(ジャーナリスト渋井哲也+『週刊女性』取材班)
「子どもを返せ!」
市議会の様子を傍聴していた遺族のひとりが悲痛な叫びを上げた。
東日本大震災による津波で、児童74人と教職員10人の計84人が犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校。当時、学校にいて助かったのは児童4人、教員1人。その際の避難行動に、安全配慮義務違反があったなどとして、児童23人の19遺族が県と市に総額23億円の損害賠償を求めた裁判で、仙台地裁は10月26日、学校側の過失を認めて約14億3000万円の支払いを命じた。
遺族側勝訴の画期的な判決。'14年3月の提訴から2年半以上を経ての結果だった。しかし、石巻市は判決を不服として控訴することを市議会に提案し、チェック機能を果たすべき市議会もまた賛成多数で可決した。
判決が近づくと“負けたらどうしよう”と不安に
生活再建に取り組む遺族にとって、裁判を同時進行することがどれほど大変だったか─。
判決前、6年生の長男・大輔くん(当時12)を亡くした原告団長の今野浩行さん(54)は、精神的なプレッシャーから身体に変調をきたしたという。
「当初は自分たちが負けるはずがないと思っていましたが、判決が近づくと“負けたらどうしよう”と、眠れなくなり、動悸も感じてきました。検査をしたところ“不整脈”でしたが原因は不明です。ストレスがあったのでしょうね」
同じ6年生の三男・雄樹くん(当時12)を亡くした佐藤和隆さん(49)も眠れない日々が続いた。
「“自分たちが(裁判に)負けるわけはない”と思っていましたが、不安は感じていました。万が一ということもありますので、熟睡できなくて……。数時間ごとに目が覚めました。晩酌したら朝まで起きないような人間なので、いつもならありえない」
“裏山に登りますか?”と教頭に進言した教諭もいた
判決は、教職員には津波襲来の予見性があり、避難場所の選定に過失があったことを認めた。判決によると、宮城県の浸水予測では大川小に津波は及ばないとされていたことから、教職員たちは避難してきた地域住民の対応をしつつ、ラジオで情報収集していたという。
市の広報車が午後3時半ごろに学校前を通過し、津波が北上川河口付近の松林を越えたため、高台への避難を拡声器で呼びかけた。教員らはこのアナウンスを聞いていた。
ところが直後、避難のために約150メートル離れた河川堤防近くの小高い丘に向け、教職員と児童は出発した。そして約7分後、津波は大川小に到達した。避難途中の児童・教職員はのみ込まれた─。
最大の焦点は、大川小に津波がくることを教員たちが知り得たかどうか。判決は、市の広報車が呼びかけた時刻には予見できたと認めた。
津波襲来直前の7分間が悔やまれる。今野さんによると、裏山への避難も選択肢にあがっていたという。
「広報車が呼びかける前に津波警報が鳴り、ラジオ放送を聞いています。現場にいた教職員は、地域区長に“裏山は登れますか?”と聞いています。また津波で生存した教諭も教頭に“津波がくるので裏山に登りますか?”と進言したことがわかっています」
しかし、現場にいた教職員らが裏山に逃げることはなかった。
事前対策や事後対応についての責任
行政側の対応にも遺族は不満を爆発させている。
災害対応マニュアルの不備や津波想定の避難訓練の事前対策を怠った。生き延びた教諭と校長は、学校で連日行われた不明児童の救助・捜索活動へ参加しなかった。さらに市の教育委員会は、震災当日の現場状況を知るために児童から聞き取ったメモを破棄していたことも発覚。
しかし判決では、そんな行政側の不誠実な対応には触れられず、勝訴といっても遺族にとっては100%満足といえる判決内容ではなかった。
「原告としては納得できません。事前対策や事後対応について責任を認めていません。私たちの主張が認められたのは“遅くとも午後3時半には津波襲来を予見できたこと”と“裏山に逃げられたこと”だけです」(前出・今野さん)
また、判決を聞いた佐藤和隆さんは、他の原告の前でこらえきれずに涙を流した。
「納得いきません……。津波がくる7分前の広報車が呼びかけた時点で予見できたとなっていますが、もっと前に行動できたはず。いや、しなくてはならないでしょう。そのためには事前対策が必要なのに、判決では考慮されてない」
“勝訴 子供たちの声が届いた!!”と書かれた紙を持って法廷から出てきた原告団・副団長を務める佐藤美広さん(55)は、3年生の長男・健太くん(当時9)を亡くしている。表情は硬かった。
「“(裁判長は)自分たちを見てくれていた”と思ってホッとしましたが、勝ってよかったという気持ちはありません。宮城県は地震が必ずくると言われていました。教職員は防災の研修もしています。警報が出たのですから、それなりの行動をとらないといけないはずです。津波がくるのになぜ川の堤防に近づいたのでしょうか」
国の地震調査研究推進本部の長期評価によると、宮城県では30年以内の海溝型地震(連動型の場合はマグニチュード8・0)の発生確率は99%という結果が出ていた。事前準備で不十分な面があったのは明らかだ。
避難場所について大川小の災害対応マニュアルには、津波の場合の避難先は「近隣の空き地・公園」とある。校長は証人尋問で「体育館裏の児童公園」と証言した。
「そのとおりに避難もしていません。避難していれば(目の前の)裏山に逃げることができたはずです」(前出・佐藤美広さん)
と残念がるが、その思いが通じたのか、判決は学校側の責任を認めた。佐藤美広さんは仏壇に判決文を置き“これで(健太くんと)一緒の墓に入れる”と安堵したという。
遺族のひとりである今野さんは、仏壇の前で大輔くんにどんな話をしたのか。
「手を合わせましたが、報告するものはないわけさ。判決では、避難できなかった理由がわかりません。事前対策や事後対応のことも指摘していません。今後も避難の検証はしていくしかないです」
控訴に反対した議員、賛成した議員の言い分
しかし、そんな遺族の気持ちとは裏腹に市は2日後に控訴する方針を示す。石巻市議会は判決直後の10月30日に臨時会を開いた。原告の遺族たちは前日までに、各議員に対して控訴に反対するよう求める文書をファクスで流した。
「審議当日も、議員の駐車場の入り口でプラカードを下げて、最後のアピールをしたんです」(前出・今野さん)
臨時会で亀山紘市長は控訴理由を次のように述べた。
「大川小学校自体が指定避難所になっていました。教員が小学校に大規模な津波がくることを予見することは不可能でした。また、午後3時30分からのおよそ7分間で、崩壊の危険がある裏山に、児童のみならず高齢者を含めた100人以上の全員が無事避難できたとは考えられません」
つまり市側は、大津波襲来の予見性も、裏山へ避難しなかった過失も、市としては認めがたいという主張だった。これでは一歩前進どころか振り出しに戻ってしまう。
さらに臨時会の審議は、遺族に対して“面従腹背”ともいえる展開をたどる。
控訴に反対する議員は「遺族をこれ以上苦しめることなく控訴を取り下げるべきだ」「行政として遺族の心情を鑑みることが大事だ」など、遺族に寄り添うべきと意見した。それに対して市側は「判決は津波で亡くなった教職員に責任を負わせるむごい内容」「今後の学校防災に影響が出る」と答弁。議会側が市側を追及しているように見えたのだが、採決を行うと賛成16人・反対10人で控訴方針が可決されたのだ。
賛否は最大会派『ニュー石巻』でも判断が分かれた。その1人、森山行輝議員は控訴に反対した理由をこう語る。
「“今後も生きるはずだった子どもたちの命がなぜあの場で亡くなってしまったのか”“本来なら生かされる命だった”というのが遺族の方々の思い。学校に子どもを預けているということは、子どもの命も預けているということです。学校で亡くなったのですから、その重みをどう考えるかということです」
森山議員は続ける。
「いまだに遺体が見つからないお子さんもいて、その親御さんは今でも毎日探しているんですよ。それを考えたら控訴して、また何年も国と闘うという状況にするのは適正だとはどうしても思えない」
一方で、同じ会派でも控訴に賛成した阿部正春議員は、
「われわれ被災者からしても予見できたとは思えないんですよ。できなかったから何万人も亡くなったんですから。自然災害と言ってしまえばそれで終わりですが、いちばん大事なのは子どもたちの犠牲を無駄にしないこと。三審制なので最高裁までいってはっきりと真実を知り、今後このような悲しいことが起こらないよう防災に生かさなければならないと思いました。控訴に踏み切ったのは感情的なことではなく、真実をより明確にしたいと思ったからです」
ただ、臨時会では賛成議員から意見が出なかった。そのことに佐藤和隆さんは「違和感を覚えました」と話す。
「控訴は認められた権利ですが、理由が納得できません。“先生たちに重荷”“先生の遺族に負担”など、亡くなった先生たちの名誉回復のためと思えてなりません。亡くなった子どもたちとその遺族のことは話にあがらなかった」
子どもが亡くなったことの重み、遺族への配慮が感じられないと憤る。
「これでは子どもたちの命が危なくても先生は自分の身の安全を確保して逃げてもいいととらえられかねません。子どもの命は誰が守ればいいのですか」(前出・佐藤和隆さん)
今野さんは「怒りしかありません」と感情を高ぶらせた。
「(控訴の案件は)市議会では可決されると思っていました。賛成討論がないのは作戦で、あえて言わなかったのではないでしょうか。選挙で1票を投じた議員が賛成に回ったという遺族もいて、かなりショックを受けていました」
石巻市に続き宮城県でも控訴の方針
宮城県も石巻市に同調して控訴する方針を示した。村井嘉浩知事は10月31日の会見で「教職員はあの段階で知り得る限りの情報で最大の選択をしたと考えています。判決は教員の責任を重くしてしまっているという点がたいへん残念に感じている」と述べた。
遺族は、今後も裁判で過酷な闘いを続けることになる。
1審の勝訴によって「(健太くんと)やっと同じ墓に入れる」と話していた佐藤美広さん。控訴が決まった直後、声を詰まらせながらも仏壇の息子に語りかけた。
「健太、もう少し頑張んないといけない……」
<プロフィール>
渋井哲也
長野日報社の記者を経てフリーに。若者の生きづらさ、自殺、依存症、ネットコミュニケーション、東日本大震災の被災地取材も続ける。新刊『絆って言うな!』(皓星社)