'98年の若乃花以来、19年ぶりの日本生まれの横綱となった稀勢の里。高校には進学せず相撲の道に入り、その後15年かけて獲得した横綱の地位。15歳の少年が抱いた親元を離れる直前の思いとは。地元の同級生やなじみの店主たちが語る横綱・稀勢の里寛の素顔、まだ少し身体の大きい、どこにでもいる少年だった男の話──。

伝達式での稀勢の里は「横綱の名に恥じぬよう精進」というシンプルな口上だった

気は優しくて力持ち

 ついに稀勢の里が横綱となった。栄光を「あと一歩」で逃し続けて5年。大関昇進から31場所での綱取りは歴代で最も遅い。その“苦労人”ぶりから期待と注目は大きく、1月27日に行われた奉納土俵入りには、'91年の千代の富士の1万人を大きく上回る1万8000人の見物客が集まった。

以前、千秋楽後の祝賀会に、近所の人を招待してくれたことがありました。先代の鳴戸親方(元横綱隆の里)はカラオケを熱唱していましたが、稀勢の里関はお酒もあまり飲まず、歌わず、寡黙でおとなしい印象でしたね。10代のころからずっと応援してきたので、今回の優勝には夫婦で涙。いま思い出しても……

 そう話しながら改めて涙を流し喜んだのは、稀勢の里が所属する田子ノ浦部屋の前身の鳴戸部屋があった千葉県松戸市に住む50代の女性。

 また、同じく鳴戸部屋の近所に住んでいたという別の女性は、

昔、ウチの物置小屋の屋根が強風で吹っ飛んじゃったことがあったんです。飛んだ屋根を運ぼうにも私たちだけじゃ大きいし重いし、どうにもならないところを、まだ10代の稀勢の里関や鳴戸部屋の若い弟子数人が運んでくれてすごく助かった。それ以来、大好きなので、できるだけ長く横綱でいてほしいです

 気は優しくて力持ち。10代のころから“心技体”の“心”は横綱クラスだった。

なじみの店主たちが語る素顔

 かつて部屋のあった松戸市だけでなく、現在の部屋がある東京都江戸川区小岩でも喜びの声は大きく、部屋の前には連日ファンが集まっており、都内や地元の茨城だけでなく、関西から訪れた人も。ファンの応対のため部屋から出てきた田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)に悲願の綱取りについて話を聞くと、

「うれしいけど、正直、大変なのはこれからだな」

 と喜びつつ気を引き締めた。

 稀勢の里が場所前に頻繁に訪れる小岩の寿司店『辰之鮨』の大将・中村和範さんは、

「9月場所のときは前日に来てくれたんだけど初戦で負けちゃって。ゲンが悪いと感じて来てくれなくなったらどうしようって思ったけど、その後も来てくれてよかった(笑)。ウチでは量は食べないよ。後輩を連れてきて、彼らにいっぱい食べさせてあげてるね。横綱の好物は茶碗蒸し。これだけは必ず2つ頼んでくれます。ウチに来たときは冗談を言ったり、よく笑ってますよ。素顔は本当に普通の30歳の若者です

 部屋からほど近く、稀勢の里も時折、訪れるという『小岩やぶそば』は優勝以降、部屋を訪れたファンたちが立ち寄る人気店となっている。

「ウチのお店ではおそばとご飯ものを頼まれますね。親子丼を頼むことも多いのですが、使っている鶏が茨城県の奥久慈産なので、郷土愛から注文していただいてるのかもしれません。小岩駅には元横綱栃錦の銅像がありますが、それに並ぶくらい、いや超えるくらい強くなってほしいです」(店主の新井啓介さん)

 寿司同様に、こちらでも食べる量はそれほど多くなく、意外にも小食らしい新横綱。

「すごい量を食べるというイメージはありませんね。ご飯ものとのセットといっても男性でしたら普通の量で、それほど多くはないですね(笑)」(前出・新井さん)

 生まれ育った茨城県の龍ケ崎市(中学2年生まで)や牛久市の商店街は、優勝記念セールを開催。牛久市にある洋品店では、女性の冬物衣料が全品半額に。後援会の面々との食事でよく利用するという中華料理店『甲子亭』は“稀勢の里の好物が食べられる店”として、優勝以降、電話が鳴りやまないほどの繁盛が続いている。

「来られたときは握手やサインに快く応じてくれる素敵な人です。学生時代のお友達とは今でも仲がいいみたいで、まったくのプライベートでいらっしゃったこともあります。よく頼まれるのはエビチリやタンタンメンですね」(店長の池辺昭子さん)

中学時代の“ほっこり”するエピソード

 稀勢の里を取材し続けている相撲ライターが語る。

稀勢の里は、貴乃花親方をすごく尊敬しているんです。実際、入門するときも、貴乃花部屋にしようか迷っていた。でも、孝行息子の彼は、より実家に近い鳴戸部屋に入門したようです。貴乃花親方自身も、以前から稀勢の里に目をかけていました。相撲界は、彼が頑張らないとダメだと。大切にしていた自分の腕時計をプレゼントしたほどです」

 中学校の同級生によると、

中2のときは合唱コンクールの練習が嫌で逃げ回っていたんです。それでよく女の子たちに怒られていましたね

 しかし、鳴戸部屋入門が決まった3年生のころには、

学校で過ごせる時間が少ないと気づいたのか、積極的にクラスの行事に参加するようになった。そして秋の合唱コンクールでは、みんなの前に立って指揮者をやったんです。不器用なんですが一生懸命、指揮の練習をしていました。

 担任の先生が“ゆたかにとって、みんなが最後のクラスメートになるんだよ”ってクラスで話をしたことがあるんですが、そしたらその合唱コンクールで優勝しちゃった。鳴戸部屋に入門するとき、そのときのCDを持っていって、稽古がつらいときに聴いたって話を聞いたことがありますね」(前出・同級生)

中学3年時の合唱コンクールでは指揮者に(稀勢の里資料室蔵)

 稽古の厳しさで知られる鳴戸部屋。ひとりで地元から出てきた彼にとっては、仲間たちの声が入ったCDが心の支えになっていたのかもしれない。

 新弟子時代から稀勢の里を見ているという、松戸市の70代の男性は、

「昔は稽古を見学できたから、よく見に行ったよ。先代の親方は本当に厳しい人で、稀勢の里はいつも身体が土で真っ黒になるほど、倒され、鍛えられていたね。でもそのときに受け身を覚えたから、休場をしない頑丈な力士になったんだと思う」

 新たな戦いとなる三月場所は、3月12日から大阪で始まる。横綱としての初優勝はもちろん、綱取りに続いて嫁取りにも期待したいというのは大きなお世話か──。