出し、ギムレットやワインを飲んでいたという。

「1時間ほど飲んだら帰る感じでした。夕食の後、寝る前にカクテルを飲みたかったのでしょう。息子さんとマネージャーさんを連れてこられたこともあります」(店主)

 行きつけの蕎麦店もあった。平さんはいつも自転車に乗ってさっそうと現れた。

「ダンディーで、とても80代には見えませんでした。銀色の靴をはいていたりしておしゃれでしたよ。白ワインを飲みながらおひたしや煮物などを召し上がっていました。野菜がお好きでしたね。冷たいお蕎麦で締めるのが決まりでした」

 平さんは、80歳を迎えた'13年に行われた雑誌のインタビューで、仕事と日常生活についてこう語っていた。

《毎日の暮らしを一生懸命することで、“今日もいきているぞ”と実感するんです。おいしくご飯を食べて、少しお酒を飲み、夜は台詞を覚えて、毎日仕事ができる。そういう人生の第一ステージをいつまでも続けていきたいです。

 僕の中に引退という言葉はありません。人生の第二ステージはないと思っています。第一のステージをずっと続けて、舞台の上でパタッと死ぬことができたら幸せですね》

 言葉どおり人生という大舞台を演じきり、満足して旅立っていったに違いない。